モテたい理由


赤坂真理『モテたい理由 男の受難・女の業』(講談社現代新書、2007.12)を読了した。女性が「女性誌」を観察し続け、ここまで本音で語れることは、実に見事であり、女性誌の言葉の文脈をここまで徹底して解剖されると、読み手とりわけ男性としては心地よい。数多い「男女論」の中でも傑出した内容であった。


モテたい理由 (講談社現代新書)

モテたい理由 (講談社現代新書)


通読しながら何度もうなづく箇所が多く、いまなぜ女性誌が「モテ」に走っているかがよくわかる。女性誌は新聞の広告欄の見出しを見れば、いま、女性たちにとって「何」に関心があるか、少なくとも表層的には読めていると思っていた。ところが、自分のあるいは男としての私の読みがいかに浅いものであったかを思い知らされた。その意味で本書は「目うろこ」本となった。

例えば、男と女の本質的な差異を次のように指摘されると唖然としてしまう。

男性の特徴は「一点集中」であり、「専門家と分業」である。・・・(中略)・・・女はどこかで、自分が人にどう見えるかを気にしている。またどこかで関係調整の神経チャンネルを開いている。よく言えばマルチタスク。気配りができる。悪くいえば注意が散っている。身体がそうできている。身近な細かいところに神経が行く、それが生き残るために女が獲得し、強化した生理的特長だったのだろう。(p.18)


なるほど、そうだったのかと納得する。また、男のオタク化は必然であるという論理も説得的だ。

男に「スタイル」へのこだわりはあるかもしれないが、そこに時間軸はない。男の他の趣味とも同じに。男は、時間軸をとるよりは一点を「掘り下げよう」としている。放し飼い状態ならば、もれなくオタク的になる。(p.79)

女性は時間軸に沿ったライフスタイル語りの傾向があり、「変化」に強い。

セックスは男女に平等な愉しみと言えるが、その結果はといえば劇的に変わるの女性であり、男性のなにものをも変えはしない。いつか姓が変わることも、女の人生のいわば前提にされていたりする。名前ひとつでさえ、男たちもその立場になってもらえば混乱がわかるだろうが、あまり考慮されない。(p.98)


いつも不安定にさらされている女性は変化に強いというのだ。女性誌は「ライフスタル」や「モテ」を再生産し続けている。そしてたどりつくところは、あれもこれもすべて獲得した女性が賞賛される。キャリアで成功し、結婚し子供を持つ。かつては「結婚」と「出産」しかなかった女性が、今は仕事もできるし、家庭も持ち子供をもつ。いってみれば、女性の幸福な生き方は、それらを女性が主体的に選ぶことができるという幻想に支配されていることによる。


男性が女性に求めるものはほとんど変化していないにもかかわらず、女性は「びっくりするほど変化してきた」と著者は指摘している。つまり、「ごくオーソドックスな男性性が批判にさらされている」いま、普通の男は棲息しにくい風土になっていると言う。

女性誌が「ライフスタイル」として見せるのは、生き方の「ヴァリエーション」では決してなく、何でも持っている一人の人がえらいと「合算合計スコア」の高い人をほめるやり方である。そういう人を集めると、すごいが、話が似すぎている。一人一人見ればもちろんいい話なのだが、ヴァリエーションのない世界というのは、人間が棲息するには苦しい。アイテムは増やされ続け、手放す勇気は、誰も教えてくれない。そして、人の焦燥と不安ほど、商業的に利用価値のあるものもない。(p.189−190)


「モテ」や「ライフスタイル」を繰り返し再生産している女性誌の本質を鋭くついている。赤坂真理によれば、女性の人生の要所は「恋愛(モテ)ー結婚」にあるのではなく、「セックスー出産」ラインにあるという。

女性誌をかれこれ四半世紀以上読んできて、私が見たことがないのは、ライフスタイルにおける「セックスと家族の相関関係」だった。親子や子供像が出てくることはあっても、そこに夫はいない。
・・・(中略)・・・女性誌にはずっとずっと、「恋人」も「夫」も出てこない。「モテ」とあんなに騒いでいながらも、男の姿は絶無だった。(p。203−204)


面白い見方だ。「恋愛(モテ)ー結婚」を反復・再生産している女性誌には「セックスー出産」が言語化されていないというわけだ。肝心な男が不在であるからこそ、女性から男姓への要求のみ増幅され、変化しない男性受難の時代になっている。


「戦争」の不在や「アメリカ」への同化について言及されて行くけれど、まあそれはさておき、男女の現在のありようを、女性の側からこれほど鋭く分析された本に出会ったことは、僥倖というべきか。


ヴァイブレータ (講談社文庫)

ヴァイブレータ (講談社文庫)


バイクで走ることを無上の喜びとする赤坂真理氏に敬意を表したい。なにしろ著者は、『iモード事件』の松永真理ではなく、『ヴァイブレータ』*1の赤坂真理なのだから。


*1:廣木隆一監督、寺島しのぶ主演で映画化された。