無罪判決と遺族

無罪判決が出た際の遺族についての報道にはいつも複雑な想いをさせられる。

 一方、女子高生の母親は、判決理由の読み上げが始まると嗚咽(おえつ)し、約20分間退廷。その後は落ち着き、一点を見つめて聞き入った。
(……)
 今年8月の控訴審第4回公判では「娘は今年で20歳になります。成人式にはどんな晴れ着姿を見せてくれたのかと思い浮かべようとしても、15歳の時の姿しか浮かびません」と意見陳述し、「どうして1審で極刑にならなかったのか理解できない」と訴えていた。


 記者会見では代理人の細川治弁護士が出席し、「良い結果が出ることを信じていました。とても受け入れられない内容で、悔しく納得できません。このままで終わることはできません。真実が明らかになることを祈り続けます」との母親のコメントを読み上げた。母親は閉廷後、検察官に「絶対上告してください」と訴えたという。細川弁護士は「驚きの判決だった」と母親の心情を思いやった。
(原文のルビを括弧書きに改めた)

冤罪事件、特に殺人が絡む冤罪の第一の被害者は、もちろん無実の罪で人生の長い時間を浪費させられた(場合によっては死刑になったかもしれない)被疑者・被告人であるが、第二の被害者は事件の犠牲者――いずれにしても捜査・裁判の行方を知る術がない――以上に犠牲者遺族であろう(真犯人が判明して冤罪であることがわかったケースは別として)。もちろん遺族とて、「疑わしきは罰せず」という原則は承知しているはずだが、否認事件でも有罪率が90%を大きく越える日本の刑事裁判の実情では、逮捕ないし起訴された時点で「事実上の」犯人視されるのが普通であり、まして遺族であれば「有罪が確定するまでは犯人ではない」という不確定な認識を長期間抱きつづけるのは困難で、「(真)犯人が捕まったのだ」と信じたくなるのは無理もない。さらに被害者参加制度の導入以降は、(今回の事件でもそうだったように)被害者遺族は「極刑を求める」といった形で自ら裁判プロセスに関わることがあり得る。実のところ遺族だって、法廷に提出される証拠以外に「こいつが犯人だ」と信じる根拠などもっていないのが普通なのだが、「極刑を求める」という証言をする以上、「真犯人じゃないかもしれない」という疑念は無理にでも排除しなければならないし、捜査当局もまさか「犯人かどうかは裁判所が決めることで、結果がどうなるかは分かりません。でも法廷では極刑を求める、と証言して下さい」などとは説明しないだろう。
今回の事件はまだ無罪が確定していないし、また無罪が直ちに無実を意味するわけでもないが、当初から証拠の乏しさが指摘されていた事件ではあり、現在の被告人は無罪という結末になる可能性は決して低くないだろう。仮に無罪が確定したとすれば、遺族は憎むべき相手を見失うか、それとも公には憎んではいけない相手を憎みつづけるかの選択を迫られる。仮に遺族が「間違った相手を憎んでしまった」という納得を得られたとしても、捜査当局が自説に固執せずに再捜査を行なうのかどうか、仮に行なったとしても時間の経過により「真犯人」の摘発に至るのかどうか……といった不確定さに直面しなければならない。
裁判員制度の導入前後から、裁判所が有罪の証明に対するハードルをあげたのではないか、とはしばしば指摘されるところだ。とすれば、今後も似たような事態は起きるだろう。「これが犯人です、さあ、こいつを憎みましょう」とは違った、「犯人ではないかもしれない」という可能性をふまえた遺族への対応はどうあるべきかを考えることも必要ではないだろうか。証拠の乏しい事件で遺族に被害者参加制度を適用することのリスクも考えるべきだろう。
(なお、この事件にはいわゆる「自白」はありませんが、供述の一部が一審では有罪の根拠とされ、今回の二審では取調官による誘導の可能性が否定できないと指摘された、という事情をふまえて「自白の研究」タグを使用しています。)