どくしょのじかん 4

George Hicks を陥れる手口 1


うちゃさんのブロク  Non-Fiction(Remix Version) しゃれになりません

は、マイクル・シャーマー著「なぜ人はニセ科学を信じるのか」に出ている、「創造論者とホロコースト否定論者のとる議論手法の類似点」をあげて、秦先生が歴史修正主義者であることを明確に指摘しておられます。そのエントリーや関連エントリーを読まれてから、わたしのエントリーを読まれることをお薦めします。


秦郁彦『慰安婦と戦場の性』(1995年、新潮選書)におけるジョージ・ヒックス『性の奴隷 従軍慰安婦』への言及を抜粋引用し、ヒックスの原著(英語)と比較しながら、感じたことを書き綴っていきます。なお、今までずっと指摘してきたように、『慰安婦と戦場の性』はつっこみどころだらけなので、細かいつっこみは脚注に書いてあります(環境によって、脚注番号にマウスを持っていけば内容が表示されます)。

クマラスワミ女史はエール、コロンビア両大学で学び、ハーバードにもいたらしい*1ので、こうしたレポート作成上の技法は承知しているはずだが、この報告書では事実関係に関わる部分は、すべてオーストラリア人ジャーナリストのジョージ・ヒックスが1995年に刊行した『慰安婦(1)』 (The Comfort Women)という通俗書*2からの引用である。


 利用した参考文献が一冊だけ*3となれば、丸写しと判定されても仕方のないところ*4だが、そのヒックス著にも問題が多い。巻末に36個の参考文献はあげてある(秦の論文、著書は見当たらぬ)*5ものの、欧米では一般書でもつけるのが慣例である脚注が珍しくついていない。つまり、どの文献に基づいて記述したのか、対応関係がわからない仕組みになっている。


 それでも我慢して拾い読みしてみたが、初歩的な間違いと歪曲だらけで、救いようがないと感じた*6。一例を挙げると、「鈴木裕子の著書によれば、1932年の第一次上海事変中に、日本軍の岡村寧次中将が長崎県知事に依頼して北九州から一団の朝鮮人女性たちを上海の慰安所に送ったのが第一号(ヒックス19ページ、傍線は秦)という要旨*7の記述がある。


 そこで、鈴木の書著『従軍慰安婦・内鮮結婚』(未来社、1992)に当ると、主旨は同様だが、傍線の部分だけはない。鈴木が典拠として引用した『岡村寧次大将――戦場回想録』(原書房、1970)を見ても、やはり傍線のくだりはなかった。」


(1) 1995年10月に浜田徹訳で、三一書房から『性の奴隷 従軍慰安婦』の標題で邦訳が刊行されているが、誤訳が多い*8。


(秦、265〜266ページ、強調および"*"で始まる脚注は引用者による。以下同じ)


秦先生が要約した部分をヒックスから引用してみる。

The first comfort stations under direct Japanese military control were in Shanghai in 1932, following vicious clashes between Japanese troops and the Chinese. One of the commanders involved in the Shanghai campaign, Lieutenant-General Okamura Yasuji, confessed, 'though with embarrassment', in memoirs published in 1970 (Suzuki Yuko 1992), that he was the original proponent of comfort stations for the Army. After 223 reported rape cases by Japanese troops, he sought a solution by 'following local naval practice', and requested the governor of Nagasaki Prefecture to send a contingent of comfort women to Shanghai. Rape report then fell off markedly, providing a rationale for the subsequent expansion of military prostitution.


These comfort women were made up of Koreans, not from the Korean Peninsula but from the North Kyushu mining area of Japan, where there was a Korean community.


(George Hicks "The Comfort Women", 1995 W.W. Norton & Company, Inc, p. 45)

(強調および下線は引用者による)


秦先生は、「脚注がついていない」ので「どの文献に基づいて記述したのか、対応関係がわからない」と断定的に書き、それに沿う形でヒックスの原文を要約し、鈴木氏の著作も、岡村中将の回想記もあたかも自分で探したかのような印象を与える文章を書いているが、ヒックスの原文には、岡村中将の回想記が1970年に出版されたことも書いてあり、ヒックスはそれを1992年の鈴木氏の著作から引用したことを(Suzuki Yuko 1992)という形で示している。なおこの鈴木氏の著作は、秦先生が「秦の論文、著書は見当たらぬ」とひどくご不満な様子のヒックス書の参考文献に含まれている*9


ヒックスの"The Comfort Women"には、確かに、秦先生の言うように脚注はないが、その引用元は文中で示しており、「どの文献に基づいて記述したのか、対応関係がわかる」。また、ヒックスの著作は索引が充実しているので(こちらのほうが洋書では一般的だろう)、秦先生のお粗末な索引よりはよほど役に立つ。


また、ヒックスの著述の真偽を確かめるために参照した『従軍慰安婦・内鮮結婚』および『岡村寧次大将――戦場回想録』の参照ページ数を書いていない。脚注重視の秦先生にしてはお粗末というか首尾一貫していない。それとも、他に意図があるのであろうか?


たしかに、「北九州から一団の朝鮮人女性たち」を上海の慰安所に送ったかどうかは疑問であり、その一団が" Koreans from the North Kyushu mining area of Japan, where there was a Korean community(朝鮮人コミュニティーがあった北九州の炭鉱地帯出身の朝鮮人)"かどうかはさらに疑問である。


実際に、荒井信一先生はクワラスワミ報告書の翻訳にあたり「原文は、徴集された女性を「朝鮮人」としているが、典拠となったヒックス『従軍慰安婦――日本軍の性奴隷たち』の独断と思われるので、訳文から「朝鮮人」を削除した。」と指摘している。

(追記)
このヒックスの文を引用して、クマラスワミ報告書が書かれているからか、第11項と第24項に、それぞれ「北九州地域出身の朝鮮人」、「日本国内の朝鮮人コミュニティー出身の朝鮮人多数」という表現が出てくるが、クマラスワミ女史の書き方はなかなか巧妙であり、ヒックスに書かれていることのみを理由にした秦先生の主張が受け入れられることはないようにも思える。

11. The first military sexual slaves were Koreans from the North Kyushu area of Japan, and were sent, at the request of one of the commanding officers of the army, by the Governor of Nagasaki Prefecture.


24. The first comfort stations under direct Japanese control were those in Shanghai in 1932, and there is first-hand evidence of official involvement in their establishment. One of the commanders of the Shanghai campaign, Lieutenant-General Okamura Yasuji, confessed in his memoirs to have been the original proponent of comfort stations for the military. Ibid., p. 19. There had been a very high incidence of rape by Japanese troops and, in response, a number of Korean women from a Korean community in Japan were sent to the province by the Governor of Nagasaki Prefecture.

(下線は引用者による)

(追記終わり)


また、吉見義明先生も次のように述べている。

陸軍では、上海派遣軍の岡村寧次参謀副長が海軍の慰安所を参考にして、1932年3月から設置にあたった。その回想によれば、上海で日本軍人による強姦事件が発生したので、これを防ぐために長崎県知事に要請して「慰安婦団」を招いたという(稲葉正夫編 『岡村寧次大将資料』 戦場回想篇)。シベリア・アジア・太平洋の各地に、売春のために身売りなどで出て行かされた「からゆきさん」は、長崎県出身の女性が多かったので、陸軍はまずそれに目をつけたのであろう。


(吉見義明 『従軍慰安婦』、1995年 岩波新書、16〜17ページ)


実は、この経緯に関して一番詳しく述べているのは秦先生であり、『慰安婦と戦場の性』で次のように述べている。

・・・・・軍参謀副長岡村寧次大佐(終戦時の支那派遣軍総司令官)の回想録は、「海軍にならい、長崎県知事に要請して慰安婦団を招き、その後全く強姦罪が止んだので喜んだものである(2)」と記す。
 対応する送り出し側の記録は見つかっていないが、長崎は上海に出征した混成第24旅団の郷土でもあったから、■■遊廓を中心とする業者は喜んで要請に応じたものと思われる(3)。


『満州事変陸軍衛生史』によると、「公認集娼制」の主旨で集めた慰安婦(公文書では接客婦と呼称)は長崎ばかりではなく、「青島、長崎、平壌等より日鮮支那人を集めたるも採用時の検査厳重にして不合格者甚だ多数を出せり(4)」とのことであった。


 内訳は不明だが、「軍娯楽場」と名づけた施設は、上海の中華電気社宅を改造した場所に約80人、呉淞(ウースン)の仏教学校を改造した場所に約50人で、工費と設備費に約2万円を要した。他に宝山県城へ歩兵第6旅団のために約20人、呉淞鎮に歩兵第7連隊(金沢)のために約10人の接客婦がいた。


(2) 『岡村寧次大将資料――戦場回想編』*10 (原書房、1970) 302ページ
(3) 警察統計によると、1931年末げんざいで長崎県に登録された芸妓は1117人、酌婦が1614人、娼妓は1555人であった。
(4) 陸軍省『満州事変陸軍衛生史』 第6巻(1937) 834ページ


(秦、64ページ)


1965年に防衛庁防衛局に入局、その後、防衛研修所(防衛研究所)教官、防衛大学校講師を数年間勤められた秦先生が、一番真相を究明しやすのでは?と素人のわたしなんかは思ってしまうのだが、誤りだと断定するだけではなく、どこが誤りなのか教えていただけると有難い(期待はしてませんが・・・)。


それとは別に、鈴木裕子氏の『従軍慰安婦・内鮮結婚』(未来社、1992)の記述が気になるところである。とにかく秦先生の引用は信用できないので、自分で調べるつもりでいる。


吉田清治を嘘つき呼ばわりし、その著作の価値を貶めることにまんまと成功した先生が、ヒックスの著作を攻撃し、その価値を貶めることで、クワラスワミ報告書自体の価値も貶めようとした流れは歴然としている。そして、それはかなり成功したと言える(追記:成功したのは日本国内のみである。海外では、吉田清治、ヒックス、クマラスワミ報告、どれもが高い評価を受けている。吉見先生や林先生、それにVAWW-NETを筆頭としたNGOの活動も高い評価を受けており、慰安婦問題では秦先生は相手にすらされていないし、先生自身が英語で発信した文献もほとんどない。仮に『慰安婦と戦場の性』が英訳され出版されても、わざわざ買う人はいないであろう・・・わたしみたいな変人を除いてw)。


次回も引き続き、ヒックスの原文と秦先生の著述を引き比べながら、その実態を暴きだしてみることにする。


(どくしょのじかん 5 につづく)

*1:ご存知のくせに

*2:どのような意味で「通俗書」と言っているのか不明、そのすぐあとで「一般書」と言い換えているが、その理由も不明

*3:クワラスワミ氏が報告書を書き上げる時点で、引用可能な慰安婦を包括的に論述した英語書籍はヒックスのみ

*4:何が言いたいのかわからない

*5:はいはい、スネない、スネないw

*6:拾い読み程度で、断定的に決め付けるのはいかがなものかと・・・

*7:引用も信用できないのに、要旨なぞ信頼性皆無

*8:またまた根拠も示さずに断定

*9:Suzuki Yuko 1992, Jugun Ianfu Naisen Kekkon (Military Comfort Women. Japanese-Korean Marriages), Miraisha, Tokyo.

*10:「回想録」なのか「回想編」なのかどっちでしょうか?文献の取り扱いが杜撰です。