『潜夫論』を読んでみよう−救辺篇その3

http://d.hatena.ne.jp/T_S/20140902/1409583886の続き。


昔樂毅以慱慱之小燕、破滅強齊、威震天下、真可謂良將矣。然即墨大夫以孤城獨守、六年不下、竟完其民。田單帥窮率五千、撃走騎劫、復齊七十餘城、可謂善用兵矣。圍聊・莒連年、終不能拔。
此皆以至強攻至弱、以上智圖下愚、而猶不能克者、何也?曰攻常不足而守恒有餘也。前日諸郡皆據列城而擁大衆、羌虜之智、非乃樂毅・田單也。郡縣之阨、未若聊・莒・即墨也、然皆不肯專心堅守、而反彊驅劫其民、捐棄倉庫、背城邑走。由此觀之、非苦城乏糧也、但苦將不食爾。
(『潜夫論』救辺第二十二)


昔、楽毅は小国の燕から強い斉を破った良将であったが、それでも即墨の大夫は城を守り、斉の田単が兵を出すと一気に国を回復した。誠に素晴らしい用兵であった。聊・莒も何年も攻めたがついに落とせなかった。




このように強い勢力が弱い勢力を攻め、知恵のある者が愚かな者を攻めてもなお勝てない場合があるというのはどういうことか?




攻める方は常に物資の不足という問題を抱え、守る方は準備があるからである。




かつて羌との戦いの際も、涼州諸郡は城を連ねて大軍を擁していたし、羌族は楽毅や田単ほどの名将ではないし、郡県が受けた攻撃も聊・莒・即墨が受けた城攻めほどではなかった。



それなのに、防衛に専心しようとせず、民をむりやり移住させて戦争の備えも捨て去り、城から逃げさせたのである。




こうして見ると、城に食糧が足りなくて苦しんだのではなく、大将が城に籠城して備蓄食料を食べようとしないで逃げ出すことに苦しんだのである。


王符先生は徹底抗戦ではなく強制移住による後退を命じた中央政府の弱腰と判断の誤りを糾弾する。



例の強制移住は涼州の人間にとっては相当恨み骨髄だったのかもしれない。