マジョリティにとって「黙殺しさえすれば勝ち」という状況でマイノリティにヌルい抗議しか許さないのは現状追認と同じ

はてなブックマーク - 台湾女性議員を告訴へ 靖国神社で過激デモ:産経関西(産経新聞大阪本社公式ニュースサイト)
この件については右派からの高金素梅氏に対する誹謗が出てくるのは当然として、「抗議するのはいいけどやり方がね」という“良識的”な反応が予想される。だが同じ論法が例えば在特会についても使われたことに留意しなければならない。植民地主義の残滓(しかし本当に残滓と言ってよいのか?)に対する抗議と排外主義とを等価なものとしてしまうような観点は断固として拒否しなければならない。


ある種の議論においては、多様な見解が存在すること自体に価値を認めることができる。そのような議論において各論者はもちろん自説の正当性をアピールし支持者を増やすことを目指すだろうが、異論の持ち主がいなくなることを目指すわけではない。例えば、私は新自由主義者がこの世からいなくなることを望まない。しかし差別や排外主義や歴史修正主義を相手にする場合は事情が異なる。現実問題として、この世から排外主義者や南京事件否定論者が消え去ることはないだろうし、言論による批判によって彼らが姿を消さないからといって「じゃあ公安に弾圧させようぜ」とも思わない(まあ仮に頼んだところできっちり弾圧するとも思えないが)。しかしながら、排外主義や南京事件否定論を批判する際に、同時にヘイトスピーチや否定論が語られ続けることを望むなどということはナンセンスだ。ヘイトスピーチや否定論が跡形もなく消え去ることなど現実にはあり得ないから、それを戦略的な目標にはさしあたってしない、ということならありうる。だが「まあヘイトスピーチや南京事件否定論の存在も言論の多様性に貢献しているのだから、容認しましょう」なんてヌルい態度はあり得ない。ヘイトスピーチや歴史修正主義的言説はそれ自体が他者の尊厳への侵害となっているのだから。
だから抗議する側が相手に対して「圧力」をかけようとするのは当然のことである。だって、問題の表現は現にすでにそこにある(ないし放置しておけば間もなく世に出る)のであるから。ある表現が現にいまあるようなかたちで世にあることが好ましくないと考えるのなら、その状態を変えようと思うなら、なんらかの「力」がはたらかねばならないことは自明である*1。もちろんある表現行為に対する抗議が、常にその表現の公的空間からの追放を目指さなければならないわけではない。だからといって、結果として抗議対象となった表現が追放されることになったからといって、ただちにその抗議が(あるいは抗議のやり方が)不当であるということにもならない。不当な抗議であったかどうかはその表現それ自体、その表現がおかれている文脈、抗議の様態(両者間で交渉があればその経過)などを踏まえてそれ自体議論の対象となるべきことである。そうした議論抜きに「圧力はけしからん」とするのは、要するに現状維持に与することである。ある社会に差別があり、その差別に対する抗議がなされるとき、マジョリティはまさになにもしないことによって差別を温存することができるからである。マイノリティが自粛して「批判を手紙で送る」といったヌルい方法しか選ばない社会はさぞかしマジョリティにとって居心地のよい社会だろうが、この社会のマジョリティってそんなに誠実でしたっけ?
(もちろん「どちらがマジョリティか?」がそれほど自明でない場合だってある。喫煙者がマジョリティであった歴史を勘案したとしても、いまや喫煙者はマイノリティであるといい得るだろう。しかし、だからといって
http://news.nifty.com/cs/headline/detail/yomiuri-20091229-00086/1.htm
この↑ニュースに関し「街宣右翼より怖い」などとするのは――そう、みなさんのご想像通りのひとのことだが――たわごとといわざるを得ない。)


「抗議するにしても法は守れ」という主張は一見したところ(抗議者、抗議対象の思想信条に触れていないという点で)中立的に思えるかもしれない。しかしマジョリティとマイノリティの間にある非対称性を無視してそのような「中立」の立場を降りかざすならば、それは結局のところ現状維持への加担にしかならないだろう。

*1:公権力が私人に対して「圧力」をかける場合については、当然はなしは別になる。