出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話 番外編その五の9美術展カタログ『ミレー3大名画展』と『ピサロ展』

 浜松の典昭堂で美術展カタログが大量に放出されていたので、私も多くを買い求め、知らずにいた美術展をカタログで観ている。

 その中に『ミレー3大名画展―ヨーロッパ自然主義の画家たち』(Bunkamura ザ・ミュージアム他、二〇〇三年)と『ピサロ展―カミーユ・ピサロとオワーズ川の画家たち』(日本橋三越本店7Fギャラリー他、二〇〇四年)があり、とても触発された。それを書いてみたい。以下前者は『ミレー展』、後者は『ピサロ展』とする。

  没後100年記念 ピサロ展 カミーユ・ピサロとオワーズ川の画家たち [図録]

 私は『近代出版史探索』192や「フランスと日本の農耕社会」(『郊外の果てへの旅/混住社会論』所収)でふれてきたように、ゾラの『大地』の翻訳者であり、十九世紀後半のフランスの農村の風景にも留意してきた。それは時代からして、必然的に写真ではなく絵画ということになるし、ゾラの『美術論集』(三浦篤編訳、「ゾラ・セレクション」9、藤原書店)も刊行されているからだ。

郊外の果てへの旅/混住社会論 大地 (ルーゴン・マッカール叢書 第 15巻) 美術論集 (ゾラ・セレクション 9)

 しかし『ミレー展』に見えている「晩鐘」「落穂拾い」「羊飼いの少女」の三大名画は周知であるにしても、ミレー以外の農民と農村を描いた画家をただちに挙げることは難しいし、その作品においても同様であろう。ところが『ミレー展』はそれをたやすく実現させ、ミレーに加えて、「落穂拾いの召集」のジュール・ブルトン、「10月、じゃがいもの収穫」のバスティアン=ルパージュ、「りんご採り」のピサロたちを始めとして、ヨーロッパ各国の画家たちと農村風景を召喚している。

(「落穂拾いの召集」)(10月、じゃがいもの収穫」)(「りんご採り」)

 そこにヘルウィック・トッツ(アントワープ王立美術館学芸員)は「名もなき人々の尊厳―ジャン=フランソワ・ミレーから19世紀末の自然主義の画家たちまで」という論考を寄せ、『近代出版史探索Ⅵ』1185のイポリット・テーヌとゾラが画家たちに与えた影響に言及している。

 ゾラの文学における自然主義は、クールベのレアリズムに劣らぬスキャンダルを巻き起こした。それでもこの文学上の自然主義は、即座にヨーロッパで人気を博した。
 ゾラは、19世紀末の自然主義の代表者の一人であるバスティアン=ルパージュの絵画の熱烈な愛好者であった。ゾラは彼を「クールベやミレーの孫」と見なし、個人の印象を表現することにおいて印象派の画家たちよりも優れていると称賛した。

 これはゾラが『美術論集』の「絵画における自然主義」の中で、先の「10月、じゃがいもの収穫」を示し、バスティアン=ルパージュを絶賛していることを指摘しているのだろう。

 だがバスティアン=ルパージュにも増して取り上げているのはカミーユ・ピサロで、それは『ピサロ展』にも顕著だ。そこにはピサロの略歴も示されているので、それを引いてみる。

 パリに出て1855年のパリ万国博覧会でドラクロワやクールベ、コローに影響を受ける。59年にサロンに初入選。その頃からアカデミー・シュイスに通い、モネやセザンヌと知り合う。普仏戦争を逃れてロンドンでモネと再会。74年の第1回印象派展に参加、以後8回すべての印象派展に出品。温厚な生活と巧みな後進の指導で、セザンヌやゴーガンなど多くの画家に慕われた。晩年には円熟した印象派の技法で間近な視点から田園風景を描き、高い視点からパリの街の風景を描き続けた。

 また『ピサロ展』にはこれとは別に九ページに及ぶ写真入りの詳細な「カミーユ・ピサロ年譜」も収録されているので、それをたどってみる。すると一八六三年にセザンヌがゾラと一緒にアトリエを来訪し、これが後の『制作』へとリンクしていく。六六年にはゾラの「火曜会」に参加する。七〇年の普仏戦争 に際してはパリ・コミューン参加ができないことを悔やみ、ロンドンに亡命する。九八年のゾラの「我弾劾す」を称賛し、また〇二年にはゾラがガス中毒死する。翌年のメダンにおける一周忌に参加。アナキズムにも接近し、クロポトキンの講演集に「鋤」と題する版画を寄せている。


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古本夜話 番外編その五の8 太陽堂書店『これからの室内装飾』

 浜松の時代舎で、森谷延雄『これからの室内装飾』を購入した。それは厚さが五センチ近いのだが、疲れ気味で、著者名もタイトルも定かに読めないので、時代舎による帯がまかれていた。そこに「建築書の歴史的名著」、大正十六年(ママ)初版、古書価五千円と記されていた。版元は神田区南神保町の太陽堂書店、発行者は照井健伍とあり、日本電建株式会社出版部ではないけれど、初めて目にするものであり、建築実用書の出版は著者や人脈も含め、知らずにいた人間関係が絡んでいるように思われた。それは戦前に求龍堂などに在籍していた山本夏彦が、戦後にやはり建築実用書の工作社を設立し、雑誌の『室内』も創刊していくのだが、実用書だけでなく、そうした出版人脈と交差しているのではないだろうか。

(『これからの室内装飾』)

 それでは著者も版元も初見なのにどうして古書価も高い『これからの室内装飾』を買い求めたのかということになるのだが、実は少し前に L’EPOQUE ET SON STYLE-la décoration intérieure 1620-1920,(PETER THORNTON , Flammarion,1980)を入手したばかりだったからだ。英語の原書の仏訳だが、それを直訳すれば、『時代とその様式、室内装飾の一六二〇~一九二〇年』となり、こちらは神田の古本屋で購入している。これは五三八の図版と絵画と写真でたどられた三世紀にわたる室内装飾史に他ならない。つまり期せずして、ほぼ時を同じくして、日本、イギリス、フランスの室内装飾の書に出会ったことになり、日本版も買うしかなかったのである。

L'époque et son style

 ところで『これからの室内装飾』のほうだが、四六判上製七一八ページ、別刷写真は六〇ページ、それ以外にも本文に付属する図版と写真は多くに及び、先の洋書と判型と時代幅は異なるにしても、共通するビジュアルな編集であるといっていい。その「はしがき」は「室内装飾に就ての言葉」と題され、「室内装飾と申しますと、何か特別な仕事をして室内を立派に飾り立てるものゝやうに考へ、非常に贅沢な意味に取られておるやうだが、私はこれを『心地よく室内を整備する』と云う意味」だと始めている。またそれは「立派(リッチネス)」というより「気持ちの良い(カンフォアータブル)」を主眼とすると。それに「美」が唱えられ、その中には流行、調和、趣味、私用、経済も含まれるのだが、そこには必然的に「思想の動き」と「社会問題」の探究も伴っている。

 まだ続いていくのだが、私見によれば、関東大震災後の郊外における所謂文化住宅の誕生に際しての室内装飾の近代化に関して、玄関、広間と階段室、応接室と客室、居間、食堂、寝室、台所、浴室と便所、子供室に至るまで詳細に論じた一冊ということになる。それならば、この著者のプロフィルが望まれるが、幸いにして『[現代日本]朝日人物事典』に見出される。

 森谷延雄 もりや・のぶお 1893・10・28~1927・4・5 デザイナー。1915(大4)年東京高等工業学校(現東工大)卒。20年イギリスの王立美術大学に学ぶ。23年東京高等工芸学校(現・千葉大)教授。25年の国民美術展に「ねむり姫の寝室」と題した家具・インテリアデザインを出品する。同年京大楽友会館の家具・インテリアデザインを担当する。森谷はヨーロッパのデザイン様式を時代に使いこなせるデザイナーであった。西洋家具の本格的な知識を持ったパイオニア的なデザイナーだったといえる。27(昭2)年趣味の良い洋家具を廉価で提供することを目的に「木の芽舎」を結成。しかし同年倒れ、その思いは挫折する。

 この立項によって、森谷の家具やインテリアデザインの「パイオニア的なデザイナー」でありながら、若くして亡くなったことで、広く知られていなかったとわかる。なおこの立項はこれも近年鬼籍に入ってしまった柏木博で、その『家具の政治学』(青土社)などは森谷の仕事を継承していることを伝えている。
 
家事の政治学

 また版元の太陽堂書店だが、『これからの室内装飾』の巻末の「図書目録」にはその他に、森谷の著書として『西洋美術史 古代家具篇』『同 中世家具篇・近代家具篇』が挙がっている。そこには六〇点ほどの書籍が掲載され、森谷に引き寄せてみれば、東京高等工芸学校との関係から、工学士の肩書が付された著者の工学書が目立つ。そこには東京高等工芸学校教授としての横山信『住宅スタイルの知識』『実際知識建築用語辞典』も見え、『近代出版史探索Ⅱ』347において、横山が緑草会編『民家図集』の写真家にして民家研究者にして建築家で、『同Ⅱ』343の今和次郎に師事していたことを既述しておいた。これは偶然かもしれないが「図書目録」において、森谷と横山は並んでいるので、二人も太陽堂書店を通じて関係があったとも考えられる。

  よみがえる古民家: 写真集 緑草会編民家図集 (『民家図集』)

 このように太陽堂は建築、工学、科学等を中心とする版元だと見なせるのだが、ダーウィン、松平道夫訳『種の起原』、ルツソー、内山賢次訳『人間平等起原論』、ニイチェ、三井信衛訳『この人を見よ』も刊行している。これらに関してはいずれ入手することができたら、考えてみるつもりだ。


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古本夜話 番外編その五の7 岡本貫瑩『印度美術の主調と表現』

 『近代出版史探索Ⅵ』1148で、インド北部の『ベンガル民族誌』を取り上げたこともあり、ずっと気になっていた岡本貫瑩『印度美術の主調と表現』にも言及しておきたい。同書は昭和七年に発売所を神田区南甲賀町の六文館として刊行されている。函入菊判、本文、地図、彫像写真、絵画を含めて二五五ページだが、上質の用紙と印刷によって、美術書としての格調を醸し出している。

 (『印度美術の主調と表現』)

 その「序」を寄せているのは『近代出版史探索』189などの吉江喬松である。そこで彼は以下のように述べている。インドの大自然から生まれた千古の美術は「東洋文化の発現の源泉」にして「世界芸術の大原動力」であり、「印度美術の源泉」を極めてこそ、「東亜文化、東亜美術の特性相違を明に」できるし、「印度と希臘と日本との関係」にも通じていくのだと。また吉江は岡本を「若き印度芸術者」と呼び、彼が「仏教伝統の照明力」の中で育ち、「仏蘭西東洋学の碩学者等」との交感の中で、この「処女著作」が出版されたとしたためている。

 『ベンガル民族誌』の出版は昭和一九年であるゆえに、その「序」に「大東亜共栄圏の建設」が謳われていたが、『印度美術の主調と表現』は七年後の刊行で、吉江が『世界文芸大辞典』の編者であり、彼らしい真っ当な「序」といえよう。それに続く「自序」を読むと、吉江が岡本の「恩師」だとわかるし、岡本がインドの自然を象徴するヒマラヤの大雪山はインド人だけでなく、「私のユートピヤ」でもあり、それは「釈迦牟尼仏陀」「凡ゆる印度の苦行者」「凡ゆる印度の物語」の「古郷」でもあるとして、ここに『印度美術の主調と表現』を著したと記している。

 同書を読んでいくと、確かに『近代出版史探索Ⅴ』896、933のマスペロやシルヴァン・レヴィの名前が見えているように、岡本は「仏蘭西東洋学の碩学者等」とコラボレーションするかたちで、「印度美術」に引き寄せられていったことをうかがわせている。それを第二章の「阿育王の石柱芸術」に見てみる。岡本は印度美術の最初のものとして、マウリヤ王朝の阿育王の芸術を挙げ、それが「土着の要素と外国の要素とが次第に統一されて、美しい芸術が現れた」と述べ、実際にふたつの「石柱芸術」の写真を示し、「美しい蓮華の台座」に言及し、「蓮華(Lotus)はすでにペルセポリスの柱に現われていたが、阿育王の石柱もペルシアを通じての模倣といえるのかと問い、次のように語るのだ。

 印度には永い伝統があつた。日本人が富士を見て懐く清浄感を、西欧の人々がアルプスを眺めて感ずる崇厳感を、印度の人々はヒマラヤ雪山を眺めて感じてゐる。ヒマラヤは彼等の天国であり、古都であり、そしてまた凡ゆる文化の源であつた。その上に雪山は世界の根源でもあつた。毎朝毎夕、明るい熱帯の日光は永劫の光を雪山に投げてゐる。その霊峰は清く麗しく、力強く厳かに、そして懐しい思出である。彼等の生活の悩みも、総てがそこに隠されてゐる。さればこそ英雄も聖者も苦役者も、最後に求める隠所は雪山の森であつた。詩歌も叙事詩も絵画も彫刻もそして宗教も哲学も、そこに育まれ、そこに憧れ、そこを求めてゐる。印度人はこの清く美しく厳かな象徴を、蓮華の花に求めたのであつた。そこに印度の伝統が婆羅門教の神秘的象徴主義的の中では「世界蛇」(World serpent)の体の上、混沌の水の底に眠る永遠の精ナーラーヤナ(Nãrayãna)の臍から咲き出た蓮華の上に、創造の神ブラマー(Brahmã)が座してゐる。「世界蓮華の思想がそこに現はれてゐる。阿育王柱に現はされた鐘形の蓮華も亦この意味を表現してゐる。古代仏教芸術に現はされた蓮華の中にヴェーダ以来の伝統がある。石柱の土台は宇宙の大海であり、其の柱は世界の生命を支へてゐる神秘の花の幹であり、その上に咲く蓮華は蒼空なる花弁に抱かれる世界そのものである。そこに実る果実は自由なる世界即ち涅槃である。雪山はこの世の上に清く巍然として聳えてゐる。蓮華も泥池の中から香り高く、清く咲く。

 ここにインドの原始芸術に表象されたヒマラヤと蓮華のイメージのアナロジーが集約され「世界蓮華」の思想が語られていることになる。これが「仏蘭西東洋学の碩学者」の誰に通底しているかは不明だが、ここで初めて目にする「世界蓮華」の思想である。これも『近代出版史探索Ⅴ』895でアンコール・ワットの「睡蓮」にふれ、松山俊太郎との蓮の話ができなかったことを悔やむと書いておいたけれど、このような記述に出会うとそれを実感してしまう。だが松山のことだから、岡本の『印度美術の主調と表現』は必ず読んでいたと思われる。

 なお最後になってしまったが、その発行者兼印刷者は神田区今川小路の山縣精一で、岡本の「自序」に「多大の同情と援助とをもつて、或は印刷に或は製本に極めて細い注意を与へられ」と謝辞があるように、山縣はおそらく印刷所を営み、そのために発売は六文館に委ねられたと推測される。


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古本夜話 番外編その五の6 藤島亥治郎『日本美と建築』

 前回の木下杢太郎の座右宝版『大同石仏寺』の「跋」において、編集の齋藤菊太郎と写真の山本明への謝辞が述べられていることを既述した。だがそれはもう一人いて、東京帝大工学部の藤島亥治郎教授で、建築学教室が有するインドの寺院や石仏の写真の多くを参照させてもらったことに対してだ。

 (座右宝版)

 藤島は建築家だが、その一方で多くの著書を刊行している建築史家であり、そうした関係から木下が資料を仰いだことになろう。座右宝刊行会からも出版しているのかもしれない。その藤島の『日本美と建築』を浜松の時代舎で見つけている。昭和十七年九月初版、十八年三月再版千部、函入B5判二三四ページ、アート紙を使い、ほぼ全ページに写真を掲載していることもあり、定価は十円である。戦時下において、このような専門書にして豪華本に類する定価の書籍が刊行され、しかも重版されていることに驚きを覚える。

 まずは起承転結の章と内容を紹介しよう。「起」は老杉巨檜が天を覆う「杣山」、「承」は木組みなどの「構成」と「感覚」、「転」は風景や花鳥風月の「自然と建築」、「結」はそれぞれ「住の建築」「武の建築」「霊の建築」「橋梁美」が論じられていく。それに二五〇あまりの写真図録が寄り添い、タイトルどおり「日本美と建築」が語られていくことになる。だがその「日本美」も問われなければならない。藤島はその「序言」で述べている。

 光輝ある過去日本の文化は常にこの立場で常に輝きを増した。奈良時代の文化ですら唐文化の直写ではなくて既に十分な自覚の下にあった。遠つ御祖この方の純潔にして強靭な血の繋りは祖先以来の日本民族のみの持つ良いものを飽く迄も伝へて来た。外来文化はそれに磨きを掛けただけであつた。
 この精粹は、心に収まつて大和魂となり、形にあらはれて日本美となる。これが失はれたら日本は日本でなくなる。逆に世界はこの精粹に目を注いでこれを体得すべく汲々としてゐる。況んやそれを伝来把握してゐる筈の私たちがこれを尊重せぬ筈はない。

 そのために編まれたのが『日本美と建築』であり、これらは財団法人科学知識普及会の機関雑誌『科学知識』に連載されたもので、「時局柄この種の出版は困難とされた」のだが、連載を企画した同会の吉松重昂の熱意ある編集と「東奔西走」によって出版の運びになったとされる。前回の齋藤と同じく、ここにも吉松という編集者が存在していたのである。その「東奔西走」ぶりの一端は奥付の記載にもうかがわれる。

 発行者は神田区錦町の科学普及会で、代表者として三宅驥一の名前がある。科学知識普及会がどのようにして成立したのかは不明だが、三宅は植物学者で、東京帝大農学部教授なので、アカデミズム側からの啓蒙化のために財団法人化されたと推測される。発売所が明治書院となっているのはそうしたアカデミズムとの関係からであろう。もちろん取次は日配と記載され、検印紙には藤島の押印も見え、真っ当な出版のように映る。

 ところがである。機械函には背タイトルと著者名が記されているだけで、表裏には何の記載もない。この函が単なる輸送のためのもので、本体を保護するための函と見なすには無理があり、濃紺のジュート装の本体も函と同様のフォーマットなのだ。本探索でも多くの函に言及してきたけれど、このような函の例はほとんど見ていない。

 先に結論をいってしまえば、取次を通じて書店販売をするためには、このような体裁では不可能だといっていい。つまり出版社も定価も記載がなければ、取次配本や書店販売にも支障をきたしてしまう。それならば重版の事実は何を物語っているのだろうか。それを推理してみる。

 『日本美と建築』は最初から市販を目的としていなかった。財団法人という版元の位置づけもあって、出版助成金、各機関のまとまった買い上げなどが準備され、十円という高定価の書籍の製作も可能となった。しかし『科学知識』という雑誌の存在もあり、書店市場を無視できないこともあり、それで明治書院が発売所を引き受ける次第となった。取次の日配はすでに買切制を採用していたし、明治書院は書店から採用の注文などに際し、返品のない必要な冊数を出荷するだけでよかったと考えらえる。

 おそらく編集者の吉松はそのような販売政策のために「東奔西走」し、上梓に至ったにちがいないと思われる。


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古本夜話 番外編その五の5 東西交渉史と木下杢太郎『大同石仏寺』

 本探索でお馴染みの生活社だけでなく、「ユーラシア叢書」に見たように、様々な出版社から東西交渉史、回教史、中国史、蒙古史、ロシア史、アジア史などに関する古典ともいうべき書物が刊行されていた。それらの企画や翻訳は『近代出版史探索Ⅲ』563の東亜経済調査局、『同Ⅲ』571の奉天図書館関係者を始めとする満鉄各セクション、『同Ⅲ』577の回教圏研究所、『同Ⅲ』580の東亜研究所、『同Ⅳ』718の東亜考古学会、『同Ⅴ』719の蒙古善隣協会と西北研究所、また民族学協会や外務省調査局を加えることができる。

 さらに挙げていけば、美術書の座右宝刊行会も連なるであろうし、それは『同Ⅳ』738のアンダーソン『黄土地帯』で示しておいたとおりだ。また最近になって、浜松の時代舎で、木下杢太郎『大同石仏寺』を入手し、あらためてその事実を認識した次第だ。同書は函入菊半、上製四〇〇ページのずっしりとした一冊で、昭和十三年初版、手元にあるのは同十六年三刷となっている。定価は三円八十銭なので、よく版を重ねているといえよう。

 

 やはり『同Ⅳ』717で、「アルス文化叢書」として刊行された小川晴暢の『大同の石仏』を取り上げてきたが、同じくその写真をアイテムとした一冊であるけれど、『大同石仏寺』のほうが美術書として秀逸で、座右宝刊行会らしい装幀と体裁を有し、それは現在でも変わらない。だが同書には昭和十三年付の「重版大同石仏寺序」と大正十年付の「原版序」のふたつが寄せられ、巻末には座右宝版の「跋」も付され、初版は木村荘八との共著で、中央美術社から出版されていたことを知った。いずれにしても中央美術社と座右宝刊行会との関係は意外だったので、『日本近代文学大事典』の立項を確認してみた。

 (座右宝版) (中央美術社版)

 すると木下は大正五年に南満医学堂教授として満州奉天に向かい、九年に至るまで中国語を学習し、大和文化の源泉たる中国古典や仏教美術の研究にいそしんだ。その成果として、大正十一年に日本美術学院から木村荘八との共著で、『大同石仏寺』を上梓している。したがって座右宝刊行会版はその増補改訂に他ならないことが了承された。日本美術学院に関しては拙稿「田口掬丁と中央美術社」(『古本探究Ⅲ』所収)、及び『近代出版史探索』163でも言及し、中央美術社=日本美術学院であることを実証している。おそらくパンの会を通じて、木下杢太郎も田口とつながっていたのであろう。

古本探究 (3)

 日本美術学院版は未見だが、おそらく座右宝版『大同石仏寺』は木下の満を持した美術書として刊行されたと考えられる。それを体現しているのは口絵写真を始めとする図版一一三、挿絵六七で、すべてがモノクロであるけれど、大同石仏寺の細部までがリアルに浮かび上がってくる。大同石仏寺は大同の雲崗に位置し、北京から最も近い石窟で、『大同石仏寺』も木下のレポート「雲崗日録」から構成されている。潘絜茲『敦煌の石窟芸術』(土居淑子訳、中公新書、昭和五五年)に示された

 『大同石仏寺』において、山本明のカメラは二ページに及ぶ「雲崗石窟全景」のロングショットの折り込み写真に象徴されるように、これらを見事に写し出している。山本のプロフィルは不明だが、木下の言からすれば、北京で山本写真館を営み、大同石仏寺を写真に収めていたようで、その三十葉を初版にも提供していたようだ。しかし重版に際しては百余の写真を収録し、木下自身にしても、「山本明君が百余の写真の被写を諾して下さらなかつたなら、此書の重印は其根拠の大半を失つたでせう」と述べている。それとともに重印のコラボレーションに携わったのは座右宝の編集者の齋藤菊太郎で、「重印」の企画、資料収集、付録の五〇余ページの「雲崗石仏文献鈔」も彼の手になると見なしていいように思われる。

 それからさらに興味深いのは巻末の出版広告で、やはり木下の『支那伝説集』が見える。 これも大正時代に刊行の改訂版とされるので、齋藤の企画編集であることは明白だ。さらに新刊として、民族学会員にして画家の染木煦『北満民具採訪手記』が満鉄・総裁室・弘報課編で刊行されている。また日満文化協会館、田村実造等編『満蒙史論叢』、東亜考古学会報告書として、原田淑人等『東京城』、浜田耕作等『赤峰紅山後』もある。

 北満民具採訪手記 (1941年)   

 さらに近刊として、東方文化研究所報告書として、水野誠一、長廣敏夫共著『龍門石窟の研究』、東洋文庫論叢として、梅原末治『蒙古ノイン・ウラ発見の遺物』、石田幹之助解説『乾隆銅版画再版』、ル・コツク、藤枝晃訳『西域紀行』、田村実造、小林行雄、齋藤菊太郎共著『興安蒙古紀行』が挙げられている。これらがすべて刊行されたのか確認していないけれど、齋藤は『興安蒙古紀行』に著者として名を連ねている事実からすれば、彼は編集者と研究者を兼ねていたことになり、座右宝版『大同石仏寺』重版における仕事の力量がうかがわれることになろう。

(『西域紀行』)


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