自由に批判し、批判されようぜ!

何かの設計書を書くと必ずレビューをする。ちゃんとわかっている人にとってレビューほど楽な仕事はない。不備にツッコミをいれ、改善点を示唆する。考え方の基本が提示できるとなおよい。
受ける側からするとレビュアーがよくわかってないと言わずもがなの事ばかり言わなくてはならず、肝心の決めて欲しいようなところはこちらで決めさせられたりする。責任も取ってくれない。じゃあやらなきゃいいのに。
一部を批判するのはもっとも簡単な行為なんだけど単独で建設的な効果が得られる事はあまりないと思う。本当に言いたいこととは関係ないことが論点になると応答するのも面倒だけど放置すると勝手に負けてたりする。
それでもそういったことを自覚しつつ、容赦なくツッコミを入れるのは悪いことだとは思わないし僕自身はあんまりに無意味な批判じゃないかぎり、受け入れるかどうかは別としても一度は咀嚼しようとしているから、批判は歓迎している。
多分難しいのは意見と感想の線引き、より厳格に言うと、ツッコミを許すラインと許さないラインの見極め。そこでツッコミ側として常に自分の基準を適用するのは態度としては誠実だと思うけど、コミュニケーションとして成功しているとは言い難いこともある。何故、と問われたときにラインに触れたことを感じられないのは鈍感であるからしかたがない。感じているのに自分の原則を貫くことは時としてスタンスを言い訳にした対話への手抜きにも感じる。と言うか一方的な観点の固定化かな。相手の本当に伝えたい/伝えて欲しいことは何か、考えてみてもよいはず。
かように様々なハードルがありつつも僕は批判し批判される事で今の自分の中に変化をもたらす何かを得られればよいと思う。相互性のない批判は非難に過ぎず僕はその排除性には疑問がある。非難は自分より大きい存在にすべき行為だと思っている。
批判が集団化したとき、結果として非難のようになる。なるかどうかは予め判断し辛い。自分が先陣を切ったとき、追随者に苦言を呈するのはカッコ悪いかもしれないけど、きっと必要な事もあるだろう。文章において意志を全て表現することは困難な事だから、補足を厭わないのは大事だ。何かしら関わったのならばフォローするのも大事だと思う。
ともあれ、批判が批判として成立する要件を満たしているのであれば、大いにするべきだ。ただ、途中でも要件が変わりうることはあるし、その変化について逃げと批判することはほとんど意味がないよね。
なお、批判はコミュニケーションの一形態でありケンカやクネクネなどとは別(同時に行われることは多いけど)であることを付記しておく。この点の見極めがつかないことも多いよね。