NATROMのブログ

ニセ医学への注意喚起を中心に内科医が医療情報を発信します。

死生観と医療崩壊

内科勤務医の春野ことりさんによるブログ、「天国へのビザ」の■患者の皆さん、あきらめてくださいというエントリーが注目を集めている。95歳の認知症の男性の消化管出血による貧血に対して輸血をオーダーするも、血液不足のためオーダーを取り消さざるを得なくなった。そのことを家族に伝えると、



娘は泣き崩れた。
「お願いです。できるだけのことをしてください!」
95歳、認知症で施設に入っていた患者である。もう寿命とは思えないのだろうか。
できるだけの看護をしてくださいというのなら分かる。しかし、できるだけの治療をしなければならないのだろうか。
不足している医療資源を奪ってまで、95歳の老人の命を数日長引かせることに何の意味があるのだろう。

エントリーは、「日本人の死生観は明らかにおかしくなっている。今こそ見直さなければならない時期にきているだろう」で終わる。一般的な内科勤務医であれば、程度の差はあれ、同様のことを考えたことはあるだろう。同時に、家族からの求めがあれば、輸血もするし気管内挿管もする。「できるだけのこと」を求める家族に、「あなたの死生観はおかしい」などとはわざわざ言わない。家族が納得できる状況をつくるのも医師の仕事である。

今のところは、血液不足のようなアクシデントがない限りは、「トリアージを押しつけ」たり、「生への優劣を医師がつけ」たりしなくても済んでいる。今のところは。「医療資源不足と死生観は別の話」というのは一部しか正しくない。現実のところ、日本の医療資源はどんどん削られている。そう遠くない将来、限られた医療資源をどう配分するべきか?超高齢者に対する公的医療を制限すべきではないか?という議論が出てくるだろう(というか出てきている)。だから、「今こそ見直さなければならない時期にきているだろう」という提言なのだ。

小松秀樹の■医療の限界にも死生観の話が出てくる。「患者の皆さん、あきらめてください」で論じられたような高齢者についてではなく、医療の不確実性に由来する死に関してであるが、根本は共通すると私は考える。



日本人の死生観が変容したように思います。あるいは、日本人が死生観といえるような考えを失ったのかもしれません。これが、医療をめぐる争いごとに影響を与えています。(P13)


現代では、日本人が死を眼前にすることはめったになくなりました。家庭で死を看取ることが少なくなっています。死にゆく家族の世話を病院に委ねてしまうのが普通になりました。しかも、日本人の少なからざる部分が、生命は何より尊いものであり、死や障害はあってはならないことだと信じています。一見、筋が通っているようですが、そのために死や障害が不可避なものであっても、自分で引き受けられず、誰かのせいにしたがる。私は、あえてそれを「甘え」と呼びます。しかし、メディアや司法はそれを正当なものとみなし、ときに十分な責任を果たしている医師を攻撃するのです。(P19)

個人個人がどのような死生観を持とうとそれは自由である。しかしながら、ある種の死生観を満足させるにはコストがかかる。そのコストを負担する気はありますか?*1

*1:ブクマを見て追記。コストを負担するのは医療者側からみて誰でもよい。患者さんでも公的保険でも。でも混合診療全面解禁にしちゃったら、医学的に無駄なケースにジャブジャブ医療資源がつぎ込まれる一方で、医学的に必要なケースに回せないってことが起きそうでやだな。まあ、いまでも若干はあるけどね。