上野インタビューについての感想その2 リブとの対比論

きのうのエントリーでは、「場クラッシュ!」という新語をこさえてしまい、そっちで人気取りをはかってしまったきらいがある。しかし、前に6月30日のエントリーで書いたように、「上野氏がいう「ジェンダーフリー」批判や「ジェンダーチェック」批判はだれのどのような行為を指しているのだろうか」という点で上野氏のご回答にわたしがうんうんと納得したわけではないことは言っておかねばなるまい。内輪の会合で言っているというのでは、伝わるべきところに十分伝わらなかったのではないだろうか。批判すべき重要性のあることは、やはりきちんと届かせるようにいっておく必要があるのだなと思った。「ジェンダーチェック」批判については、みな内心やだなあと思っていてもだれも表だって言わなかった。女性学や女性運動は弱小部門だからと思って遠慮をしていたのだろう。しかし、そこを衝かれてしまった。いまや女性学は制度化され、男女共同参画は、大臣もおられるのだ。

「場クラッシュ!」本での上野氏インタビューで違和感を持った点に、「ウーマンリブ」についての以下のような語りがある。

リブ叩きと『ジェンダーフリー』叩きは、女性の性的自己決定権をターゲットにしている点で、論理構造が同じです。ただし、リブ叩きは、自分達が多数派であることを疑わずにすんだ男たちの余裕が見られます。一方、「ジェンダーフリー」叩きの場合は、もとは多数派だった自分たちが、いまや少数派になりつつあるとうい危機感が濃厚にあらわれています。


これは状況認識としてちょっと違うのではないかと思う。わたしは1970年前後からのウーマンリブに関する新聞、雑誌などの報道は全部目を通したが、リブが登場した時の男達の反応は、「女たちはいったい何を言っているのか」「一体何が起きているのか」っていう怖れが強かったように思う。歴史の村上信彦や小説家の渡辺淳一氏らも即リブ叩きに参加していることを思うと、今よりももっと叩いておかねばという必死感が漂う。何が起きているのか理解できなかったのだからリブの時代の方が「余裕」がなかったのではないか。当時、チャールズブロンソンが「お〜マンダム(男の世界)」というCMが大流行し、石原慎太郎の『スパルタ教育』がベストセラーになったことからみても、男達が男の既得権益を脅かされるという無意識レベルの怖れは今の「ジェンダーフリー」に比べて遜色なかったんじゃないかと思う。

「余裕」で議論していても議論が進まないのと思うので、主張の中身で比べてみるが、今の男女共同参画、ジェンダーフリーに代表される主張は、当時のリブに比べラディカルでもなんでもない。リブの思想は、社会体制を覆そう、覆せると思っていたから以下に引用したように「文化革命」だったのだ。リブは、確かに異性愛中心主義という問題はあったけど、、。今のジェンダーフリーは、「男らしさ、女らしさに縛られずにその人らしく」というようなことなのだもの。いまの「ジェンダーフリー」叩きをそれほど怖れるっていうのは、被害者意識が強すぎるのではないか。そう思うくらい、時代背景や主張についての認識は理解できないものだ。

リブの女性たちは、たんに政治的権利や教育、職業上の機会均等というような個別的な女性差別撤廃要求、男女同権要求ではなくこれまでの男のつくった文化を全面的に問い直し、新しい文化を女性の手で創り出そうという、文化革命を志向しているのである。(松井やより 1971)


主張は主張としてまっすぐに語り、揺るがないことが大事だと思う。ラディカルだった(?)上野さんも、だいぶ揺り戻しあっているのではないか。「リブ叩きは、自分達が多数派であることを疑わずにすんだ男たちの余裕」など見られなかった。また、リブ叩きと対比して、「ジェンダーフリー」叩きのほうが相手の危機感が強いというのもわたしは言えないと思う。


こう書くと、わたしまでリブ運動とジェンダーフリー運動を二項対立で見ているように思われるといけないので、富山の運動とバッシングなど、地域、時代によって異なる女性運動批判の動きについては追って書きたいと思います。