フリーライダーは著作権の権利者のほうではないのか?

文化庁の提案した補償金制度の改正案はひどい。権利が損なわれた、補償が必要だ、という主張は、実態と合っていない、と感じている人は多いだろう。既に「補償金」ではなくなりつつあるものを、そういう名称で呼んでいること自体が問題を見えにくくしているのではないかと思う。
地デジのダビング10もiPod課金も、著作権の権利者側が、自らの著作権にのっとって対価を要求している形になっている。しかし、彼らは実は(そう意識しているかは別として)テクノロジーの発展に「ただ乗り」しようとしているのではないだろうか。
現代の技術は、「著作者の権利」と「消費者の権利」のバランスを消費者寄りに動かしている。デジタルという無劣化な複製を作る技術、それを機器から機器へ伝送する技術、そういった技術は当初はコンテンツ制作を省力化し、クリエイター側に大きな利益をもたらしたが、現在ではそれら技術の恩恵を受けているのは消費者だ。消費者は技術によって強化され、できることが増えた。消費者は著作物に対する権利などないが、技術の恩恵を享受する権利はある。一方で、消費者の自由度が上がっても著作者には何ら見返りはないから、相対的に著作権者の権利は小さくなったように見える。
著作権者はその図式を、制度の変更によって押し戻そうとしている。著作権者にとっての「元通り」の形にするということは、すなわち消費者から技術の恩恵を奪うことになる。
また一方で、著作者は消費者の拡大した自由度に対する対価を取ろうとしている。「補償金」は、著作権者が技術の進歩によって受けた損害の補償という図式から大きく外れ、消費者が「技術から」受けた恩恵の対価を、著作権者が取るという図式になりつつある。
今や著作権の権利団体は、技術の恩恵を勝手に掠め取る、技術開発に対するフリーライダーになりつつあるのではないだろうか。著作権者は、コンテンツを勝手に流通させる「フリーライダー」を批判する。しかし、著作権者は消費者の自由度の拡大に何も貢献していないにもかかわらず、その対価を取ろうとしている。そういう意味で、彼らもまた技術を進歩させてきた人達の努力にただ乗りしようとしているのだ。
いや、本当に著作権者には何も権利は無く、ただ乗りでしかないのだろうか? コンテンツとテクノロジーは鶏と卵、自転車の両輪だったのではないのだろうか?
著作権者は、「被害を受けたから補償しろ」ではなく、「お前らの機器が売れたのは俺達がコンテンツを供給したからだ。もっと分け前をよこせ」と堂々と主張すればよい。そこに真実があるなら、その権利は認められてしかるべきだ。著作権法は、本来は技術から中立な形で記述されているはずだが、にもかかわらず実際の権利の運用は技術の影響を強く受ける。それは著作権法自体、そもそもは印刷技術を背景として成立したから当然のことかもしれない。であれば、現在の技術を背景として、新しい著作権を成立させることこそ、著作権者が最も注力すべきことではないかと思う。