「信頼関係」の構築による“自白”

日本の警察、検察が取り調べ過程の全面的可視化に反対する理由として、被疑者との「信頼関係」「人間関係」を構築することが困難になるから、というものを挙げていることについてはこれまで何度か指摘してきた(例えばこちら)。ではその「信頼関係」なるものの内実は? というのが今回のテーマ。
ところで、仁保事件では(元)被告は警察での取調中に拷問もうけたと主張している。広島高裁の無罪判決(ただし別件の微罪については有罪)によれば、その内容は次のようなものである。

被告人は一審以来当審に至るまで終始警察官よりはげしい拷問をうけたと供述し、その内容として、長時間正座させられ、体がしびれ小便が出ても分らんようになつたこと、かわるがわる打つ、蹴る、殴る、耳をねじまげる、鼻をはじく、投げ飛ばす、指の間に鉛筆をいれてねじあげる、頭をひもで後ろのズボンにくくりつけて頭をそらせる、顔を箒で逆なでする、正座した膝の上にのる、寒中にやかんの水を首筋にたらしうちわであおぐ、金だらいで冷やす等の暴行を加えられ、そのため歯ぐきから血がみ切れない位出たり、頬の一方がよおけはれて青くなつたり、着衣が破損したこと、食事も満足に食べさせられず、昼食は晩に、晩食は夜中一二時頃に食べさせられ、幾晩も留置場に帰らせてくれなかつたこと等をあげている。

判決は警察での取調べについて「程度はともかく何らかの強制もしくは威迫的取調べがあつたことをうかがわせるものがある」「前記発言の内容、その執拗の程度、長時間であることに照らし、やはり説得の限度をこえているものといわざるを得ない」としたものの、拷問の事実は認めなかった(ただし別件起訴中に行なわれた取調べについて「令状主義の趣旨にもとる違法の疑を免れない」とはされている)。立証の難しい密室での出来事ではあるけれども、ここでは拷問の存否についてはカッコに入れることとする。(余談だが、判決を読んでいると「国民服」「軍服」といった文言が出てくる。敗戦から9年後の事件だが、まだ戦争の影が色濃く残っていたことを感じさせる。)


ではいよいよテープに記録された取り調べ過程の一部をみてみよう。次の部分はごく初期の録音、取調官が被疑者の“落ちる”雰囲気を感じとり隠しマイクで録音したものである(『自白の心理学』123-124ページ、強調は引用者。また「A」「B」はそれぞれ取調官)。

 B うん、のー、(岡部の鼻をすする音)もうね無我の境になっちょるんだから、の、いろいろな邪念がかかっていないんでね、のう、まあ一服吸うてそれからお話しようで、のーや(二〇秒沈黙、岡部鼻すすり、ため息)。
 A やっぱり子どもがじゃね、親にすがりつくだ、あの気持ちになってね、わしも君がいよいよ真から言うたさっきのことはな、ね、わしもいよいよほんと心のうちでは泣くような、なんじゃ、心になるで、ほんとに、それほどになるで、本気になってくれたかと思うとの、事実を話してくれるかと思うとね、そねいになってくるんで、わしも。の、何がお前なんじゃろうが、お医者さんでも、重症患者、この世で死にゃあええちゅうなこと思う者は一つもないで、ね、そうじゃろ。うん(岡部鼻すすり)、それからなんだろうが、わしらだってじゃ、ね、悪いからちゅうて、そういう人間悪いからちゅうて、こげんな外道、殺しちゃろうちゅうような、こんな、捕らえてじゃね、刑務所へ入れたろういうような気持ちは一つもないんで。うん、わしゃいつでもそれを言う、どういう、いかなるその極悪非道な人でも、ええ、人間の真のその何を聞いたら、ね、みなその善人にたちかえってくる。良心ちゅうものがあるんだからね(岡部鼻すすり)。
 B もう落ちついたか、うん? のー、ちょっと話そうで、の、話してしまおうでのー、そしたら楽になる。
 A じいっと落ち着いてね、腹に力を入れてど、の、腹に力を入れて力が入らんにゃ、これ腰に手をもってってじゃね、そしてはなしをしてごらん。(岡部鼻すすり)ずーっと精神統一をやってやると、ずーっと話ができる。僕らは、あのこの前もちょっと君と話したようにね、座禅をする。実際のところがそうまでして僕は修養する。現在においてもまだ僕は修養が足らないと思うとる、ね。人間には完成というものはないんだ、ね。どこまでいったからいうて完成はない。
 A・B 未完成だから、な。
 B それをじゃね、人からね、いろいろ教わり、人から聞いてみな完成に近い人間になってくる。完成しつつある人間ができてくる。ね、そいじゃからね、岡部君のつらい気持ちはようわかるけど、これを出さにゃどうにもならんのじゃからね。君はいま言う腹になっとんだから、お話する気持ちになっとる。美しい気持ちになっちょる。ね、ほいじゃからなんで、お話してまおうで、のう、うん?

まるで自己啓発セミナーかと思うようなやりとりである。注意を要するのは、これは初期の録音とはいえ、録音が開始されるまでにすでに10日近い取調べが行なわれている(逮捕からは20日前後経っている)こと、またこの時点で被疑者は別件の微罪で起訴されているため刑事被告人の身分となっており、逮捕状の勾留期限の制約を受けなくなっていることである。実際、本格的な取調べの開始から検察官調書の作成まで、4ヶ月半もの間取調べは続いた(上述のようにこの点が「違法の疑を免れない」とされた)。つまりこのようなやりとりが一体どれほど続いたか知れたものではない、ということである。右派が中国帰還者連絡会を誹謗する際によく「洗脳」ということばを使うが、撫順および太原での戦犯容疑者たちは基本的には収容者同士のコミュニケーションを断たれてはいない。「洗脳」とはむしろこういう取調べについて言うべきことであろう。
もちろん、警察での取調べが常にこうした様相を呈するわけではあるまい。有力な物証なり目撃証言がある場合にはむしろそれら“動かぬ証拠”を突きつけて自白を迫るのが中心的な手法になるのだろう。また、確認のしようもないこととはいえ、取調官の側に“無実の者を陥れよう”という悪意など(おそらく)なかった、という点も重要である。そうした悪意を被疑者が感じとれば、おそらくもっと粘り強い抵抗も可能だったに違いない。
『自白の心理学』ではもう一カ所、上の引用に続く部分が2ページ弱に渡って引用されているが、ここでは「赤裸々な気持ちにならなくちゃいけない」「純真無垢な精神にならなくちゃいけない」「いままで犯した不孝というものの償い」といった言葉が並んでいることを指摘するにとどめる。


対比のため、同書の第2章で扱われている「甲山事件」*1の場合についても簡単にみておこう。事件が起きたのは私が子どものころで、関西に住んでいた私にとっては初めて「冤罪」という言葉を知った事件だった。逮捕当初は「おまえみたいに極悪非道な女はおらん」「これはふつうの女にできる犯罪じゃない。おまえは何か邪心にとりつかれとるんとちがうか」といった罵倒を尽くした(76ページ)後、一転して被疑者を「悦ちゃん」と呼び出す(78ページ)。"Good cop, bad cop"を時間差でやるわけである。そのうえで、父親との面会を次のように利用する(81-82ページ)。

 悦ちゃん、さっき捜査員がお父さんを車で送っていきましたが、お父さんは車の中でふーっと大きな溜息をついたそうです。悦ちゃん、この溜息は何だと思いますか。この溜息は悦ちゃんを疑っている溜息です。ひょっとしたらうちの悦ちゃんがやったのではないかという溜息です。----悦ちゃん、親というものは、たとえ子がやっていても、うちの子に限ってそんなことはないと思うのが親心ですよ。悦ちゃんのお父さんはそうではありませんね。悦ちゃんを疑っているのです。その苦しみが大きな溜息になって出たんです。(後略)

ほんとうにそんな意味での溜め息だったのか、そもそも本当に溜め息をついたのかすら確かめる術のない被疑者に対して「おまえは孤立無援だ」と思い込ませ、自責の念をテコに自白を迫ろうとしているわけである。こちらは「偽計」による虚偽自白の誘導、といって間違いではなかろう。密室での取調べで「信頼関係」が取調官と被疑者の間に成立するケースがないとは言えないが、密室がこうした偽計を隠していることもまた事実なのである。

*1:兵庫県の知的障害者施設で園生2人が行方不明となり、浄化槽で死体が発見された事件。逮捕された保母はいったん不起訴処分が決定するが、検察審査会の「不起訴不当」との決定で再逮捕、起訴。一審無罪、高裁で地裁に差し戻し、差し戻し審でまた無罪、高裁が検察の控訴を棄却し、21年かかった裁判は被告の無罪が確定して決着した。