翻訳に必要な3つの技術
翻訳に必要と思われる技術について整理する。
導入
私のブログの書き方を紹介したエントリの中でもすこし触れたとおり、翻訳という作業は自分の中で大きな位置を占めるようになってきています。『エリック・エヴァンスのドメイン駆動設計』が出版されて以来、新しい翻訳をやったり、他の方の翻訳をレビューに参加させて頂いたりと、翻訳がらみの仕事が増えてきましたので、この機会に自分が考えていることを整理したいと思います。
なお、この場を借りて大先輩の翻訳論をご紹介しておきます。
- 翻訳の心がけ - 結城浩さん
- http://capsctrl.que.jp/kdmsnr/diary/20110326p01.html - kdmsnrさん
私の考える、翻訳に必要な3つの技術とは「英文解釈」「翻訳のテクニック」「日本語作成技術」です。結局のところ翻訳とは、「英文を正確に理解し」「日本語に置き換え」「日本語として自然に読めるかたちにする」作業であり、それぞれに一定の知識なりテクニックが必要になるということですね。
では、それぞれ順を追って説明していきます。
英文解釈
翻訳をする上で必須なのが、英文の構造を正確にとらえることです。単語は調べればわかりますが、構造は調べることができません。英文の構造をどこまで忠実に読み取れるかが、翻訳の精度を決める最初の鍵になります。「単語だけ調べて、あとは文脈からなんとなく」という読み方は、読むだけであれば大丈夫かもしれませんが、翻訳をしようと思うと苦しくなります。読むだけならパラグラフ単位、章単位で意味が理解できていればいいケースも多いですが、翻訳となると、すべての文章を日本語にしないといけないですからね。
そのために必要なのがやはり「英文法」の知識です。「とりあえず基礎からやり直したい!」という強い思いがある方におすすめなのがこの一冊(完全に受験参考書ですが)。
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前置詞の解釈
英文の意味を正確にとらえよう(訳そう、ではない)とした場合に、かなり重要になるのが前置詞に関する理解です。受験英語ですと、inなら「中に」、onなら「上に」という具合に訳し方を覚えさせられた上で、これに収まり切らないものはすべて「慣用表現」として処理させられたりしますが、これは結構大変です。これに対して、前置詞を概念として理解しておくと意外と応用が利きます。
いくつか例を挙げましょう。特定の領域を表す"in / on / at"であれば、inは「包含」、onは「接触」、atは「焦点」です。onについては、「上」でなくてよいところがポイント。壁にかかっていれば"on the wall"ですし、時間ぴったりであれば"on time"、逆に範囲に収まっている語感を持っているのが"in time"です。一方、atは特定のポイントを指し示している感じがあって、だからたとえば"at 7 o'clock"のように特定の時間を表すのにも使われます。
あるいは方向を表す"to / for"であれば、toは「到達」、forは「途中」になります。「どこかに出かける」なら"leave for"ですし、着いているか着くことが確実であれば"go to"になります。探し物をするなら見つかっていないので"look for"、何か特定のものを見ているなら焦点の"look at"ですね。
訳文に逃げない
英文解釈という観点からすると、私は「構造を理解すること」にゴールを置くようにしています。日本語にして終わりではなく、どれが主語でどれが動詞で、に始まり、形容詞のかかっている先はどれか、指示語の対象は何か、それがわかって初めて解釈としては完了だということですね。翻訳作業を行っていて意味がよくわからない文章に出会ったとき、確実にやっているのが「このitって何だ?」「このtheって何だ?」という地道な問いかけです。最初はわからなくても、可能性をひとつずつ丁寧に追っていけば、たいていの場合正解と思えるものにたどり着けています。
それでもわからないときにはじめて「慣用表現の可能性」を考えます。よく使うのがアルクとGoogle検索ですね。実際に慣用表現だった場合には、かなりの高確率でアルクで見つかります。Googleの場合は似たような文章をいくつか眺めて使われ方を理解したりします。この場合も「訳す」というよりは意味を理解することを重視します。
翻訳のテクニック
英文として理解できるようになったら、次に考えるべきは日本語にどう置き換えるかです。修飾関係や文の中の役割といった文法構造だけを日本語に置き換えて済むなら簡単なのですが、それでは「横のものを立てただけ」になってしまいます。
たとえば:
Her anger made him sad.
直訳すれば「彼女の怒りが彼を悲しませた」ですが、日本語として自然なのは「彼女が怒ったので、彼は悲しくなった」ですよね。これは英語が名詞中心で発想しているのに対して、日本語が動詞中心で発想していることに由来します。同様に形容詞も副詞に変換して訳した方が自然な日本語になるケースが多いです。
ほかにも英語という言語の持つ特性上、そのままでは日本語になりにくいものを処理するためのテクニックがあります。このパターンで、普段自分が自覚的に使っているものをご紹介します。
1 | 接続詞/指示語の補完 | 英文はそのまま訳すと、前後のつながりが見えにくくなることがある。必要に応じて接続詞、指示語を補う。 |
2 | 強調/対比の明確化 | 元の文において強調されている概念、対比されている概念は日本語化に際しても明確に訳出する。 |
3 | 名詞の動詞化 | 英語が名詞を中心に発想するのに対して、日本語は動詞を中心に発想する。その意味で「名詞の動詞化」は「名詞を動詞化する」とすべきだが、パターン名に関してはこの限りではない。これに伴い「形容詞の副詞化」も行うことが多い。 |
4 | 語順の維持 | 原文で情報が提示されている順序を崩さないようにする。代表的なものとしては、関係代名詞を後ろからかけるようにする。このとき、必要に応じて1つの文が2文に分かれることがある。ただし、意味上あるいは日本語の流れ上前からかけるべきケースも少なくない。やりすぎないこと。 |
5 | 無生物主語の転換 | 無生物主語は日本語としては不自然。態を転換して、意味上の主語を主語として扱う。 |
6 | 「の」の展開 | 文の中で「の」が使われている場合には、意味を明らかにして展開した方がよいケースが多い。特に連続する場合には必須。 |
7 | 「が」と「は」の意識的な使い分け | 単なる主語ならば「が」。「は」は強調を表す。一文に「は」が連続すると焦点がぼやけるので注意。 |
8 | 指示語への代入*1 | 「これ・それ・あれ」が増えるとうるさいので、適宜内容は補う。「the」も既出の内容を受けている場合には訳出すべきケースが多い。 |
情報提示の順序
翻訳の際、「意味を訳すこと」と同じくらい意識しているのが、「情報提示の順序」です。これは単純な修飾/被修飾構造とは別の次元で文章を支配しています。この順序が意図されたものと違ってしまうと、おかしなことになってしまいます。一例を挙げましょう。
- 王様がいつも赤いずきんを被っていたのは、王様の耳がロバの耳だったからだ。
- 耳がロバの耳だったので、王様はいつも赤いずきんを被っていたのだ。
何か違うストーリーが混ざっているような気もしますが、言わんとしていることは伝わるでしょう。たぶん「赤ずきんの王様」みたいなタイトルのおとぎ話です。この文章を読む読者にとって、王様が赤ずきんを被っていることは「既知」の情報、その理由が「未知」の情報になります。この場合、「既知」→「未知」の順番に情報が流れてくれないと、なんとものっぺりとした文章になってしまうのです。
私自身のスタイルとして基本的には情報提示の順序を崩さないようにしているため、通常はそれほど強く意識していません。ただ、語順をひっくり返さざるを得ないときには、既知/未知の関係や文の中での強調点が崩れないように、ちょっと特別な注意を払うようにしています。逆に言えば、この点に注意していれば語順を変えた方がよいケースもすくなくありません。
日本語作成技術
「英文を理解する」、「日本語に移し替える」、その次に来るのは「日本語としての完成度を高める」です。そのテクニックを学ぶ上での必読書がkdmsnrさんのエントリにも紹介されていたこちら:
- 作者: 本多勝一
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- 修飾の順序
- 句読点のうちかた
- 助詞の使い方(特に「は」と「が」)
翻訳に限らず、日本語である程度の長さの文章を書こうと思うなら、この本は必ず参考になります。
日本語での表現力
「辞書で一番上に出てきた単語を使う」という段階を超えようと思うと、どうしても日本語表現の幅が必要になってきます。たとえば「英語では一語のものが日本語だと何語かになる」「英語だと数語のものが日本語なら一語で表現できる」ということが起こりますし、「同じ意味を表す自然な言い回し」が見つけられればそれに越したことはないでしょう。このあたりを流暢にコントロールできるようになると、翻訳も職人技の域に入っていくのでしょうが、私はまだそこまでは到達できていません。ただ、悩んだときにはシソーラスが結構役に立ったりします。
どうすればこの部分を高めることができるかは模索中なのですが、最近、ほかの方が翻訳された文の査読を行うことで、スキルをかなり盗めることを知りました(ありがとうございました)。
最後に
大切なことを最後に1つ。翻訳は独自のロジックを持つ技術です。「英語の本が読めること」と「翻訳ができること」は等価ではありません。「英語の本が読めるから翻訳ができる」わけではありませんし、「翻訳ができないから英語の本が読めない」わけでもありません。「英語の本が読めなければ翻訳はできない」正しいのはこれくらいでしょう。冒頭で触れたとおり、文章レベルで正確に読めていなくても、パラグラフのレベルや章のレベルで論理が追えていれば問題ないケースも多くあります。また、理解が目的であれば、きれいな日本語に置き換える必要もありません。
もちろん、「だから翻訳には手を出すな」と言っているわけではありません。むしろ逆で、英文を読める方が「じゃあ翻訳もしようかな」と思ったときに、とりあえず理解しておくとよさそうなことをここでまとめたつもりです。確かに、本当に自然な日本語にしようと思えば、幅広い語彙と豊かな表現力が要求されるのであり、こうしたことはすぐに身につくものではありません。ただ、日本語としての練度をどこまで上げる必要があるかは、翻訳対象にもよります。技術系の文書であれば、文芸作品ほどの練度は必要ありません。ここにご紹介した本を読み、いくつかのテクニックを理解すれば、間違いなく訳文の質を上げることができます(また、翻訳作業にかかる時間も減るでしょう)。
日本語で読める技術情報を充実させていきたいと願う方々にとって、このエントリが役に立てば幸いです。
おまけ
「英文法」を考える―「文法」と「コミュニケーション」の間 (ちくま学芸文庫)
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議論されるものに、たとえば「次の2つの文がどういう意味の違いを持っているか」といったことがあります(p.96):
種明かしをすると、後者はキスの対象はあくまで「手」であって単なる儀礼だが、前者はキスの対象が「女王」であってなんらかの含みを思わせるそうです。受験英語で「ジムの頭を殴った」を「"hit Jim's head"ではなく、"hit Jim on his head"としろ」と言われ、慣用表現として覚えた方もいらっしゃるかもしれませんが、これと同じ理屈ですね。殴っている対象はジムであり、頭は場所でしかないということです。この本の中ではほかにも、エントリ中で触れた情報提示の順序についても言及されています。
1点補足しますと、この本、文庫本ではありますが、内容はかなりマジメな認知言語学です。翻訳のためのパターンを探すという目的にはちょっとそぐわないかもしれません。ただ、英文を深く読めるようになりたいと真剣に考えている方には間違いなくおすすめできます。
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理由は、「イラストレーターを買う前に、紙にペンで絵を描くべき」なのと一緒です。なお、ご紹介したのはMac用で、Windows用にはPC-Transerという商品があるようです(Mac-Transerより高いですね・・・種類がいくつかありますので、調べてみてください)。
*1:このパターンは渡邉さんがDDD査読時に出して下さったものです。感謝します。