日本との付き合い方(その3)

日本との付き合い方
日本との付き合い方(その2)
の続き。

いま日本の政治経済で指導的な立場にいる人たちの一人一人が胸に手を当ててよくよく考えて答えなければならない質問がある。

「いままで日本経済には、すり合わせ型の製造業の他に、高い生産性をもつ産業が存在したことがあるのか?」という質問だ。

すり合わせ型のの製造業というのは、構成部品が多種多様で組み立てに高度な熟練が必要な製造業のことだ。代表的なのは自動車産業であり、一昔前までの家電産業だ。なぜ一昔前までの家電産業かと言えば、いまや家電の世界では機械的部品が電子部品に置き換わり、組み立て工程が単純化してしまったからだ。

最近の米国発の金融危機を見て「米国覇権の時代は終わりだ」と手を叩いて喜んでいる評論家がいるが、私に言わせれば笑止である。今回、初の黒人大統領が実現したように、米国は絶えず移民を受け入れ、ダイナミックに新しい時代に対応してきた。今回の金融危機程度の問題で、米国の時代が終わるとは思えない。(米国の時代が終わるとしたら、米国が世界を自由で民主的な場所にするというイデオロギーを捨てたときだろう)英語の文献を当たれば、米国を中心とした英語圏の世界の果てしない奥深さがわかるはずだ。国連・世界銀行・国際通貨基金(IMF)は米国に本部を置いて、英語で事実上すべての事務が運営されている。米国は、依然として世界全体の統治機構を掌握しているのである。

第一、米国は危機に瀕したとき、驚くほど謙虚なのである。1980年代に日本の自動車産業が米国の自動車産業をおびやかしたとき、米国は日本に輸出の自主規制を働きかける一方で、虚心に日本の自動車産業の強さの秘訣を学ぼうとした。ピーター・センゲの「学習する組織」の概念はこうして生まれた。

一方、現在の日本は、パラダイス鎖国などと言って、自己陶酔に陥っているのではないか。いまの日本に自動車産業の他に国際競争力がある産業があるのか。農業は、極端は保護主義に甘やかされて、すっかり足腰が立たなくなってしまった。重層下請構造のソフトウェア産業のエンジニアの平均的スキルは一流工科大学出身者が多いインド人エンジニアの平均的スキルより確実に劣る。メディア・流通・医療などの国内市場向けの産業で、他の先進国より効率的だと胸を張って言える分野があるのか。

1991年のバブル崩壊以降、はっきりしてきたことは、結局のところ、日本では、ごく一部の製造業が他の国を圧倒して効率的であったのであり、他の産業については、せいぜい平凡な効率性か、むしろ発展途上国にも劣るほどの効率性しかなかったのだ。それが、そのごく一部の製造業が膨大な貿易黒字を生み出し、円の価値を押し上げた。それが、ドル換算の GDP を実力以上に大きく見せて、世界第2の経済という美名に日本人は酔ってしまったのである。自分の政治経済体制の欠陥に対する真剣な反省と、その反省に基づく改革の実践を忘れた。発展途上国的な要素はいまだに日本にたくさん残されているのにもかかわらず、日本は先進国のはずだという思い込みゆえに、改善へ向けての真剣な努力が見られない。

ガラパゴス化する日本の製造業という本がある。日本の家電メーカーが、マニアックな高度機能の集積に注力し、現実の市場ニーズを見失っていく一方で、韓国・台湾メーカーが、特に新興国市場において、市場ニーズに適う簡素で安価な製品を投入して、市場シェアを日本の家電メーカーから奪っていくプロセスを、膨大な数値の裏づけを持って解説している。もし家電業界だけでなく、自動車産業でも同じことが起こったらどうなるのか。日本の全産業が国際競争力を失えば、日本の貿易収支は赤字化し、円安の傾向は避けられないだろう。ドルベースの日本の一人当たり GDP は減少し、日本が先進国の地位から転落するときがやって来てしまう。

批判だけするのは簡単だ。ではどうすればいいのか。方法を私なりに考えてみた。

まずは、日本人の一人一人がいま自分の置かれている状況を謙虚に把握すべきだ。自己満足に陥っていないか?もっと効率的な仕事の方法があるのではないか?もっと効果的な財やサービスの提供方法があるのではないか?もう自分は何も学ぶことはない、と考えるのではなく、他の先進国だけでなく、発展途上国からも学ぶべきところはすべて貪欲に学ぶ姿勢を取り戻すことである。

そして、世界のすべての国々と民族の中で、日本人が持っているユニークな部分を把握すること。先入観ではなく、現実に基づいて、冷静に考えてみる。いくつかの日本人の常識は正しくない。たとえば日本語が特殊な言語という人がいるが、これなどまったくそうではない。主語+目的語+動詞という語順はインドの諸言語はみなそうだし、子音が母音と必ず結びついて閉音節を構成するのは、インドネシア語・タガログ語などのオーストロネシア語族に共通する特徴である。日本語に世界の他の言語にないユニークがポイントがあるとすれば、漢字・ひらがな・カタカナという3種類の文字を複雑に組み合わせて、表記することくらいだろう。

むしろ、日本の持つ特殊性は、人間関係の構成法にある。聞き手が話し手と同じ集団に属するか否かで複雑に変化する日本語の敬語表現。きわめて複雑な1人称と2人称の代名詞。しばしば主語が省略され、高度に文脈に依存する話し方。こうやって、常に他者との距離を測りながら摩擦を最小化しつつ、所属集団の結束を守り、外部の人間に対して統一的に行動する日本人固有のきわめて繊細な行動様式が誕生する。

アングロサクソン文化ベースに、世界の諸文化を巻き込みながら、英語でコミュニケーションが行われる「グローバル文化」の萌芽が現れつつある今日、我々日本人の使命は、この長い歴史を誇る豊かな日本文化をいかにこのグローバル文化のなかに溶け込ませていくかだ。自閉的なガラパゴス化した世界に閉じこもるのではなく、日本人としての最良の部分を保存したまま全世界に自分自身を開放する方法を見つけることだ。

日本の人口は世界人口の2%に相当する。そこで、世界を50人の生徒から成り立つ小学校のクラスだと考えてみよう。日本君はクラスの一員だ。日本君は、いつも一生懸命勉強している。でも最近は、勉強の割にはテストの点数は凋落気味。他の生徒たちの遊びの誘いにも応じない。一人ぼっちでクラスの片隅に座っているだけ。だから、最近、クラスメートは日本君の存在をときどき忘れそうになる。思い出すのはテストの前に、日本君にノートを写させてもらうときだけ。

日本君の内心は複雑。このまま一人ぼっちでいいんだという気持ちと、みんなと遊びたいという気持ちが交錯している。みんなと遊ぶのは、本当はそんなに難しいことじゃない。少しだけ勇気をもって、外に向けて心を開けばいいだけだ。そうすれば、クラスのみんなは、日本君が本当はとっても優しくて面白い子だと気づくはずだ。

このように、日本がもういちど自分自身を世界に向かって開き、世界の人々と協働する方法を見つけたとき、日本の産業は再生するはずだと信じている。