回転寿司

今日は友人四人と寿司を食いに行った。夕食に回転寿司に行った。平日でおまけに雨だったせいか、人があまりおらず、待つことなく席につけた。てっきり店の前でだらだらと待たされ、さらに疲れることだろうと、そう覚悟していたので、明るい気持ちになった。じめじめも気にならなくなった。

ひさしぶりに外で食べる寿司は特別うまいわけくもなく、ああ、寿司だなという程度の味だった。もともと、味にうるさいわけではないので、そんな寿司でもたらふく食べた。質なんてどうせわからないのだ、量を食ったか食ってないかだ。それが私の「食」なのだ。腹いっぱい食べた。文字通り腹がふくれた。もう寿司は、ひと月は要らないなと思った。

帰りに、もう「次はどこそこに行こう」などと話をしている友人らを見た。

不安になった。ついていけないと思った。腹はふくれているのに、自分にはエネルギーが足りないように感じた。標準的な若者は、一体どれほどのエネルギーを持っていて、そのうちどのくらいを、そこいらにまきちらしているのだろうと思った。自分は、まきちらしたエネルギーのほんのわずかな部分にふれただけで、おびえ、おそれ、どうしようもない不安におそわれている。

彼らと比較される自分に自信がない。私は多くのエネルギーをもっていない、もっていないはずだし、そのちらしかたも分からない。シリウスのようにギラギラと輝く、その方法がわからない。

なるだけ、はやく歳だけをとりたいと思った。三十、四十、それくらい歳をとれば、きっと彼らと同じくらいになるのではないか。いや、もしかすると、八十でも足りないかもしれない。だとすれば、死ぬことも視野に入れたほうがいいのではないか。看板に書かれたおかしな言葉を読みあい、笑いあいながら、そんな風に考えた。