情熱が消えるとき

数少ない大学の同期でアカデミアへ進んだ友人が、アカデミアを去った。

稀代の天才、とまではいかないものの、真摯に実験に取り組み、着々と手堅いいい仕事を論文として世に出して行く切れ者だった。何より彼には研究に対する人一倍の情熱があった。「俺は今、これを知りたいんだ!」と合うたびに現在のテーマについて嬉々として語る彼に、僕は憧れもしたし、こいつとポストを争うのか、という絶望感すら覚えたものだ。

実際、彼の経歴も業績も常に輝かしかった。
学生時代から頭角を現し、滞りなく学位を取ると、颯爽と海外に留学して帰国と同時に某旧帝大にポストを得た。絵に描いたような経歴だった。
研究者としてのみならず、性格も温厚で闊達、おまけに面倒見も良いことで知られた彼は、当然のごとく周りからも祝福され、「彼ならいい先生、いい研究者になるよ」と誰もが彼の未来を信じて疑わなかった。

しかし、今思えば、その頃から彼と会った時にする話の内容は変わり始めた。
以前のような、研究に対する熱っぽい話は鳴りを潜め、職場の愚痴や上司への不満が主な内容となった。
当時は、「ポジションを取るとそういう気苦労もでてくるのだなぁ」くらいにしか思わなかったが、今思えば彼の中で研究に対する情熱が急速に失われて行ったのだろう。

昨年度末を持って彼はアカデミアを去った。
「人間関係に疲弊して、研究に対する情熱が消えてしまった」という短い報告を受けたのがつい先日のこと。奇しくも出身大学のそば、学部の頃にも彼と飲んだ馴染みの居酒屋でのことだった。

彼がポストを得たのは複数のPIが共同で運営する講座形式の研究室だったらしい。
仲が良いとは言えない2人のPIの狭間で気苦労が絶えない毎日だったらしい。
ひたすらデータを取ることを求める割に論文はさっぱり書く気もない上司と、既に研究からは遠ざかっている割に口だけは小うるさく出してくる上司の狭間で消耗し、実験を、研究を、執筆をする意義が見いだせなくなり、ただただ上司らとの摩擦を起こさないように過ごし、大量に押し付けられる事務仕事や学内仕事の合間にできるような小手先の研究に終始するようになってしまったそうだ。
そして、それを彼自身が自覚した時、やめる決心をしたとのこと。

「一生懸命実験やって、真摯にデータと向き合い、渾身の力で論文書いていれば報われる、、って信じてやってきた世界だったんだけどな〜」とこの10年余りでやけに老け込んでしまった彼の横顔に、僕には掛ける言葉などあるはずもなかった。別れ際、最後に「悔いはないよ。でもお前はもっとうまくやれよ」と言ってくれた彼の目には涙が浮かんでいた。

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僕はまだアカデミアを信じている。懸命に実験を遂行し、データと正直に向き合い、同僚と実りのある議論をし、論文として世に送り出す、そのプロセスを滞りなく回すことこそが正義だと信じている。

だが、現実はどうだ。

僕ら若手の目の前に現れている現実はどうだ。

明日の居場所もわからないのにピペットを握るポスドク、短い任期の間にいいようにこき使われる名ばかり特任助教、研究室のデータマシンが如く使い潰される博士院生、コンビニ店員並みの時給で働くテクニシャン、、、そんな使い捨てが如き僕ら若手の上で、長らく一編の論文すら出さずにくだらない諍いを繰り広げているあいつやあいつもテニュアのPI様と来たもんだ!


僕にはまだわずかながらに情熱が残っている。しかし、こんな現実を長く見続けられるほど、僕は強くない。