所有と共有

例えば、ある絵画を高額で買ったとする。買った人は、それを秘蔵して誰にも見せない権利がある…のかな。展覧会を開いて、それを見せることでお金を集める権利もある…よね。画家に著作権使用料を払う、ってのはあまり聞かない。本に載せるときに使用料が払われるのは誰に対してなのかな。まだ切れてなければ本人に行くスキームはきっとあるはず。でも秘蔵されている絵画で、画家本人が売る前にとった写真を一般に公開するってのはありなのかな。絵を売るのは何の権利を渡したことになるのだろうか。
で、気になったのは、これ。

 いま、Amazonとかヤフオクでこの作品を中古購入すると3万円前後のお金がかかる。しかし、それだけ払っても製作企業に1円もお金が行かないことに変わりはない。だったら、ニコニコで見たところで何の問題がある? とも思うんだよね。
 ぼくもきちんとお金を払って入手するルートがあるならそうするべきだと思う。しかし、この作品の場合、そのルートそのものがもう存在しない。払いたくても払いようがない状況なのだ。
 もちろん、それでもなお、「商業作品をただで見るなんて盗人同然だろ」という意見はあるだろうし、それも一理あると思う。ただ、そうすると、この名作を知る方法はほとんど存在しないことになる。それはあまりにももったいない。

http://d.hatena.ne.jp/kaien/20080202/p1

絵画の場合、特に油絵とかそういうのは、複製画を書くことはできても、オリジナルをいくつも作ることはできない。ここでいうオリジナルは、出版で言う本のことね。シルクスクリーンの場合も大抵は数を限定している。そういう場合、いわゆる「コピーライト」ってのはないに等しい。本物でないと価値がないから。でも、それは「モノ」の価値であって、コンテンツの価値ではない。と言い切って良いかは微妙。絵において、本物=コンテンツの価値、ってことは結構色々なところで流布されているよね。某鑑定団とか。偽者でも複製でも、本物より劣っていることがほとんどだ。あるいは、本物を凌駕している複製は、別の意味で価値がない。そのへんは不自然極まりないけど。
一方で、本もそうだし、ゲームもそうだけど、パッケージそのものにはたいした価値がない、というものについては、その価値を金額に換算するために、コピーライトの仕組みが必要だ。複製が自由だと、その価値は毀損される。あるいは、誰かがそのコンテンツの価値を正確に算出し、買い切りで後は自由に配布、という形はありえなくはない。別のリターンを求めてフリーで配布されるものに制作費が掛かっていないわけではない。
けれども、流通の止まったコンテンツは、あたかも秘蔵された絵画のように、人々がそれを目にする機会を奪うわけだ。それに対して怒りや悲しみを発するというのは、全ての文化的創造物は、人類共有の財産である、という発想なのだろう。これはあながち間違いではなくて、だからこそ著作権には期限があるのだけれども、その著作権の期限内において共有されない。実はそのコンテンツの価値は、その期限内においてしか理解されない刹那的なものかもしれないけれども、誰かがコンテンツの流通を止めちゃったらそれで終わっちゃうよね。
前にも同じようなことを書いたけど、デジタル時代において、コンテンツの流通それ自体は、容易かつ無制限にできるインフラが整っていて、だから、今のコピーライトってのは、メディアとコンテンツが不可分だった時代に適合した、古い概念であって、印刷機が発生したあとの世界のように、違う概念で縛らなければならないのかもしれないんだけど。今の時代において、コンテンツに生じている(従来の著作権的な)不幸は、印刷機を発明した人がその利用を最初から利益的に縛ることを考えたのに対して、ウェブを考えた人が、もともと共有を便利にするための仕掛けとして世の中に提示したことなのかもしれない。
だから、非常に原始的な対立構図として示すと、ニコニコに絶版コンテンツを上げることを文化共有の観点から正とする人と、従来の著作権の観点から否とする人の対立なのかな。上で引いた問題なんかは、再販される場合の価値を毀損しているとは言えそうだ。
流通されないことで新たな報酬が得られない状態、というのがフリーで共有されることの理由になってはならんと思うのだけど、一方で、無限に近いリソースに対して、著作物をリリースするという行為の結果が果たしてどこまで著作者のコントロールできる範囲にあるべきなのか、ということについても考えなければならないのだろう。「文化ではありません、商売です」というのであれば、最初からそういった議論を拒否できるのかも知れない。その辺は広い意味ではダブルスタンダードである可能性はある。文化として許容されることを望み、しかし、共有は望まない。失敗だ、あの絵はなんとしても回収して焼き捨てなければならない、と思うのは画家のエゴかどうか。ブログを削除することと比べては悪いけど、文化の共有という概念からはわがままだろうし、著作者のコントロール権という観点からは許容され、著作者以外は諦めるべき行為なんだろうな。
さて、ゲームが出回らない。でもどうしてもやりたい。古いソフトを無償あるいは格安で公開するソフトハウスはある。けれども、潰れちゃって権利者がわからなくて、ってのはどうしてもあるよね。実は、ここの問題ってのはニッチな商売のタネかも知れない。公開&徴収スキームを代行して、例えば会社が潰れた場合の権利処理とかを予め決めておくことで、将来までの流通を保障するような。もっとも、名作の誉れを得るコンテンツが少なすぎて、収入的にスキームがまわらない可能性はあるけど。
僕も、どうしても手に入れたいけど見つからないCDとかがある。デジタルデータ時代において、コンテンツ製作者がもし自らについて文化を創造しているのだという自負があるのであれば、なんらかの形で流通を保障することが時代の潮流になっていくのではないか、と思う。その過程で、上手く対価を得られるシステムが作成され、進化していくのではないかな。今の形でのコンテンツ流通はそろそろ(といっても後5〜10年くらい?)終焉を迎えるだろうし、その時に既存のスキームのままでいられるとは思えない。もちろん、著作権の概念(というよりは、運用)も変わっていくだろうし、そんな中で、70年だ90年だ言っててももしかしたら全然意味ないかもしれないけどね。

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