秋葉原事件の報道と模倣犯

秋葉原の事件から、4日。
事件直後から思っていたことはあるけれど、目前の仕事その他、情報不足、そして何より7名にも及ぶ犠牲者のことを考えると、すぐにこれについて触れる気持ちにはなれなかった。まず、この件に触れる前に犠牲になった全ての方のご冥福を祈り、今なお病院で苦しまれている負傷者の方々の回復を祈ります。


この事件を巡っては、多くのテレビ・新聞などの報道、それらをソースとしたネットニュース、それらをソースとしたブログ、識者の意見、犯人の職場に近い環境からの内部リーク的な情報、スレッド、他多くが行き交っているので、僕がこれから触れることはそれらと比べてもさほど新鮮ではないかもしれない。これを踏まえた上で、この事件を考える。

身内は無事か

僕がこの事件を聞いたとき、まず第一に考えたのは「秋葉原と縁が深そうな友人の無事」であった。僕自身、IT/情報家電雑誌に執筆していた経験を持ち、家電やゲームやそういったサブカルなものを求めて秋葉原を徘徊していた人間である。最近は足が遠くなっていたけれども、今でもときどき思い出したように「怪しさ」を深呼吸しに秋葉原に足を運ぶ。再開発されて小綺麗になった東側よりは、今も何かと怪しさを放つ西側のほうが好き。
古くからの友人の多くも、そっち系が多い。雑誌読者ページをしていた頃の読者さんも、そちら方面のディープな人々が少なからずいる。いや、たぶん大部分がそう。
幸いにしてあの日に秋葉原に行きそうだった友人のほとんどは無事であったらしい。
ARM先生のように時間差で間一髪だった人もいたけれども、現場は僕がかつてよくバイクを置いていた*1、あの交差点だったことを考えれば、誰が巻き込まれていてもおかしくはなかった。
僕及び僕の友人の多くは、当事者にならずに済んだ。中には目撃者、記録者になった人もいなくはなかったようだけど、それもまた生きてこその話。

事件報道の傾向

報道の多くは、こうした事件をどう捉え、どう報道するか。
ほとんどの場合、以下のような傾向になる。

  • 犯人のプロフィール(性別年齢、現在の職業、出身、日常の生活態度、性格、過去の経歴)
  • 犯罪の構造分析と手法の解析と発表
  • 犯人を犯罪に駆り立てた外的要因への批判

平たく言えば、「こういう仕事をする、こういう性格の犯人が、こういう方法を使って、こういう原因から、犯罪に走った」という、シンプルなまとめが行われる。本来、こういう事件については簡単にまとめる、一言で把握する、というような省略はするべきではないのだけれど、報道各社は忙しい人々のために「つまり一言で言うと」を横行させている。今回の事件であれば、各社の報道はこのようなまとめ方をされている。
「契約を切られた派遣労働者が、その怒りから、予め用意していたナイフを持って、トラックで秋葉原の歩行者天国に突撃し、通行人を轢いてナイフで刺した」
一度、このようにシンプルなまとめを作り、そこにセンセーショナルでそれでいてそれぞれが納得しやすいような「わかりやすい理由」や、「心おきなく批判できる真犯人」を付け足していく。
例えば「契約を切られた、将来への絶望」「派遣労働という前途のなさを作り出した社会」「オタク天国でオタクを殺すオタク」などなど。キーワードを幾重にも散らせば、その中にひとつくらい「ああ、それなら仕方がない」というものが当てはまる。
占いと同じで、10や20のそれらしいことが書いてあったとき、そのほとんどが自分にあてはまらなくても、ひとつかふたつの「心当たりがあること」が書かれていれば、その占いは「的中した信頼性のあるもの」に変わってしまう。報道による「真犯人捜し」や「犯人を駆り立てた原因探し」もそういった根拠のない占いと、そうは変わらない。


そして、「なぜ防げなかったのか」が騒がれる。
これについて言えば、通り魔的大量殺人というのは最初から防げないものなのだ。
もっと言えば、我々の社会的生活の大部分は、「まさかそんなことするはずがない」という合意の上に成り立っている。911同時多発テロ事件が起こるまで、航空機を乗っ取るハイジャック事件はあっても、乗っ取った航空機で体当たりをするという自爆テロは、「まさかするはずがない」という合意の上で発生しなかった。だが、技術的に可能なことというのは、後は動機と口実があればできてしまうことが立証された。
通り魔事件に戻れば、トラックの乗り入れをさせないようにすれば防げたのではないかとか、派遣会社が犯人を解雇しなければ防げたのではないかとか、いくらでも犯人を駆り立てない、阻止する手だてが取れたのではないかと誰もが考え、事前にその手を打たなかった者を激しく批判する。*2
グリコ森永事件、オウム真理教による地下鉄サリン事件、池田小学校襲撃事件、池袋ハンズ前通り魔事件等々など、あらゆる通り魔的な事件というのは、「まさかそんなことするはずがない」という前提が破られることによって起こる。そうした社会的合意を破棄する犯人を、未然に防ぐ方法などない。

模倣犯

次に考えたのは、事件の背景ではなく模倣犯及び連鎖的な類似事件の勃発だ。
恐ろしいのはこうした事件が連鎖的に起こることだ。
それらは示し合わせて起こされるわけではないけれども、誰かが一度ハードルを超えてしまえば、それは誰もやらなかっただけで、誰にでもできることだという了解はできてしまう。故に模倣犯による類似事件が起こる。


繰り返すと、最初の一件目の発生を防ぐことは不可能である。
けれども、二件目からの模倣犯の発生を防ぐことは可能である。
だが、そうした模倣犯の発生を幇助している者が、自分達が何をしているかについて自覚しない限り、模倣犯の発生を防ぐことはできない。


この事件に限った話ではないのだけど、人間が事を起こすにはどのような条件が必要なのかを考えてみると、案外それはシンプルであることがわかる。

  1. 達成目的の設定
  2. 技術・手法・方法・ノウハウ
  3. 口実


達成目的の設定

今回の事件で言えば、「人間をできるだけたくさん殺す」ということ。
普通は考えないし、考えても達成しようとは思わないこの目的を実現するには、「技術・ノウハウの有無」と「それを踏み切ることを許容する口実」が必要になる。
逆に言えば、ノウハウがなく、口実が自分の目的達成の正当性を肯定できなければ、それは行われない。

技術・ノウハウ

今回の事件で言えば、犯人は車の運転免許を持っていてトラックを運転でき、歩行者天国に車で突っ込めば人間を轢き殺すことができ、ナイフで刺せば人間は死ぬ、という「技術・ノウハウに関する知識」を持っていた。
この技術・ノウハウというのは、別に特別なことではない。車にはねられたら死ぬというのは、免許の講習でもやっているし、常識で考えれば大人でも子供でもわかる。数トンの鉄の塊が数十キロで人間に接触すれば、人間は簡単に死ぬ。ナイフで刺せば人間は死ぬ。「犯人はオタクでは?」という図式にしたがる報道もあるようだが、ナイフで刺せば人が死ぬことは、マンガやアニメやゲームどころか、映画でもテレビドラマでも、太古の昔から当たり前のように映像化されてきた。それをすれば人が死ぬ、という技術的な情報は、簡単に手に入る。オタクだからどうの、という問題ではない。

地下鉄サリン事件が模倣犯を呼ばなかったのは、ひとえにサリンやVXガスのような化学物質を生成製造するには、大がかりな設備と知識が必要だったから。
逆に、一連の硫化水素自殺はドラッグストアで簡単に手に入るたった2種類の化学物質で実現できたから横行した。一昔前の農薬自殺や、これまた少し前の練炭自殺もこれと同じだ。

人間を死なせるノウハウは、特別な兵器や特別な装置、特別な訓練が必要であるわけではない。ただ、そうしたものは人を死なせるためにあるわけではない、という当たり前の合意の元に、そういう目的に使われないだけで、「そういう目的に使用可能だ」ということに我々は普段、気付かないようにしているだけなのだ。

だが、事件後の報道では(これは硫化水素自殺でも同様だが)、犯人がどのように犯罪を行ったかの解説のため、マスコミはそのための手法を繰り返し報道している。わかっていても気付かなかった、そんなことができることを認めないようにしていた、という良識は、犯人個人がそれを破棄したということより、「犯人はそれを破棄しました」と繰り返し報道されることによって、「そういうことができます」というノウハウの周知に繋がってしまう。
マスコミの事件後報道は結果的に模倣犯にノウハウを教えることに手を貸している。
硫化水素自殺についても、マスコミは「ノウハウが書かれたネットの危険性」を指摘している。もちろん、その通りなのだけど、ネットの情報というのは積極的に調べようとすることでしか手に入らない。目標を持って情報を手に入れようとすれば調べられるけれども、テレビや新聞は調べようとしていない人間の耳にも入る。繰り返し具体的な方法が提示され「危ないのでやらないでください」という責任回避的な言い訳が添えられる。積極的ではない人間も、そうしたノウハウをすり込まれてしまう。この罪は大きい。

口実

今回の事件で言えば、事件の背景、犯人を駆り立てた要因ということとして理解されている向きが多いと思うのだけど、もっと言えば犯人自身が「自分は○○○という理由があったから、仕方なく犯罪に走ったのだ」という言い訳、自己弁護のための理由を「口実」としたい。「それなら仕方がない」だの、「犯人にもやむにやまれぬ事情があった」などという擁護的な視点から報道されるものがあれば、それが「口実」だ。犯人もそれを口実とし、たぶん弁護士もそれを口実に情状酌量を求め、本件を「社会が悪い」という図式に押し込めたい識者は、都合良くこの事件を政府批判に利用するだろう。
犯罪はいかなる背景があろうとも、すべてその犯罪者当人が全ての責任を負わなければならない。
かつての猟奇的事件や大量殺人事件の多くは、犯人個人が社会的に憎まれその責を問われた。だが、昨今では犯人への同情、犯人を駆り立てた環境を作った社会などへの責任追及などから、犯人が責任追及の中心に置かれなくなる傾向がある。
人を殺しても、「自分がそうなったのは、他の○○○のせいだ」という、自己正当化のための口実が用意されてしまう。「派遣を切られたから絶望して」という口実に対して、「それなら仕方がない。派遣を切った親会社が悪い、派遣社会を作った政府が悪い」このように同情する報道が相次げば、「自分が同じことをしても、それは自分が悪いわけではないのだ」という意識を持った模倣犯が出てこないほうがおかしい。

5.15事件と2.26事件と

やや脱線する話。
日本ではかつて、1932年に5.15事件、1936年に2.26事件がそれぞれ起きている。いずれもクーデター計画としては失敗しており、首謀者は全て逮捕・処刑されている。
これらの事件は、事件経過やノウハウが詳しく報道され、また犯人がそうした行為を行った背景について、同情的な報道が行われた。*3
犯人にどのような正当な理由があろうとも、口実があろうとも、非合法な手段に訴えた時点でそれは犯罪であり、同情の余地もないし一切の憐憫の情もない。
犯罪者を英雄、殉教者に祭り上げた結果、その後の日本は「血気盛んな青年将校の暴発を恐れた軍部による暴走と迷走」に進んでいく。かつて日本が軍国主義に走った、と言われたのは、そうした報道によって非合法な犯罪者が甘やかされたことが、その遠因(しかしもっとも濃厚な、口実)であったように思う。

WHOによる自殺報道に関する勧告

WHOによる「WHOによる自殺報道に関する勧告(http://www.lifelink.or.jp/hp/Library/jisatsuhoudou_who.pdf)」などに、「自殺原因の単純化(ステロタイプに当てはめる)、自殺の美化・自殺原因の紹介と同情・自殺行為の擁護、自殺方法の詳細な報道は控えるべきだ」というのがある。もう少し詳しいことはリンクを見て貰うとして、原因の単純化は、原因に思い当たる節がある人間に、自殺という選択肢を提示することに繋がり、美化・同情・擁護は自殺衝動の後押しに繋がる。そして自殺方法の紹介な解説は、自殺手段を自殺志願者に教えてしまうことになる。
日本の自殺報道はこのWHO勧告で禁止されていることを全てそのまま行っている。
小中学生が自殺をすれば「いじめ」「進学問題」に当てはめ、自殺原因に同情し、どのように死んだかについていちいち詳細な説明を加える。
古い話になるが、岡田有希子自殺事件の後、数週間のうちに後追い自殺が頻発した。これもマスコミの報道が自殺幇助になっていると言える。
最近では尊属殺人が頻発しているが、これも「報道が行われたことによって、心当たりのある人間が、自分も同じことができ、同様のことをしてよい」という、心理的な後押しを得てしまったことによって起きていると言える。

後戻りできない

これまでにも通り魔事件、大量殺人事件はあったし、大量ではないにせよ話題になった事件は数多く存在した。
そうした事件は一種、暗黙の了解によって抑止されてきた扉を開けてしまう。
新しい扉が開かれても、その扉を開けるノウハウが報道されず、また犯罪者が同情を集めなければ、忌むべき行為の後継者は現れない。
しかし、犯罪者が同情を集めるような報道がなされ、ノウハウが繰り返し喧伝されれば、模倣が続かないほうがおかしい。
つまり、我々はもはや後戻りができない、ということになる。

日本人は熱しやすくて冷めやすいと言われる。実際には熱しやすくて冷めやすいのは日本人というより、そうした事件を報道するマスコミのほう。彼等は、また別のショッキングでセンセーショナルな事件が起これば、そちらに取材報道ソースを移す。スクープ、隠されていた真実、恐るべき事件と手口と真相、などと称して。

もっと恐ろしい展開

先に、911同時多発テロと地下鉄サリン事件を引き合いに出したが。
今回の事件を「犯罪」として見ずに、「公共の場で起こす大量殺人」またはテロの苗床として見た場合に、今行われている各種の報道は非常に危険であることがわかる。


だって、「こんなに簡単に大量殺人ができますよ?」というノウハウを、公共放送を使って繰り返しレクチャーしているようにしか見えないし。
怪談屋から見れば、僕らの仕事よりも、そうした殺人ノウハウの普及と殺意の芽生えに同情する報道のほうが、よっぽど怖いですよ?

*1:アキバのホコ天が今ほどバイク路駐にうるさくなかった時代の話。

*2:海水浴場で子供がボートで転覆したのは監視を怠った海水浴場管理者の責任、という訴訟を起こしている両親がいるが、その事故を予防する最大の方法は、子供を海水浴場に連れてこなければよかったということになる。もっと言えば、家から出さなければよかった。さらに言えば、生まなければよかった。だが、そこまでの根本的原因解消など無意味であることは言うまでもない。

*3:5.15事件の場合、当時の政党政治が腐敗していたから、犯人に対して世論は同情的だった故に、嘆願運動が行われたとある。が、「同情的な世論」を後押ししたのは、当時の報道である。報道が世論を作り、踊らされた世論がそれを作った報道に根拠を与えるという循環構造は、今もさほど変わらない。