ホリエモン後の世界がかかえる深刻な矛盾

「長げー」、「読みづれー」と言われたので、短くわかりやすく書き直しました。*1
古いバージョンは、この記事の末尾に添付してあります。

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■なんでホリエモンをかばうわけ?■

ヒューザーの小嶋社長がテレビで悪しざまに言われても、なんとも言わない人が、ホリエモンがテレビで悪く言われると、反発をおぼえるのはなんでだ?
ホリエモンだって極悪なことしてるじゃん。
ホリエモンは、いいこともいっぱいやってくれたし、これからもするはずだったって?
そりゃ幻想だ。
ホリエモンは、既得権益にしがみつく人たちを取り払って、風通しのよい世の中にしてくれると思ってるんだろうけど、それは、えらい勘違いだ。

■ホリエモンは日枝会長とたいして変わりない?■

ホリエモンが世の中をよくしてくれるってのは、イメージだけで、実体はない。実際には、ホリエモンが成功すれば、ホリエモンが別の既得権になって、腐敗するだけだ。そんなもん応援してもたいして意味ないって。

ホリエモンがやろうとしていることは、オジサン世代がいままでやってきたことと変わらない。居すわっているボスザルを追い出して、自分がボスザルになることだ。日枝会長だって、むかしは、ホリエモンと同じことやって、フジテレビをのっとったんだし。

そもそも、ホリエモンの書いたノウハウ本って、とくに目新しいことは書いてない。ホリエモンみたいなことをいうキャラは、オジサン世代にもいくらでもいた。そんな珍しくもない。

つまり、具体的なビジネスのやりかた、賢さとか合理性とか、そんな部分では、とくに革新性はない。

ホリエモンがカッコイイところは、既得権益を牛耳っているやつと正面から戦うところだ。だけど、それって、たんなる権力闘争でしかないんだよね。若いサルが老いたボスザルに挑戦しているだけだ。

■ホリエモンを応援する若いやつは、自民党を応援する田舎の農家と同じ■
彼は、若者たちのために戦っているようなことを言っているし、実際、彼が権力を牛耳ることができてたなら、若い人をどんどん起用しただろう。だから、若者にもチャンスが増えるわけだ。つまり、若い人が彼を応援するのは、単に、自分たちの利権が大きくなるからにすぎない。それって、たんなるパイの奪い合いなんだ。地方の農民が、おらがまちに、中央から補助金を引っ張ってきてくれる自民党の政治家を応援するのと変わりない。現実にはね。

■ホリエモンが世の中をよくしてくれる?■
だから、そういうたんなる権益争い以外の理由でホリエモンを応援する人たちは、彼がより世の中をよくしてくれると勘違いしている。そもそも、よい世の中ってなんだ? みんながお腹いっぱい食べられて、欲しいものを欲しいだけ買える社会か?
違うだろ。それは、オジサン・オバサン世代にとってのよい世の中のイメージだ。いまよりももっと激しく働いて、もっと金を稼いで、もっとたくさんのものを買いたいって? 違う違う。

いまの人たちの価値観からすると、そんな、お金とかものとか、そんな物質的な豊かさをひたすら追求して、朝から晩まで働きつづけるなんて、アホらしい。

じゃあ、いまの人たちにとって、よい世の中ってなんだ?
それは、みんなが、自分らしく(個性)、自分の好きなように(自由)、自分独特のやりかたで(独創性)生きられる世の中ってことでしょ。

■個性・自由・創造性とか言ってるヤツは、子供が「雲のうえに乗って遊びたい」って言ってるようなもん■
でも、そんなの幻想なんですよ。そんなの「原理的」にありえない。そんな考えでは、組織が回っていかない。だって、組織と個性・自由・創造性って両立しないもん。個人の個性・自由・創造性がのびのびと広がれる会社ですって台詞は、会社のパンフレットに書かれている営業トークだよ。そんなの信じちゃだめだって。

そして、組織が個人の個性・自由・創造性を押しつぶすのは、オジサン世代が、そういう組織にしてしまったからではないんだ。原理的に、組織は、個人の個性・自由・創造性をおしつぶすことでしか、効率を上げられない。強い組織になれない。そして、これは、ホリエモンのライブドアでもGoogleでも同じことなんだ。

だから、そもそも、みんなが、自分らしく(個性)、自分の好きなように(自由)、自分独特のやりかたで(独創性)生きられる世の中にならないからって、いまの社会に不満を持っている人たちは、子供が「雲のうえに乗って遊びたい」って駄々こねているのと同じだ。

だから、ホリエモンの挑戦が、いまの個性・自由・創造性を押しつぶすような腐敗した構造への挑戦だと思っているのは、すごい勘違いなわけ。

なんでかって?

じゃあ、それを実例を用いて説明するよ。

■企業が個人の個性・自由・創造性を押しつぶすのは避けられない■

たとえば、ウォルマートという会社(小売業)。この会社の信念は、「安くすれば絶対に客はくる」だ。そして、「毎日低価格」が標語だ。バーゲンセールなどやらず、毎日、バーゲンセールの激安価格で販売する。そのために、偏執狂的に無駄を省き、コスト削減する。在庫ロスや販売機会ロスを徹底排除する。そして、たとえば、この会社で、ある、個性豊かで、創造性豊かな社員が、高い粗利を稼げる商品を会社側に提案したとする。実によくできた独創的な商品であり、優れたビジネスモデルであり、高い利益が出るのは間違いない。しかし、ウォルマートはたぶん、この提案を認めない。なぜなら、それは、ウォルマートの価値観に沿わないからだ。ウォルマートは、粗利を小さく、できるかぎり原価に近い値段で品物を売ることが、自分たちの繁栄をもたらしてきたと信じているし、今後もそのやり方で、ずっと商売を続けていくつもりだ。そして、その価値観は、企業文化となって、全社員で共有されている。だから、「高い粗利」などアイデアは、邪教の考えとされ、病原菌のように嫌われる。まるで、カルトのように、「毎日低価格」「毎日低コスト」を全社員が無条件で信奉し、崇めなければならない。この価値を受け入れない者は、やがて居たたまれなくなって、この会社を出て行くしかなくなるだろう。そこでは、会社の宗教と合わない創造性など、価値は認められない。

■強い企業ってのは、カルトみたいに、価値観で従業員を支配する■
そして、企業にかぎらず、ほんとうに強い組織というものは、すべからく、このようにカルト的性格をもっている。ある特定の価値観以外、ぜったいに認めない。そして、それは、企業の選択と集中の究極の姿なのだ。
とくに、企業のような営利組織の場合、自由市場においては、ほんとうに強い企業、すなわち、選択と集中をしている企業しかどんどん生き残れなくなってきている。そして、選択と集中というものは、そこで働く人間に、自由で、個性的で、創造的な働き方を許さない。「Ladies and gentlemen serving ladies and gentlemen(紳士淑女にサービスする紳士淑女)」という選択と集中をしているホテル会社が強いのは、その会社の、あらゆる組織と仕事が、この集約されたコンセプトにしたがって構造化され、運営されているからだ。その枠からはみ出すような、一切の独創性をつぶしているからだ。ターゲット顧客は、紳士淑女に決まっており、それ以外の顧客を開拓することは許されない(=自由がない)のだから、広告部門は、何十時間も時間をかけて議論して意見のすり合わせするまでもなく、広告を出向する広告媒体を選べる。ようは、紳士淑女の読む雑誌であり、紳士淑女の訪れるWebサイトであり、紳士淑女の見るテレビ番組である。行われる議論は、すべて、細かい各論でしかなく、「そもそもどのようなターゲットを狙えばいいのか」などという根本的な議論は行われない。それを疑うことは、クリスチャンがマリア様の処女懷妊を疑うくらい犯罪的なことだからだ。人事部門も、どのような人材を採用するのか、細かい各論以外の議論はしない。個性的な社員が必要なのではなく、紳士淑女の社員が欲しいだけだからだ。紳士淑女の枠からはみ出す個性など、まっぴらごめんなのだ。だから、Howのレベルの議論はしても、Whatのレベルの議論はしない。基本的には、紳士淑女を採用するに決まっていて、それに議論の余地なんかない。議論するとすれば、具体的に、どうやったら紳士淑女を採用できるのか、というHowの議論だ。これは、広報部門も、営業部門も、マーケティング部門も、企画部門も、デザイン部門も、すべて、同じだ。ある一つの宗教を絶対的に信奉しなければならず、それ以外は、どんなにすばらしいものであっても、全否定される。それをやりたきゃ、出て行けと言われる。そして、だからこそ、そのホテル会社は、わかりやすい、確立したブランドとして、人々の心の中にポジションを確保する。他の会社が、紳士淑女向けのホテル会社とのアライアンスが必要になったときに、真っ先にこの会社を思い浮かべ、コンタクトを取る。それが、この企業の強さであり、収益の源泉だ。

■企業の選択と集中は、免疫システムのように異物を排除する■
別な見方をすると、こういう強い企業は、人の免疫システムににていて、自己と非自己を精密に区別し、明確なアイデンティティーを維持する。異物が侵入すると、非自己として抜け目なく検出し、マクロファージがうねうねやってきたり、B細胞がやってきて抗体を産生して、異物を攻撃し、排斥するわけだ。そうして、生物のからだが維持されているように、会社の選択と集中を維持する。

■有能な社員ってのは、会社という宗教に帰依する社員のことだ■
だから、そういう強い企業が求める「有能な社員」とは、個性的で、創造的で、自由な発想のできる社員じゃない。まずなにより、その企業の宗教に絶対的に帰依する社員だ。その宗教を心から信じている敬虔な信者である。どんなに仕事ができても、金儲けがうまくても、独自の個性をもち、宗教の枠からはみ出るような邪教徒などいらない。

そして、世の中の上質なサービスや商品は、すべからく、これらのカルトによって生み出されている。ビトンがビトンのクオリティーをだせるのは、ビトンの社員がビトン教に帰依しているからだ。セブンイレブンの店舗あたり売り上げが飛び抜けて高いのは、セブンイレブンの社員がセブンイレブン教を崇めているからだ。けっして、セブンイレブンが、社員の多様な個性と、価値観を認めているからじゃない。

■「お金がすべて」の方が、逆に自由で風通しがよい件について■

ただし、一流の企業になるためには、このような選択と集中が必要だが、二流の企業でもいいというのなら、多様な個性と価値観が同じ企業のなかに許されることがある。それは、「お金だけの関係」で構築された組織である。そういう二流の会社においては、社員は、自分の個性と、価値観にしたがって、自由に、独創的な企画をつくり、会社側に提案することができる。会社は、「その企画が儲かるかどうか」しか気にしない。お金だけが唯一の判断基準だ。上司の口癖は、「儲かるんだったら、好きにやれば」である。

だから、社員の個性を潰し、自由を奪い、独創性の芽をつむ一流企業なんかより、お金大好きの拝金主義な企業の方が、よっぽど個性的で独創的で自由に仕事ができそうに思える。堀江さんにとって、ライブドアが実際に単なる金儲けの手段だったかどうかはしらないが、もしそうだったら、いわゆるとっても「実業」な企業なんかより、よっぽど風通しがよく、自由に働ける職場だったのではないだろうか。そして、この点が、「お金がすべて」みたいな言い方をする拝金主義者のホリエモンに、人々がある種のすがすがしさのような、好ましい感じを抱いた理由の一つなのではないだろうか。ようは、お金で割り切る、ということは、お金以外の個性や価値観をお互いに尊重し合う、ということなのだから。お金以外の価値観を持ち出して、他人のことをあーだこーだ評価するのは、うっとうしいのである。それは、いいも悪いも、あんたが個人的に思ってるだけだろ。おまえの意見を押しつけんなよ。そういう感じだ。

■大きな会社だけでなく、小さな会社でも同じこと■
そして、これは何も、セブンイレブンだのライブドアなどと言った、おおきな会社組織の話だけではない。ほんの数人しかいないような、弱小ベンチャーですら、選択と集中をするか、すべてをお金で割り切るかのどちらかのやりかたしかない。(実際には、中間形もけっこうあったりするが)

■選択と集中の本質は、会社の宗教に合わなければ、儲かることでもやらないってことだ■
選択と集中の基本は、お金以外の価値基準で、やることとやらないことを、価値あることと価値のないことを決めるということである。すなわち、どんなに儲かるプロジェクトでも、どんなに大ヒットしそうな企画でも、それが、その企業の価値観に合わない限り、ぜったいにやらないことだ。それが、選択と集中ということだ。そして、この「お金以外の価値基準」というのがやっかいなのだ。その価値基準というのは、基本的には、絶対的な根拠はない。宗教と同じで、信じるか、去るかしかない。そして、小さな会社の場合、たいていは、社長もしくは、一部の経営幹部の価値基準によって、すべての価値が独善的に決めつけられる。なぜ、この企画はよくて、この企画はだめなのか? それは、それは教祖様の創り出した価値基準に照らして判断される。オウム真理教のように、自分の恋人を教祖様に差し出す必要はないが、少なくとも、会社では自分の個性や独創性は、会社の価値観の枠に納めるようにしなければならない。

■よいマネージメントは個性と組織を両立させるが、限定的な効果しかない■
もちろん、部下たちの多様な個性と独創性を、上手に組み合わせ、強い求心力を持ったある一つのプロジェクトとしてまとめあげることこそが、管理職の腕の見せ所だ。だから、まるっきり個性や独創性がつぶされるというわけではもちろんない。しかし、それは、盆栽のようなもので、あくまで、会社の価値基準という小さな鉢に収まる範囲での個性・自由・独創性しか許されない。小さな水槽のなかを思う存分自由に動き回れるという意味での自由であって、七つの海を駆けめぐれるような自由ではない。それをやりたければ、自分で自分の会社を作るしかない。
ここで、もっとも重要なのは、この、選択と集中による、個性・自由・独創性の抑圧は、ほんとうに避けられないものなのかどうか、ということだ。もしかしたら、オジサン・オバサンたちが思いついていないだけで、個性・自由・独創性と、組織の効率性を両立させるような、そういう理想の組織を作れるのではないだろうか? そういう未来の理想組織の可能性はないのだろうか?

■自由は不自由によって創り出される■
これは、自由というものの性質をよく考えてみれば、簡単に結論が出る。基本的に、自由は不自由によって作られる。たとえば、信号機がいい例だ。信号機とは、不自由そのものだ。それは、ほんらい、いつでも、どちらの方向にも自由に走れる車から、自由を奪い、ある特定のタイミングで、特定の方向にしか走れないように制約する。しかし、その信号機という不自由によって、自動車は行きたい所に自由にいける。もし、信号機がなかったら、道路は大混乱に陥り、交通は麻痺して、行きたい所にいく自由は失われる。まさに、不自由によって自由が生み出されている。また、銀河鉄道999で自由の惑星というのがあったが、そこでは、人殺しの自由がある。そんな惑星では、あぶなくって、外を自由に歩き回ることができない。すなわち、人殺しの自由を奪うことによって、自由に外を歩き回る自由が創り出されているのだ。*2

■世の中の仕組みはどれも、不自由の束によって作られた構造■
そして、より高度で複雑な仕組みというのは、すべて、不自由の糸をつなぎあわせて織り上げることでできている。たとえば、スケジュールというものが、いい例だ。その時間に、好きな所で好きなことをする自由を奪うからこそ、その時間に集まって、会議し、意思決定し、プロジェクトを進めることができる。どのような顧客でも選べる自由を捨て、ある特定の顧客に絞ることにより、製品コンセプトが固まり、ユーザインタフェースの方針がきまり、システムができあがってゆく。また、納期がいい例だ。どんな時間にどれだけ働いても休んでもいいという自由を捨てるからこそ、納期に合わせて品物ができあがる。そして、顧客企業は、そのときにその品物が納品されることを前提に、プロジェクトを進めることができる。あらゆる形で、お互いがお互いの自由を奪うことでしか、現代社会は機能しないし、もっとポジティブな見方をするのなら、独創的な商品を企画し、それを創り上げ、多くの人に使ってもらうということは、すべて、これら、不自由の糸に不自由の糸を重ねて、商品を織り上げていく行為だ。すなわち、創造という行為は、たくさんの自由を捨て、不自由の糸を編み上げることによってしかなしえない。とくに、世の中の多くの人を幸せにするような、すばらしい製品は、実にたくさんの不自由によって支えられている。

■自分探しとは、自分の中の不自由を見つけること■
また、自分探しというのは、自分の中の不自由の構造を見いだすことだ。自分は、あれをする自由がなく、これをする自由がなく、結局、こうでしかありえない。これを選ぶしかない。そういうことを見いだすことだ。
手も足も、決められた場所の関節が、決められた方向にしか曲がらないから、自由に歩くことができる。脳細胞の中を、ある決められたパターンに沿って、神経伝達物質が放出され、インパルスが流れるから、思考することができる。それらに、一切の制約がなく、完全に自由に行われるとしたら、歩くことも、考えることもできはしない。

■お互いに価値観を押しつけ合わなければ、たいしたことはできない■
オジサン・オバサンたちは、お互いに、複雑に絡み合った無数の不自由の束で縛り合うことで、この社会を創り上げ、動かしている。新世代君たちが、オッサン・オバハンたちの編み上げた不自由の束が気に入らず、おまえらの価値観を押しつけるな、オレの個性を侵害するな、というなら、自分たちが気に入るように不自由の束を編み上げなければならない。

この社会で、なにごとかをなそうとすれば、不自由の束を編み上げなければならない。それは、お互いの自由、個性、創造性を侵害しあい、その侵害を、お互いに受け入れるということだ。

「それはおまえの意見にすぎない、おまえの価値観をおれに押しつけるな。おまえはおまえで自由にやれよ。おれはおれで自由にやるから。」そんなことを言っているかぎり、オッサン・オバハンたちに取って代わるような社会の仕組みを作るどころか、もっとはるかにちっぽけなものごとすらなしえない。そんな新世代君が、オッサン・オバハンを批判するのは、子供が駄々をこねているのとなにもかわらない。


■自由なんてありえない中で見いだす自由■
それでは、結局のところ、新世代君たちの理想である、個性、自由、創造性は、現実を知らない子供の幼稚な幻想にすぎないのだろうか? もちろん、その要素はあるだろう。しかし、希望もある。

ここでいう、不自由の束とは、言い換えれば、制約、ルールの束ということである。このルールの束で、お互いを縛り合い、はるかな構造を編み上げることで、個人にはなしえない、すばらしい商品、サービス、社会機能ができあがる。個人のレベルを超えたいかなる創造も、これによってしか生まれえない。しかし、問題は、時間がたつにつれ、こうして不自由の束で編み上げた構造が、特定の既得権益者によって牛耳られ、変更できなくなっていくことだ。これが、現在、オジサン・オバサンたちによって行われている腐敗の構造だ。

■複数あるムカツク理由をごっちゃにするから話がおかしくなる■
新世代くんたちが、オジサン・オバサンにムカついている理由は、複数あって、それがごっちゃになっているから、話が見えにくくなっているにすぎない。オジサン・オバサンたちが、自分たちの価値観を、新世代くんたちに押しつけるとき、(1)価値観を押しつけることそのものにムカツク。(2)押しつけられた価値観が、既得権益者に有利な不当なものだからムカツク(ズルいんだよ!)。(3)押しつけられた価値観が、自分のセンスと合わないからムカツク(きしょいんだよ!ズレてんだよ!)という三つが混じっている。

このうち、(1)は、本質的に、矛盾しているし、間違っているし、勘違いしている。結局のところ、価値観を押しつけ合い、受け入れ合うことでしか、社会構造は作れないし運用もできないからだ。もし、個性、自由、創造性があるとすれば、それは、個性的かつ自由に、不自由の束を編んで構造を創り上げる自由であり、また、不自由の束で作られた構造を自由に変更し、改良する自由である。個々人の個人的な自由が一切侵害されないという意味の自由など、そもそも発想が未熟で幼稚なのだ。

しかし、(2)と(3)は、正当な理由だ。「価値観を受け入れるのはいいが、あんたたちだけに有利な価値観を受け入れなきゃならんというのは、道理がとおらん。また、あんたたちのセンスで作った価値観を受け入れるのもいやだね。おれたちは、おれたちのセンスにあった価値基準で、構造を作らせてもらう。もちろん、どちらかだけが一方的に有利になるようなルールでは、お互い納得しないだろうから、お互いが納得できるようなルールなり構造なりを作り、それをお互いに受け入れることにしよう。」。そういう要求を、オッサン・オバハンたちに、堂々と突きつければいいのである。

■まとめ■
こうしてみると、「個性!自由!創造性!」というのを、そのままの意味で、すべて尊重した理想世界というのは、そもそも「原理的」な矛盾をかかえていて存在不可能だ。だから、それをそのまま主張したのでは、たんなる駄々っ子だ。だから、そんなものはさっさと捨ててしまい、お互いをお互いの不自由の束で縛り合い、もっとオッサン・オバハンたちと、対等に渡り合えるほどリアルな構造を創り上げることを考える方が、はるかに現実的だと思うのだ。

ライブドアを悪だ虚業だと全面否定してしまうオッサン・オバハンたちに対抗するには、そのぐらいの覚悟としぶとさが必要だと思うのだ。

■古いバージョン(もっと詳しい)■
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ホリエモン後の世界がかかえる深刻な矛盾(旧)
ホリエモン逮捕で一区切りついたところで、ホリエモン後の世界における、ある深刻な矛盾について、なんとなくぼんやりと気になっていることを、忘れないうちに書き留めておこうと思います。
「六本木ヒルズというビルの、人々の目への写り方」が、ホリエモン事件の以前と以降で違うのは、わざわざ指摘するまでもない。あのビルは、何かの象徴。なんの象徴か? それは、おおげさで鼻につくが分かりやすい言い方をすれば、ある一つの社会現象、ある一つの時代、ある一つの社会勢力、ある一つのカルチャー。「それ」が、一つの節目を迎えた。だから、ビルについている色が変わった。もっと正確に言えば、変わったのは、人々がそのビルを眺めるときの色眼鏡の色の方だ。あのビルにつぎ込んだ膨大なお金を回収したい森ビルさんにとっては、あのビルの値段が変わったことが主な気がかりだろうけど、ぼくの興味は別の部分。
既得権益にしがみついて社会を淀ませているオジサン・オバサン勢力が、「それ見たことか。」「ものづくり最高。汗水!IT!バーチャル!虚業!」といくらやっても、とったつもりになってる「それ」は、鬼の首じゃない。「それ」、すなわち「オジサン・オバサンが実際にとったもの」は「何」なのか? 逆に「とられなかったもの」は「何」なのか? 「ライブドアは虚業だったかもしれないが、私たちが見たものは夢ではなかった」といいたいのなら、じゃあ「私たちの見たもの」とは「何」なのか? そして、それは今後どうなっていくのか? そのいちばん肝心な部分がが誤魔化されているのではないか? もしかしたら、それって、毎日いじわるな継母にいじめられている少女が、「いつかきっとほんとうのお母さんがわたしを救い出しに来てくれるに違いない」という妄想を抱いているようなものじゃないのか? これが、子ども向けの絵本だったなら、ほんとうのお母さんに会えてハッピーエンド。だけど、これは、大人向けの物語だ。本のただし書きに、「残酷な結末が含まれているため、18歳未満のお子さんにはお見せにならないでください」とか書いてあるかもしれない。
それは、これからのぼくたちの努力次第?一昔前の少年マンガじゃないんだから、努力がかならず報われるわけじゃないってことぐらい(ry。 でも希望を捨てちゃいけない? もちろん、希望は持ちつづけなきゃならない。けれど、希望を持ちつづけ、努力をしつづければ、必ず夢がかなうってのは、それこそ、昭和時代のやたらカクカクした陳腐なアニメーションストーリーだ。
もちろん、新世代君たちは、そんなことは分かっている。だから、いつも漠然とした不安がある。世の中どんどん悪くなっているのじゃないかとか、未来は暗いとか、そんな不安が、希望といっしょに、心の中に同居している。そして、なんで不安なのかというと、ようするに、あまり具体的なイメージを抱けていないからだ。単なる空想で、ビジョンというほどはっきりしたものになっていないからだ。今後のシナリオがろくに描けてないのだ。
だから、ここでつぎに考えるべきことは、この漠然としたイメージを、もっと具体的なイメージに落としこむことだ。そもそも、具体的なイメージなしに、とにかく納得しろとオッサン・オバハンにいったところで、子供が駄々をこねているようにしか聞こえないだろう。
新世代君たちは、いまのこの不快な社会構造を壊したあと、再構築するつもりでいる、いまよりはずっとマシな社会を、漠然とイメージしている。そこでは、人々は、自分らしく(個性)、自分の思い通りに(自由)、自分なりのやり方で(創造性)生きていける。もちろん、新世代君たちは、ユートピアなんか信じちゃいない。彼らは、社会のほとんどの人が幸せに生きていけるユートピアなんてありえないということは、よく知っている。いまよりは、だいぶマシな社会を作れるだろう、ぐらいに思っているだけだ。だから、ここでの問題は、それって、ほんとに、いまよりも「だいぶマシな社会」になるのか? ってことだ。
オジサン・オバサンたちに言わせれば、「いまのやり方が気に入らないから壊したいのは分かった。じゃあ、壊したあと、具体的に会社をどう運営すればいいわけ? お互いの個性を尊重して自由にやるのはいいけど、その場合、オジサン・オバサンたちが、いま、命令指揮系統というやり方でオペレーションしている組織を、具体的にどのように運営するわけ? 個性の尊重はいいけど、意見が合わないときはどうするわけ? いちいち納得のいくまで話し合ってたら、能率が悪くって、仕事が進まないじゃん。結局、だれかが権限をもって、みんなに命令するような組織にしなきゃ、回らないんだよ。行政は? 教育システムは? 福祉は?」となるだろう。つまり、オジサン・オバサンにしてみれば、新世代君たちは、単に現実が見えていないで駄々をこねてるだけの子供にしか見えない。いざ、世の中のさまざまなことを、具体的に回していこうとしたら、結局オジサン・オバサンたちがいまやっているやり方でやるしかないんじゃないの? 新世代君たちは、世の中ってものが分かってないから、わがままを言ってるだけなんだよね。子供がデパートの床に転がって「オモチャ買って〜!」と泣きわめいているのと大差ないんじゃないの? それがオジサン・オバサンたちの言い分だろう。
また、新世代君たちが具体案を示したとしても、それが、掲げている理想やイメージの部分だけが現状と異なっているだけで、いざ、現実的にどのような行動をするか、という詳細なレベルまでブレークダウンすると、それがオッサン・オバハン世代が現在運営している構造と大差ないものだったり、少し手を加えるだけで済むような、オッサン・オバハンたちの構造と基本的に同じものだったら、どうだろう? その場合、それは単なるラベルとパッケージの張り替えと、牛耳るプレーヤーの交代にすぎず、新世代君たちの主張は、単に、「おまえらだけおいしい思いをしやがって。オレたちにもそのおいしい既得権益をよこせ」といっているにすぎなくって、それは、単に、既得権益を奪い合うゲームにしか過ぎず、奪ったあとは、こんどは新世代君たちが既得権益を牛耳って社会を淀ませるヘドロになるだけだ。それは、チンパンジーの権力争いとほとんど同じで、そこには正義も大義名分もありはしない。
もちろん、ぼくは、「新世代君が既得権益を牛耳って腐敗し、社会を淀ませること」それ自体は、ごく自然なことだし、たとえそうなったとしても、それ自体は新世代君たちのイメージする新しい構造に移行することを否定する理由にはならないと思う。たとえそうであったとしても、オジサン・オバサンの構造より優れた構造に移行して、そのバージョンアップされた構造でより悪臭の少ない腐敗をするのなら、同じ腐敗とはいえ、構造においても腐敗においても、移行する価値も正当性も十分にあると思うのだ。だから、問題は、その新しい構造と現状との差異が、どれほどのものなのか、という点になる。
ところが、それらを検討するために、この漠然とした新世代君たちの理想を、いざ具体的なイメージに落としこもうとすると、ある深刻な矛盾に突き当たってしまうことがわかる。そして、その「矛盾」こそが、この記事のテーマなのだ。それはいったいどのようなものなのか? そもそもそれは克服可能なものなのか? もし、克服可能でないとすれば、それは死刑囚が固く冷たいベッドの上で見る温かい家族の夢にすぎない。また、その矛盾を克服するために、その理想に重大な修正を加えなければならないとしたら、それはいったいどのようなものなのか? 新世代君たちは、それを実現するために、いったい「何」を受け入れなければならないのだろう?
この、「新世代君たちの理想がかかえるある深刻な矛盾」について考えるためには、そもそも、その、「新世代君たちの理想」とはなんなのかを、もう少しはっきりさせなければならない(やたらと「そもそも」が多くなるな。「そもそも」のレベルで未整理の問題が多すぎるから?)。
ぼくの印象では、新世代君たちの価値観というのは、自分らしく(個性)、自分の思い通りに(自由)、人マネではない自分流やり方で(創造性)生きていきたい、というあたりにあると思う。もちろん、こんな価値観は、それこそ、何百年も前から、理想として掲げられていたもので、ほとんどアンティークな響きすらある。だけど、新世代君たち以前の世代では、建前上はそれが最上の価値ではあったとしても、環境的な要因により、きれいごとにすぎなかったと思うのだ。
砂漠をさまよって、喉がカラカラの人は、とにかく「水、水、水、水、水、水、水、水、水。。。」と、それだけで頭が一杯で、それ以外のことを考えられない。そんな人に、身だしなみやお洒落の大切さを説いて、その人がそれを頭で理解したとしても、実感が分かず、それが価値観として精神に根を降ろすようなことはない。しかし、その人が、ひとたびオアシスにたどりついて、水を好きなだけ飲めるようになると、こんどは、お腹がすいた、飯が食いたいと考えはじめる。そして、オアシスで水を飲んでいる動物を仕留めて焼いて食べ、腹が満たされると、こんどは、夜露をしのげるような住処が欲しいとか、異性が欲しいとか考える。そしてそれが満たされると友達が欲しいとか、社会で認められたいとか、考えはじめ、やがては身だしなみの価値も実感できるようになり、さらに、その先も、まるでゲームのステージをクリアするように、どんどん高次の欲求がでてくるわけだ。
そして、戦後の高度経済成長期とは、物質的欲求や経済的欲求を満たすことに、みんなが奔走した時代だったと思うのだ。砂漠をさまよう人が、水のことで頭が一杯になってしまうように、経済的に豊かになることで、頭が一杯になっている状態だ(いまは、お隣の12億人がそんな状態だね)。そういう人たちに、「個性!創造性!自由!」と言ってみたところで、そんな価値観は、精神の深くにまで根を降ろせない。そんなことより、まずは物質的に豊かになりたいという欲求が情動を駆り立てるのだ。戦後のアジア各国における目覚ましい経済発展が、自由民主主義的な体制下ではなく、権威主義的な体制下で行われたというのも、納得できる話だ。現実には、人は、経済的豊さや便利さと引き替えに、平然と自由を売り渡してしまう。自由に生きられる貧しい国よりも、いいたいことも言えないけど豊かに暮らせる国の方を選ぶのだ。*3
しかし、高度経済成長の狂騒と乱痴気騒ぎが終わったあとに少年期・青年期を過ごした新世代君たちは、もはや、砂漠をさまよっている人たちではなく、物心ついたときは、すでにオアシスのほとりにいた人たちだ。オアシスのほとりで、その人格と文化が形成された人たちだ。だから、オジサン・オバサン世代が、建前だけ取り繕って理想論で「個性!創造性!自由!」と言ってきただけなのと異なり、これらの価値観が、もっと精神の深いところまで、根を下ろしているのではないだろうか。
もちろん、新世代君たちに、「個性」「創造性」「自由」を教えてきたのは、オジサン・オバサン世代だ。「自分の好きなことをやって生きなさい」と教えてきたのは、オジサン・オバサン世代だ。だけれども、当の彼らは、「個性」「創造性」「自由」のありがたさより、テレビ、洗濯機、冷蔵庫、自動車、エアコンのありがたさの方を実感しながら育った世代なのだ。オジサン・オバサンが可憐な少年少女だったころ、それら文明の利器(死語)が家庭に来たときの家族みんなの喜ぶ顔が、幸せイメージとして刷り込まれてきたのじゃないだろうか。それらの、物質的豊さと家族の笑顔がいっしょのイメージとして彼らの人格を形成しているのじゃないだろうか。
テレビのない世界にテレビが登場することの精神的インパクトを、新世代君たちが、「どのくらいリアルに実感できるのだろうか」と、ときどき思う。洗濯機のない世界に洗濯機が登場することの衝撃とは、洗濯機なんかあたりまえになった現代において、洗濯機が家庭に来る喜びなどとは、まるで比較にならないだろう。*4 水木しげる(ゲゲゲの鬼太郎の作者)が、「飢えるということは、単にお腹がすくということとは違う」と書いていたのを思い出す。「ずっと腹が空いているのに、食えない、ということで、じわじわと、足元から絶望感が這い上がってくる感じ」だそうだ。その文を読んだとき、飢餓ということを甘く見ていた自分を心底実感したものだ。
新世代君たちにとって、冷蔵庫のない世界に冷蔵庫が登場することの精神的な感触の実感は、この飢餓の実感と同じで、かなり想像しにくいことなのじゃないだろうか。だから、そういう、新世代君たちの想像できないような時代の空気と感覚世界の中で、子供時代を過ごし、人格を形成されたオジサン・オバサンにとって、「個性」「創造性」「自由」という概念の持つ「実感」は、新世代君たちとはかなり異質なものなんじゃないだろうか。それは、なんていうか、洗濯機や冷蔵庫のような、リアルに実感できる価値とは違って、たんなる、理想論というか、どことなく机上の空論のような感じのあるものなんじゃないだろうか。
だから、オジサン・オバサンたちが、新世代君たちに「個性」「創造性」「自由」を教えるとき、その言葉は、十分な実感をともなわない、血の通ってない、無機質で、抽象的で空虚なものにならざるをえなかったのじゃないのだろうか。オジサン・オバサンは、「個性」「創造性」「自由」と言われても、本音のところでは、未来少年コナンのジムシー的な「なんだそれ 食えるのか」という空虚さがぬぐいきれないのじゃないかと思う。ジムシーにとっては、食欲の対象かどうかでものごとの価値を判断するのが習い症になっているのに、食欲以外の欲望の対象を示されても、いまいちピンとこないのじゃないのか。
これに対し、新世代君たちの少年時代は、テレビ、洗濯機、冷蔵庫、自動車、エアコンなど、水や空気のようにあってあたりまえで、そういう魅力的な魔法の機械をもっている友達をうらやましがるという体験もほとんどない。オアシスのほとりで生まれた人たちは、水への欲望も水への感謝も希薄だ。水があるということでいちいち騒ぎ立てるオジサン・オバサンはしらけるだけだし、そんな物質的なもの、すなわち経済的豊さに必要以上に大きな価値を感じてしまうオジサン・オバサンは低次元の生き物であるように感じられるのだ。もはや、水は人生の重大事ではないのに。もちろん、いまでも、働いて経済的豊さを得ることが、人生の重大関心事の一つであることには変わりない。オアシスのほとりに住んでいるから、喉が乾かなくなるわけじゃないのと同じだ。しかし、いまやそれはたくさんある関心事の一つでしかなく、オジサン・オバサン世代のように、それが人生の中心になったりはしない。オアシスのほとりで生まれ育ったものにとっては、水を中心に人生を組み立てるなど、アホらしくてやってられないのだ。
しかし、水への欲望が満たされてなくなったからといって、欲望そのものがなくなるわけじゃない。次のステージの欲望がでてくるだけだ。つまり、自分らしく(個性)、自分の思い通りに(自由)、自分のオリジナルのやり方で(創造性)生きていきたいという欲望の出番になる。
ところが、いざ、これらの「個性」「創造性」「自由」という価値観で生きられる社会を作ろうとすると、先程言った、ある、本質的かつ深刻な矛盾に直面する。
そもそもまず、互いの個性と自由を尊重するには、極力、自分の意見を他人に押しつけてはいけない。意見が対立しても、それは、どちらが間違っているとかはいっちゃいけなくって、「ぼくの意見は、君の意見と違うね」っていわなきゃならない。また、「おまえは、こうしなきゃならない」というように、他人の自由を侵害するようなことも言ってはいけない。つまり、命令はいけない。一人一人が一個の独立した人格であり、それは、侵害してはならないものなのだ。だから、人と人とが何かをいっしょにやるときは、話の合う人と、話の合う側面でだけいっしょにやり、それ以外の価値観の相違する部分には、極力触れないようにする。
こういう関係は、たんなる友達とかサークルなどのゆるい関係なら、とくに問題はない。しかし、複数の人間が、力を合わせて具体的に何か一つのことをしようとすると、困難にぶちあたる。
世の中には、個人の力ではできないことがたくさんある。個人と個人をつなぎあわせ、組織にすることでしかなしえない大きなことが、たくさんある。それどころか、人類という種が、これほどまでに繁栄しているのは、高度な組織能力のゆえである。現在の世界の繁栄、とくに、先進国における未曽有の繁栄は、すべて、強力な組織化なしではまったくありえないものだ。われわれが組織というものを否定したとたん、現在享受しているとてつもない豊さは、すべて幻と消える。
そして、組織、とくに、強力なパワーを発揮する強い組織というものは、個性、自由、創造性を著しく侵害する。個人の個性、自由、創造性を侵害しない強い組織などというものは「原理的に」ありえない。
なぜか?
たとえば、ウォルマートという会社(小売業)の例で考える。この会社の信念は、「安くすれば絶対に客はくる」だ。そして、「毎日低価格」が標語だ。バーゲンセールなどやらず、毎日、バーゲンセールの激安価格で販売する。そのために、偏執狂的に無駄を省き、コスト削減する。在庫ロスや販売機会ロスを徹底排除する。そして、たとえば、この会社で、ある、個性豊かで、創造性豊かな社員が、高い粗利を稼げる商品を会社側に提案したとしよう。実によくできた独創的な商品であり、優れたビジネスモデルであり、高い利益が出るのは間違いない。しかし、ウォルマートはたぶん、この提案を認めない。なぜなら、それは、ウォルマートの価値観に沿わないからだ。ウォルマートは、粗利を小さく、できるかぎり原価に近い値段で品物を売ることが、自分たちの繁栄をもたらしてきたと信じているし、今後もそのやり方で、ずっと商売を続けていくつもりだ。そして、その価値観は、企業文化となって、全社員で共有されている。だから、「高い粗利」などアイデアは、邪教の考えとされ、病原菌のように嫌われる。まるで、カルトのように、「毎日低価格」「毎日低コスト」を全社員が無条件で信奉し、崇めなければならない。この価値を受け入れない者は、やがて居たたまれなくなって、この会社を出て行くしかなくなるだろう。そこでは、会社の宗教と合わない創造性など、価値は認められないのだ。
そして、企業にかぎらず、ほんとうに強い組織というものは、すべからく、このようにカルト的性格をもっている。ある特定の価値観以外、ぜったいに認めない。そして、それは、企業の選択と集中の究極の姿なのだ。
とくに、企業のような営利組織の場合、自由市場においては、ほんとうに強い企業、すなわち、選択と集中をしている企業しかどんどん生き残れなくなってきている。そして、選択と集中というものは、そこで働く人間に、自由で、個性的で、創造的な働き方を許さない。「Ladies and gentlemen serving ladies and gentlemen(紳士淑女にサービスする紳士淑女)」という選択と集中をしているホテル会社が強いのは、その会社の、あらゆる組織と仕事が、この集約されたコンセプトにしたがって構造化され、運営されているからだ。その枠からはみ出すような、一切の独創性をつぶしているからだ。ターゲット顧客は、紳士淑女に決まっており、それ以外の顧客を開拓することは許されない(=自由がない)のだから、広告部門は、何十時間も時間をかけて議論して意見のすり合わせするまでもなく、広告を出向する広告媒体を選べる。ようは、紳士淑女の読む雑誌であり、紳士淑女の訪れるWebサイトであり、紳士淑女の見るテレビ番組である。行われる議論は、すべて、細かい各論でしかなく、「そもそもどのようなターゲットを狙えばいいのか」などという根本的な議論は行われない。それを疑うことは、クリスチャンがマリア様の処女懷妊を疑うくらい犯罪的なことだからだ。人事部門も、どのような人材を採用するのか、細かい各論以外の議論はしない。個性的な社員が必要なのではなく、紳士淑女の社員が欲しいだけだからだ。紳士淑女の枠からはみ出す個性など、まっぴらごめんなのだ。だから、Howのレベルの議論はしても、Whatのレベルの議論はしない。基本的には、紳士淑女を採用するに決まっていて、それに議論の余地なんかない。議論するとすれば、具体的に、どうやったら紳士淑女を採用できるのか、というHowの議論だ。これは、広報部門も、営業部門も、マーケティング部門も、企画部門も、デザイン部門も、すべて、同じだ。ある一つの宗教を絶対的に信奉しなければならず、それ以外は、どんなにすばらしいものであっても、全否定される。それをやりたきゃ、出て行けと言われる。そして、だからこそ、そのホテル会社は、わかりやすい、確立したブランドとして、人々の心の中にポジションを確保する。他の会社が、紳士淑女向けのホテル会社とのアライアンスが必要になったときに、真っ先にこの会社を思い浮かべ、コンタクトを取る。それが、この企業の強さであり、収益の源泉だ。
別な見方をすると、こういう強い企業は、人の免疫システムに酷似しており、自己と非自己を精密に区別し、明確なアイデンティティーを維持する。異物が侵入すると、非自己として抜け目なく検出し、マクロファージがうねうねやってきたり、B細胞がやってきて抗体を産生して、異物を撃し、排斥する。そうして、生物のからだが維持されているように、会社の選択と集中を維持する。
したがって、そういう強い企業が求める「有能な社員」とは、個性的で、創造的で、自由な発想のできる社員ではない。まずなにより、その企業の宗教に絶対的に帰依する社員である。その宗教を心から信じている敬虔な信者である。どんなに仕事ができても、金儲けがうまくても、独自の個性をもち、宗教の枠からはみ出るような邪教徒などいらないのである。
そして、世の中の上質なサービスや商品は、すべからく、これらのカルトによって生み出されている。ビトンがビトンのクオリティーをだせるのは、ビトンの社員がビトン教に帰依しているからだ。セブンイレブンの店舗あたり売り上げが飛び抜けて高いのは、セブンイレブンの社員がセブンイレブン教を崇めているからだ。けっして、セブンイレブンが、社員の多様な個性と、価値観を認めているからではない。
ただし、一流の企業になるためには、このような選択と集中が必要だが、二流の企業でもいいというのなら、多様な個性と価値観が同じ企業のなかに許されることがある。それは、「お金だけの関係」で構築された組織である。そういう二流の会社においては、社員は、自分の個性と、価値観にしたがって、自由に、独創的な企画をつくり、会社側に提案することができる。会社は、「その企画が儲かるかどうか」しか気にしない。お金だけが唯一の判断基準だ。上司の口癖は、「儲かるんだったら、好きにやれば」である。
こうしてみると、社員の個性を潰し、自由を奪い、独創性の芽をつむ一流企業なんかより、お金大好きの拝金主義な企業の方が、よっぽど個性的で独創的で自由に仕事ができそうに思える。堀江さんにとって、ライブドアが実際に単なる金儲けの手段だったかどうかはしらないが、もしそうだったら、いわゆるとっても「実業」な企業なんかより、よっぽど風通しがよく、自由に働ける職場だったのではないだろうか。そして、この点が、「お金がすべて」みたいな言い方をする拝金主義者のホリエモンに、人々がある種のすがすがしさのような、好ましい感じを抱いた理由の一つなのではないだろうか。ようは、お金で割り切る、ということは、お金以外の個性や価値観をお互いに尊重し合う、ということなのだから。お金以外の価値観を持ち出して、他人のことをあーだこーだ評価するのは、うっとうしいのである。それは、いいも悪いも、あんたが個人的に思ってるだけだろ。おまえの意見を押しつけんなよ。そういう感じだ。
そして、これは何も、セブンイレブンだのライブドアなどと言った、おおきな会社組織の話だけではない。ほんの数人しかいないような、弱小ベンチャーですら、選択と集中をするか、すべてをお金で割り切るかのどちらかのやりかたしかない。(実際には、中間形もけっこうあったりするが)
選択と集中の基本は、お金以外の価値基準で、やることとやらないことを、価値あることと価値のないことを決めるということである。すなわち、どんなに儲かるプロジェクトでも、どんなに大ヒットしそうな企画でも、それが、その企業の価値観に合わない限り、ぜったいにやらないことだ。それが、選択と集中ということだ。そして、この「お金以外の価値基準」というのがやっかいなのだ。その価値基準というのは、基本的には、絶対的な根拠はない。宗教と同じで、信じるか、去るかしかない。そして、小さな会社の場合、たいていは、社長もしくは、一部の経営幹部の価値基準によって、すべての価値が独善的に決めつけられる。なぜ、この企画はよくて、この企画はだめなのか? それは、それは教祖様の創り出した価値基準に照らして判断される。オウム真理教のように、自分の恋人を教祖様に差し出す必要はないが、少なくとも、会社では自分の個性や独創性は、会社の価値観の枠に納めるようにしなければならない。
もちろん、部下たちの多様な個性と独創性を、上手に組み合わせ、強い求心力を持ったある一つのプロジェクトとしてまとめあげることこそが、管理職の腕の見せ所だ。だから、まるっきり個性や独創性がつぶされるというわけではもちろんない。しかし、それは、盆栽のようなもので、あくまで、会社の価値基準という小さな鉢に収まる範囲での個性・自由・独創性しか許されない。小さな水槽のなかを思う存分自由に動き回れるという意味での自由であって、七つの海を駆けめぐれるような自由ではない。それをやりたければ、自分で自分の会社を作るしかない。
ここで、もっとも重要なのは、この、選択と集中による、個性・自由・独創性の抑圧は、ほんとうに避けられないものなのかどうか、ということだ。もしかしたら、オジサン・オバサンたちが思いついていないだけで、個性・自由・独創性と、組織の効率性を両立させるような、そういう理想の組織を作れるのではないだろうか? そういう未来の理想組織の可能性はないのだろうか?
これは、自由というものの性質をよく考えてみれば、簡単に結論が出る。基本的に、自由は不自由によって作られる。たとえば、信号機がいい例だ。信号機とは、不自由そのものだ。それは、ほんらい、いつでも、どちらの方向にも自由に走れる車から、自由を奪い、ある特定のタイミングで、特定の方向にしか走れないように制約する。しかし、その信号機という不自由によって、自動車は行きたい所に自由にいける。もし、信号機がなかったら、道路は大混乱に陥り、交通は麻痺して、行きたい所にいく自由は失われる。まさに、不自由によって自由が生み出されている。また、銀河鉄道999で自由の惑星というのがあったが、そこでは、人殺しの自由がある。そんな惑星では、あぶなくって、外を自由に歩き回ることができない。すなわち、人殺しの自由を奪うことによって、自由に外を歩き回る自由が創り出されているのだ。*5
そして、より高度で複雑な仕組みというのは、すべて、不自由の糸をつなぎあわせて織り上げることでできている。たとえば、スケジュールというものが、いい例だ。その時間に、好きな所で好きなことをする自由を奪うからこそ、その時間に集まって、会議し、意思決定し、プロジェクトを進めることができる。どのような顧客でも選べる自由を捨て、ある特定の顧客に絞ることにより、製品コンセプトが固まり、ユーザインタフェースの方針がきまり、システムができあがってゆく。また、納期がいい例だ。どんな時間にどれだけ働いても休んでもいいという自由を捨てるからこそ、納期に合わせて品物ができあがる。そして、顧客企業は、そのときにその品物が納品されることを前提に、プロジェクトを進めることができる。あらゆる形で、お互いがお互いの自由を奪うことでしか、現代社会は機能しないし、もっとポジティブな見方をするのなら、独創的な商品を企画し、それを創り上げ、多くの人に使ってもらうということは、すべて、これら、不自由の糸に不自由の糸を重ねて、商品を織り上げていく行為だ。すなわち、創造という行為は、たくさんの自由を捨て、不自由の糸を編み上げることによってしかなしえない。とくに、世の中の多くの人を幸せにするような、すばらしい製品は、実にたくさんの不自由によって支えられている。
また、自分探しというのは、自分の中の不自由の構造を見いだすことだ。自分は、あれをする自由がなく、これをする自由がなく、結局、こうでしかありえない。これを選ぶしかない。そういうことを見いだすことだ。
手も足も、決められた場所の関節が、決められた方向にしか曲がらないから、自由に歩くことができる。脳細胞の中を、ある決められたパターンに沿って、神経伝達物質が放出され、インパルスが流れるから、思考することができる。それらに、一切の制約がなく、完全に自由に行われるとしたら、歩くことも、考えることもできはしない。
オジサン・オバサンたちは、お互いに、複雑に絡み合った無数の不自由の束で縛り合うことで、この社会を創り上げ、動かしている。新世代君たちが、オッサン・オバハンたちの編み上げた不自由の束が気に入らず、おまえらの価値観を押しつけるな、オレの個性を侵害するな、というなら、自分たちが気に入るように不自由の束を編み上げなければならない。
この社会で、なにごとかをなそうとすれば、不自由の束を編み上げなければならない。それは、お互いの自由、個性、創造性を侵害しあい、その侵害を、お互いに受け入れるということだ。
「それはおまえの意見にすぎない、おまえの価値観をおれに押しつけるな。おまえはおまえで自由にやれよ。おれはおれで自由にやるから。」そんなことを言っているかぎり、オッサン・オバハンたちに取って代わるような社会の仕組みを作るどころか、もっとはるかにちっぽけなものごとすらなしえない。そんな新世代君が、オッサン・オバハンを批判するのは、子供が駄々をこねているのとなにもかわらない。
それでは、結局のところ、新世代君たちの理想である、個性、自由、創造性は、現実を知らない子供の幼稚な幻想にすぎないのだろうか? もちろん、その要素はあるだろう。しかし、希望もある。
ここでいう、不自由の束とは、言い換えれば、制約、ルールの束ということである。このルールの束で、お互いを縛り合い、はるかな構造を編み上げることで、個人にはなしえない、すばらしい商品、サービス、社会機能ができあがる。個人のレベルを超えたいかなる創造も、これによってしか生まれえない。しかし、問題は、時間がたつにつれ、こうして不自由の束で編み上げた構造が、特定の既得権益者によって牛耳られ、変更できなくなっていくことだ。これが、現在、オジサン・オバサンたちによって行われている腐敗の構造だ。
新世代くんたちが、オジサン・オバサンにムカついている理由は、複数あって、それがごっちゃになっているから、話が見えにくくなっているにすぎない。オジサン・オバサンたちが、自分たちの価値観を、新世代くんたちに押しつけるとき、(1)価値観を押しつけることそのものにムカツク。(2)押しつけられた価値観が、既得権益者に有利な不当なものだからムカツク(ズルいんだよ!)。(3)押しつけられた価値観が、自分のセンスと合わないからムカツク(きしょいんだよ!ズレてんだよ!)という三つが混じっている。
このうち、(1)は、本質的に、矛盾しているし、間違っているし、勘違いしている。結局のところ、価値観を押しつけ合い、受け入れ合うことでしか、社会構造は作れないし運用もできないからだ。もし、個性、自由、創造性があるとすれば、それは、個性的かつ自由に、不自由の束を編んで構造を創り上げる自由であり、また、不自由の束で作られた構造を自由に変更し、改良する自由である。個々人の個人的な自由が一切侵害されないという意味の自由など、そもそも発想が未熟で幼稚なのだ。
しかし、(2)と(3)は、正当な理由だ。「価値観を受け入れるのはいいが、あんたたちだけに有利な価値観を受け入れなきゃならんというのは、道理がとおらん。また、あんたたちのセンスで作った価値観を受け入れるのもいやだね。おれたちは、おれたちのセンスにあった価値基準で、構造を作らせてもらう。もちろん、どちらかだけが一方的に有利になるようなルールでは、お互い納得しないだろうから、お互いが納得できるようなルールなり構造なりを作り、それをお互いに受け入れることにしよう。」。そういう要求を、オッサン・オバハンたちに、堂々と突きつければいいのである。
こうしてみると、「個性!自由!創造性!」というのを、そのままの意味で、すべて尊重した理想世界というのは、そもそも「原理的」な矛盾をかかえていて存在不可能だ。だから、それをそのまま主張したのでは、たんなる駄々っ子だ。だから、そんなものはさっさと捨ててしまい、お互いをお互いの不自由の束で縛り合い、もっとオッサン・オバハンたちと、対等に渡り合えるほどリアルな構造を創り上げることを考える方が、はるかに現実的だと思うのだ。
ライブドアを悪だ虚業だと全面否定してしまうオッサン・オバハンたちに対抗するには、そのぐらいの覚悟としぶとさが必要だと思うのだ。

*1:ね、ね、ぼくって、素直に人の意見を受け入れるでしょ。素直に反省するでしょ。と、素直さをアピールして、好感度アップ、と。別に好感度アップしてもいいことは別にないんだけどね。

*2:これは、ソフトウェアシステムにおけるセキュリティーの概念にも通じる。会社の外から、社内のファイルにアクセスできるようにするVPNという仕組みがあるが、あれも、不自由によって自由を創り出している。

*3:建前上は神聖だと考えられている人間の本質的な権利を豊さや便利さと引き替えに売り渡してしまうという点では、一時期、プライバシーの侵害だと騒がれていたクッキーも似ているかもしれない。人は、ネットにおける、便利さ、豊さと引き替えに、プライバシーの一部を売り渡したのだ。

*4:ソフトウェア工学の分野でいうなら、それまでアセンブラしかなかった世界に、はじめてコンパイラが出現したときの驚きと興奮は、現代のプログラマーには想像もつかないだろう

*5:これは、ソフトウェアシステムにおけるセキュリティーの概念にも通じる。会社の外から、社内のファイルにアクセスできるようにするVPNという仕組みがあるが、あれも、不自由によって自由を創り出している。

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