殿様に御苦労と言っていい、懸念される漱石、自分と違う他者に会え

今日も今日とて、「日本語の乱れが懸念されて」います。目上に向かっての「御苦労様」、「一番最後」などの重複表現。これらはそんなに糾弾されるべき言い方なのでしょうか? 今日は、知ることは他者との出会いである、ということについて考えます。

 おとぎ話の世界には、あらゆる事が起こった。恋があり、野心があり、裏切りがあり、決定的な出会いと決定的な別離があった。しかし渋谷美竹町の家と平河町の中学校との間を、毎日市電で往復していた私の現実の世界には、全く何事も起こらなかった。私は誰にも出会わなかったから、情熱的な恋に身を任せるはずもなかったし、従ってまた別れの辛さを味わうはずもなかった。中国大陸にはいくさがはじまっていたが、それは私の身辺には及ばず、革命は遠い神話にすぎなかった。私はただ中学校しか知らず、その中学校と私自身にうんざりしていた。

加藤周一『羊の歌』より

上記の引用文は、作家・評論家である加藤周一のものです。どうでしょう。読んでみて、変な感じはしますでしょうか?

ここには「全く何事も起こらなかった」という表現が使われています。何事も起こらなかった以上、そりゃ何事も起こらなかったのでしょうから、「全く」があろうがなかろうが意味は変わりません。重複表現というやつですね。

7月26日付の産経新聞に「日本語の乱れに「怒り心頭に達する」? 誤用74.2%」と題する記事が載りました。時事ネタには反応しないことにしている当ブログですが、言葉に関する記事となれば見過ごすわけにはまいりません。ま、このテの記事は季節の風物詩みたいなもので、定期的に掲載されるので問題ないでしょう。

この記事によると、文化庁の「国語に関する世論調査」によって、「「怒り心頭に達する」という誤った慣用句を使う人が74.2%に達している」ことが分かったそうです。「「従来から」「あとで後悔する」といった重複表現を気にしない人も過半数に達し」たそうで、記事には「日本語の乱れが懸念されている」とあります。いったい誰が懸念しているのかよく分かりませんが、とにかく言語道断ですな。「従来から」などと書くやつは、脳ミソが溶けているのに違いありません。非国民です。

26日の読売新聞にも、同じ「国語に関する世論調査」をソースにした記事が載っています。こちらは「上下意識薄い?上司に「ご苦労様」…文化庁国語調査」という記事名でした。上司に「ご苦労様」とは、最近の若者には、まったく開いた口がふさがりません。古来より綿々と伝わった清く正しい日本はどこに行ったのでしょうか。

さて、とりあえず、重複表現から考えてみることにしましょう。産経の記事で例示されていた重複表現は、「従来から」「あとで後悔」「一番最後」です。それぞれの言葉には、青空文庫ドメインに限定したGoogleの検索結果へのリンクを貼ってあります。

この結果を見ると、「従来から」は、宮本百合子、寺田寅彦、夢野久作、夏目漱石によって使われていることが分かります。「あとで後悔」は、堀辰雄、鈴木三重吉、佐々木味津三、佐左木俊郎、海野十三、夢野久作、田山花袋、中里介山、下村湖人の使用例があります。「一番最後」にいたっては、34件もヒットしました。有名どころでは、堀辰雄、大杉栄、菊池寛、原民喜、岡本綺堂、宮本百合子、石川啄木、夢野久作、田山花袋、夏目漱石、島崎藤村が作品中に用いています。

……えーと、この結果をどう解釈すればいいのでしょうか? とりあえず、夢野久作は全部使ってますね。三冠王です。懸念されます。

次に「ご苦労様」です。飯間浩明『遊ぶ日本語 不思議な日本語』によりますと、「御苦労」は江戸時代に用例があるそうです。ははあ、殿様が家来に使ったのでしょうね。いかにもそんな感じです。

ところがさにあらず、目上の人間が目下の人間に用いている例は見つけることができず、逆に目下のものが目上に対して用いた例ばかりとのこと。例えば、「仮名手本忠臣蔵」では、家老・加古川本蔵行国が主君・桃井若狭之助安近に対して、「いよいよ明朝は、正七つ時に御登城、御苦労千万」と述べています。

なんと、上司にむかって「御苦労千万」とは! 読売新聞の言葉を借りれば「上下意識薄い?」と心配しなければならぬところです。でも、江戸時代なんだけどなあ。

えー、もー、ぶっちゃけ書きますと、私はこういう「言葉が乱れている!」と主張する記事を見るたびに「もったいないなあ」と思うんですよ。出会いがないから。

重複表現を気にしないのは日本語の乱れ、なんて、違うんじゃねえの?と思います。そりゃ、「最後」は「最もあと」のことですから、「一番」を加える必要はないですよ。論理的には。でも、言葉って、論理だけじゃないでしょう。

例えば、冒頭で引用した加藤周一の文章には「あらゆる」「毎日」「誰にも」「〜しか」など、大変強い制限をつける言葉がならんでいます。しかし、これらの言葉が、文字通りに「あらゆる」だったり「毎日」だったりするはずがないでしょう。加藤周一の「家と学校を、毎日往復していた」という記述を読んで、「毎日って、日曜日もかよ!」とツッコミを入れるべきなのでしょうか。小学生ですか。

それから、言葉には語感、リズムもあります。短歌には枕詞(まくらことば)という技法がありました。「母」というべきところを「たらちねの母」という、あれですね。あんなの、論理的に考えれば、単なる無駄もいいところです。「たらちねの」ときたら「母」なんだから、重複表現です。懸念されます。

ですが、枕詞に命のこもる歌はたくさんあります。「語感など定型詩の話であって、散文には関係がないのでは?」とおっしゃる方がいるとしたら、日本語をなめているとしか思えません。既に見たように一流の日本語の書き手たちも重複表現を使っています。私は、重複表現、別に問題ないと思いますが、いかがでしょうか。

だいたい言葉に表現と意味の整合性を求めても無駄です。「こんにちは」と挨拶した人に、「はっ? 今日(こんにち)は何だというんでしょうか?」などと聞き返すやつとか、「ありがとう」と言われて、「私の行為が有り難(がた)いということは、私が親切をするのはめずらしい、ということですね?」とか絡んでくるやつは、変態です。

表現と意味の整合性を追求するのなら、「怒り心頭に発する」などという慣用句の存在を許すべきではありません。日本語には「頭に来る」という言い方がありますが、それとの整合性がとれていません。いったい「怒り」は「発する」のか「来る」のか、はっきりしてもらいたいものです。

もちろんこれは屁理屈です。慣用句なのですから理屈どうこうではなく丸暗記すべきです。しかし、以前にも同じような言葉の乱れを扱ったエントリで書きましたが、私は、こういうのは一種のバッドノウハウだとみなしています。憶えると便利で、楽しいものですが、他人にいばるような知識とは思いません。

あわてて言いそえておきますが、私は上司に「ご苦労様」と言っていい、と主張したいわけではありません。だいたい、私の生業(なりわい)は、子供に言葉を教えることなのです。

ですが、私は、言葉が「正しい」から教えているのではない。そうではなくて、自分にははかり知れぬやり方で言葉を使う人々が、すなわち、自分と異なる他者がこの世界にいる、ということを、子供たちに教えるためだと思っています。

「食べれる」という言い方をしてはいけないのは、それが「間違った」日本語だからではなく、「食べれる」という言い方を不快に思う人々がたくさんいる。それらの人々に対して「心遣い」をすべきだからです。もっとミもフタもない言い方をすれば、自分に悪い印象をもたれて、損をしないようにするためです。そのために、他者を知る必要がある。

「お嬢様言葉」についてのエントリでも書きましたが、私は「日本語の乱れ」という言葉をあまり信用しません。言葉には唯一の正解があり、それを守らないのは「乱れ」である、というスタンスには、自分とは違う言語感覚の持ち主との出会いを楽しむ気持ちを感じないからです。

大事なことは、自分とは違う他者が世界にはいる、ということを知ることです。え? 「自分とは違う他者」は重複表現? いや、世の中には「他者も自分と同じでなければならない」と考える人がいるみたいですから、わざわざ「自分とは違う」って書いたんです。

ところで、もし産経新聞の記者さんが、夏目漱石が「従来から」とか「一番最後」とか書いているのを知っていたら、彼はあそこで「日本語の乱れが懸念されている」と書けたでしょうか? たぶん書けなかったのではないでしょうか。

私は、勉強すること、知識を得ることは、「自分とは異なる他者」と出会うことだと思っています。そして、言葉というものは、その他者と出会うためのツールだと思います。その力を、私は信じます。