読書は世界の敵になるための最初のレッスンだ

徹底的に中2を書く、全力でだ。

「この世もこの世の人間も、全部消えていなくなれ。自分の夢でない世界は消えてしまえ。―そういうことじゃねぇのか」
小野不由美「魔性の子」より

承前
生涯所得を数千万円変える“本当の”情報格差/若者よ書を求め街へ出よ? - デマこい!
本筋の読書と経済格差の話は「ヤバい経済学」と「賞金で高校生の成績が伸びるのか」でググればよろし。
私が語りたいのはこっちの話。


読書は反社会的行為である 読書猿Classic: between / beyond readers

 読む者を所属する社会から引き剥がし、帰って来れなくなるかもしれない世界へと導く魔笛であり、その魂に現世(うつしよ)にまで溢れるほど夜の夢を注ぎ込む邪な水差しである。

私も読書は反社会的な行為だと思う。
読書するとは目前の人間を社会を、そして世界を無視することに等しい。
本に耽溺するとは、恋人と観覧車で二人きりなのにメールを打つようなものだ。
故にノンフィクションよりフィクションが罪が重く、フィクションの中でも最も罪が重いのは、嘘で世界を演算し、あり得るorあり得たかもしれない世界を演算するSFであると考える。

誤解のないように言うが、読書(映画、ゲーム、夢、妄想etc)は現実逃避だから反社会的なのではない。現実そのものだから反社会的なのだ。
私は士郎正宗や押井作品に親しむ、伊藤計劃信者である。
私の体験したことは全て現実である。どれだけ夢を見たところで「夢を見た」現実に過ぎない。現実と虚構の2つの次元があるのではなく、現実∋虚構が正しい。
「現実と虚構の区別がつかなくなる」という言葉の現実とは社会のことを意味している。
真の意味での現実は各々にしか存在せず、社会とは各々の端数を切り捨てた現実の最大公約数である。


冒頭では小野不由美の魔性の子から引用した。
少々長いが引用部の前の会話を含めて引用しよう。

「お前は人を恨んだことがない、と言っていたな。消えてしまえと思ったことはねぇってさ」
「―言いました」
「俺はそれを嘘だと思う。あの世に帰る夢を見て、それで心を慰めておいて、他人のことは恨まずに置く。それは表裏だよ、広瀬」
「…表裏?」
広瀬は眉を顰める。たしか後藤は前にもそんなことを言っていた。後藤はうなずく。
「表と裏だ。その思考には裏がある。帰りたい、ここは自分の世界じゃない。その思考はな、ひっくり返せば消えてしまえということだ」
広瀬は瞠目した。
「この世もこの世界の人間も、全部消えていなくなれ。自分の夢でない世界は消えてしまえ。―そういうことじゃねぇのか」

子供に教育のために本を与えるのなら、自分が読ませたい本を巧妙に本棚に配置して、子供の自発的な読書の欲求を抑制することだ。本は別途お小遣い支給というのも良い、どんな本を買うか報告の義務が生まれるので、自然と親が喜びそうな本しか買わなくなる。
読書とはフォースのようなもので、正しく使えば生涯所得を何千万も増やすことができるが、一度暗黒面にとらわれると先祖代々の知的階級としての資産を一代で無にしてしまう側面も持っている。
本を読まないガキが読むようになるまでのこと - 関内関外日記

読書の暗黒面にとらわれる子供は、どれだけ注意を払ったとしても逃れることはできないだろう。子供はあなたを、そして世界を無視し始める。
あなたが、自分の子供が社会に全く貢献しない、あるいはテロリストになったとしても、ただ幸せでいてくれたらばそれで良い、というならば読書の習慣はきっと有効なはずだ。
少なくとも私にとっては有効だった。

子供の頃、学校にいけなくなって社会から外れてしまうことに怯えていた時はいつもこう考えて自分を勇気づけていた。
「図書館さえあれば生きていける」
この気持ちは、何千万という生涯所得の差よりもずっと大切な生きる希望だと思う。