若者の変貌に喪の本質を見た

さて今回もこの本

検証・若者の変貌―失われた10年の後に

検証・若者の変貌―失われた10年の後に

の紹介から行こうと思うのですが、今日は友人関係…というか、「若者のコミュニケーションについて」ですよ。前回の話と繋がっているというか表裏一体の話なので、前回のところを押さえつつ見てみてくださいな。
ではまとめていきましょう。

そもそも、親しい関係とは何をもって言うのか。
良く言われる議論はこうだ。
対人関係が親密であるためには、コミュニケーション…自己に関するメッセージの発信と、相手によるその肯定的受容が円滑に行なわれ、安心と信頼が構築されてなくてはならない。そして、そうした関係を築くためには、一定の対人スキルが必要とされる。そして、つきあいが深いのか浅いのかというのを判断するのに重要なことは、お互いに自分がどのような人間であるかを正確に理解すること、『本当の自分』というものをお互いに開示していることにある、と。そうすることで上辺だけの浅い付き合いから、内面を知った深い付き合いにいくのだと。


今日の若者は他人と、特に友人との関係が「希薄化」しているとかよく言われる。コミュニケーションと信頼の構築に必要な対人スキルが低下しとるんじゃーという議論だ。
しかし、今日のいわゆる「希薄化」と言われるような変化は、上で述べたような「親密な関係とはこういうものだ」という図式そのものが崩れていっている、つまり「親密な関係」と言うときの有り方が変化しているんではないか、ということなのだ。
データを見ると、以前よりも若者の「友人」の量は平均して増大している。*1それなのに友人関係が質的に変化しているというのは、友人を繋ぐチャンネルが多様化していることにある。例えばアルバイト先やネット上で知り合った人と友人関係になったという人は年々増えており、こうやって今まで言われてきたような学校や家庭を中心にしたところに加え、多様な形の友人関係が増えて、それらが状況に応じて選択的に使い分けられるようになったのだ。
選択的に友人を使い分けるというのは、遊ぶ内容によって遊ぶ友人を使い分けたりすることを指す。こうした使い分けを行なう若者は全体の六割以上と、中々の割合だ。
またそれぞれの付き合いの深さという点でいうと、「友人」と呼ばれる人は増えてはいるものの、相手によっては距離を置いた関係での「友人」で、親しくなれる「友人」とはより親密に付き合おうとする、という傾向があるようだ。また後述するが、この「より親密になる」というのも、少々意識の変化が見られる。
そのいずれもが「友達」でありながら、それぞれの関係を選択的に使い分けることが、友人関係を上手くマネージするスキルとなっているのだ。
そうした多様な人間関係が交錯し、それぞれに適切な対応が求められるような中では、今までのように自己の内面をさらけ出すような真似をして、それを受け入れてもらって互いに安心と信頼を構築していくということが、難しくなっている。


元々、「親密」な関係の形式に不可欠とされる、自己を他者に開示するという行為は、自分が否定されるという可能性を内包したリスキーな行為だ。
親密なコミュニケーションを構築するにあたっての構造を図化すると、下のようになる。

しかし、一連の流れの中には、「自己開示をして安心を得るためには、自己開示をしても大丈夫だと言う安心が必要」という矛盾がある。コミュニケーションが成功するだろうという根拠はコミュニケーションの中には無いのだ。
そこに気づくと、後に残るのは自分をさらけ出しても否定されるリスクだけだ。
昨今の状況下においては、この矛盾が顕在化し、自分を否定されるリスクの危険性がやたらと前面にでてくることによって、コミュニケーションの難しさが上がっているのだ。

さて、そのような状況に対してとりうる戦略とはどのようなものになるか。大きく分けて三つある。

第一の戦略:相手に対して、同じクラスであるとか、同じテレビを見てるとかなんとか、そういうとりあえずの共通性みたいなものを見つけ出して、その共通性を元にコミュニケーションを開始する方法。ここでは今おかれている関係はどのようなものか、そこで共有されている情報は何か、前提となっている文脈は何か、といった諸々の出来事を考慮に入れた上で話さなければならない。
俗に言う「空気読め」というやつ。
空気を読んで、その文脈から外れたことを言わない以上は比較的順調にコミュニケーションを維持できる。が、空気を読めないと最初の段階でコミュニケーションは破綻するし、逆にそういったコミュニケーションを続ける以上、自分の内面を相手にさらけ出すような関係には移行できない。そうするためには、別な信頼の置けるものや、リスクへの賭けが必要となる。
また、とりあえずの共通性すらも見出せないような、「まったく空気の読めない」相手とは、互いにまったくコミュニケーションがとれないような状況になってしまうのである。

第二の戦略:空気を読んで見出した「とりあえずの共通性」を出発点として、常に空気を読み、外さないようにしながらコミュニケーションの文脈を徐々に広げ、最終的に内面に対する信頼を得ようというやり方。
これは多くの否定のリスクに直面することになるコミュニケーションだ。
相手が自分の内面に対して承認してくれるだろうという可能性を極力信憑するなら、この方法をとるより他ないが、言ってしまえば数キロにわたる地雷原を無傷で走り抜けることを期待するようなもので、地雷探知機やタケコプターのような、そこを通り抜けるための信頼の置ける何かが無い限りは、きわめてリスキーな行為だといえる。
だが、良く言われる「コミュニケーション能力」というやつは、こうした「空気を読み、そこから外れない行動をした上で内面の信頼を得る能力」を求めるものなのだろう。


第三の戦略:コミュニケーションについて回る「リスク」を徹底的に回避していこうとする方法。リスク回避を最優先とする場合には、この方法がとられる。
初対面の人には不用意に話しかけず、自分が相手とはコミュニケーションを取れないと判断するなら絶対に話しかけず、必要になったとしても可能な限り内面をさらすような行動はとらない。
これは他者に関心が無いから他人を回避するのではなく、相手との関係を過剰に尊重(波風を立てず、他人となにより自分を傷つけないように)するために、「否定」のリスクを最小化し、自分のコミュニケーション戦略に対する信頼に浸れる、居心地の良い関係を気づこうとするのである。

以上をまとめると、昨今の若者の友人関係においては、希薄な人もいればそうでない人もおり、一人の人がもつ友人関係の中にも希薄な関係とそうでない関係が混在し、それらはかなり選択的に使い分けられている。
このような傾向の背後には、これまでのような、他人に自分の内面をさらすことのリスクの高さの暴露と、それを察して、他人に自分が受け入れられるようにするよりも、自分が否定されるリスクを大きく意識するようになっていることがある。
そのため、よく言われるような「最近の若いもんは他人と深く付き合おうとしない」という関係の「深い-浅い」だけでは語ることは出来ないのだ。


…というのが本書におけるコミュニケーション論の内容なのですが、読んでもらえばわかるように、前回の「自意識の多元化」という話は、最初のほうの「友人の多チャンネル化」というのと表裏一体の問題なのです。「友人」という表現に抵抗ある人は「知り合い」とかまで落としてみると捉え方としてしっくり来ませんかね。
とにか日常の関係性の中で、適切な対応の異なる人がそれぞれ増えることによって、多様なコミュニケーションが必要とされ、それに適応しようとして多元的な自意識を生み出すのです。
だからsubscriber先生の仰るとおり、多元的な自意識にはコミュニケーションにおける文脈、「空気」の存在が大きく関わっているのです。ただまあ、空気に支配されるようになって視野が狭くなって動物化するっつうのは微妙なところと思いますが。


また、「友人の選択化」には、電波男でいうところの「池鶴関係」や、「ラダー理論」の存在が垣間見えます。

285 名前:('A`) 投稿日:2005/04/24(日) 04:44:40

やっぱ不細工って不利だよな・・・

ラダー理論だかってのを聞いたことがあるんだけど

男性は一つの梯子に全ての女性がいて、上に登っていくと

友情的感情から恋愛感情へと変わっていくものらしい。

対して女性は友情と恋愛の2本の梯子を持っているんだとか。

つまり一度友情の梯子に振り分けられると、いくら仲良くなっても

恋愛感情を持たれることはないらしい。

この振り分けは第一印象で決まってくるものだそうだ。

つまり。。。不細工は恋愛のラダーを登れない率が高いってこった。

友達の梯子を登れるだけでもまだ幸せなのかもしれないが・・・
(http://d.hatena.ne.jp/SAGISAWA/20050425より)

すくなくとも、若い層にはこうした傾向が強いものだと…特に女性に傾向が強いとも書いてないので、男性もまたこういう傾向があるのかも知れませんね。


次に、コミュニケーションにおけるリスクが顕在化した際の戦略というものですが、多くの人は、他人とコミュニケーションをとろうとしたときに、まず第一の戦略をとろうとするわけです。いわゆるモテの人におかれましては、こういったところは楽々クリアできるでしょうし、一般人も、また喪男の中にも異性との会話でこの段階なら大丈夫という人も多いでしょう。
ただ異性だろうが同性だろうが、ここの段階をクリアできない!さっぱり空気が読めない!という喪も中にはいるでしょう。「空気が読めない」と分かってる人には第三の戦略へ行くか、あるいは練炭のどちらかが待ってますが、それすらも分からない人は…


第二の戦略は、コレは喪男がなしえないこと、喪板でやらかすと最も嫌がられる行為、「子ミュ能力を磨け」という時の「コミュ能力」というやつです。ただ、書いてある通り、リスクが顕在化している状況下では、この戦略をとるのはリスクを省みない蛮勇か、あるいはリスクを軽減する何か…例えば異性相手なら、容姿とか、金とか、人並みはずれた話術とか…がある場合にでなければ、あまりにもリスキーなのだ。ただ、モテ志向の人たちは概ねこれを求めようとする。
第三の戦略は、コレは完全に喪男の戦略です。思うに喪男だの非モテだのいう人たちは、一つにはコミュニケーション戦略においてリスク回避型を選択するものであると定義されてもいいような部分があると思うのです。同性においてはそんなことないという人もいるでしょうが、少なくとも異性との間においてはそうじゃないかなと思うのですが。
リスクを回避し、その回避戦略に対する安心を得ようと居心地の良い場所をつくろうとするというのは、喪が「女はおっかねえ、信用できねえ」といって喪板にあつまりみたいなことですかね。


ゲームの腹黒キャラは、鋭い狡知を以って、自分の内面の醜さを赦してくれるかもしれない主人公を魅了し、自分から逃れられないようにしようとすることも多いです。
ただ、現実には、腹黒キャラと同じく多元的自意識をもつ人たちは、コミュニケーションにおけるリスクを回避しようとする方向に走ります。
それが、ゲームのシナリオで腹黒キャラが救われても、実際には同じような状況の喪は救われない理由の一つです。
では、多くのおせっかいたちが言うように、リスクを恐れず他人に吶喊すればなんとかなるのでしょうか?
とんでもない。それこそ「空気が読めてない」人のすることです。
「空気を読んだ」からリスクと計算して回避するしかないと考えたのではないですか。
腹黒キャラが救われる最も大きな理由は、そのシナリオというものが、「そういう結末であってほしいという理想」だからではないですか。
ならば、三次元で救われるにはどうすればいいのか。
うん、どうしようもないかもなあ。

「このまま誰にも愛されず、誰をも愛さず、引きこもったまま人生を終えるのはあまりにも寂しい。いったいボクは何のために生まれてきたのだろう? 世界にはこんなにもたくさんの人間がいるのに、ボクのことを理解してくれる人は一人もいないのだろうか? 歪みきった罪深いこのボクを。はたして、本当に一人もいないのだろうか? もしかしたら、世界のどこかにいるのかもしれない、でも、どうすれば巡りあえる? そして、ボクにはそんな救いを得たいと願う資格もない。苦しい。悲しい。寂しい。このまま一人ぼっちで死んでいくのはイヤだ。でもボクの本当の姿を知られるのはもっとイヤだ。人の肌に触れたい。好きな人とセックスしたい。でも、触れられたくはない。自分をさらけだすなんて恐ろしいことは絶対にできない。もう、ボクはどうしていいのかわからない。泣きながら寂しく一人でオナニーして、また一日が終わっていく、こうしてボクの人生はなにごとをなすこともなく、誰とも出会うこともなく、無駄に終わる。もうイヤだ…!! こんな自分はもうイヤ…!! イヤアアアアア〜〜〜ッ!!」
(松永ひろみ 本田透「SFF」)

長くて見づらいなー。でももうちょっとだけ続くかも。

*1:そうなのか…('A`)