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『はてな非モテ論壇』の一角だった場所

俺はオタクカルチャーに感謝している。オタクにならなければ猟奇的殺人者になっていたから…… 〜 秋葉原通り魔事件の報道を観て思う

秋葉原通り魔事件のニュースを、TVやネットで観て周った。予想通りというか、使用されたダガー、秋葉原という犯行場所等から、ゲーム等のオタクカルチャーに原因や因果関係を求める発言をいくつか見かけた。

彼・彼女等は、オタクカルチャーがなくなれば、こうした犯罪が無くなるとでも思っているのだろうか?もしそうだとしたら、少し待って欲しい。ここに、オタクカルチャーのお陰で犯罪者にならずに済んだ人間がいるからだ。


↑は、数年前に書いた僕の生い立ちだ。思春期の間、ずっとコミュニケーションの問題に悩み続けた僕が、20代の初めにゲーセンのコミュニティに所属することで、かろうじて他者との繋がりを保ち、自尊心を回復してきた過程が綴ってある。

かつて僕も今回の犯人のように、社会への恨みを持っていた*1。そんな僕が、なんとか今こうして社会人としてやっていけているのも、オタクコミュニティを通じ、かろうじて社会との繋がりを保つことができたからだ。

朝のTV番組で、テリー伊藤がこんなことを言っていた。

「仕事とかじゃなくてもね、1つでも良いから自分が必要とされているっていう実感を持つことができるモノを持つことが重要なんだと思うんですよ。そういうモノがあれば、社会全体に対して恨みの感情なんて、なかなか抱きませんよ。それは、人間じゃなくても良い。たとえばペットを飼うとか。ペットは、自分を必要としてくれるでしょ。そういうことが大事なんじゃないですか」


その通りだと思う。「自分が必要とされているっていう実感を持つことができるモノ」。僕の場合、それはゲーセンというオタクカルチャーだった。もしゲーセンが無かったら、定時制高校卒業後、定職にも就かずフリーターをやっていた僕が今ごろどうなっていたか、本当に見当もつかない。僕はオタクカルチャーに対し、いくら感謝してもし尽くすことはできない。

オタクカルチャーは、懐が広い文化だと思う。他の文化に比べ、参入障壁が異常に低い。独りでも楽しめるジャンルが多く、「リア充」になれなかった人間でも安心して楽しめる寛容さがある。

だからこの文化は、世間のコミュニケーション競争で負けた人間の避難場所としても機能する。オタクカルチャーには、「コミュニケーション弱者」が多く集まりがちだという側面があるのは事実だろう。そんな集団は、外部から見たらキモい人間の集まりのように見えるかも知れない。何をしでかすか分からない、得体の知れない集団の文化に見えるかも知れない。

しかし、彼・彼女達にとって、そこは必要な場所なのだ。コミュニケーション能力が過剰なまでに求められる現代日本において、残された数少ない癒しの場なのだ。そうした場が奪われることで、「自分が必要とされているっていう実感を持つことができるモノ」をそこに求めていた人間が、どんな絶望を味わうことだろう?かろうじて残された社会の中の居場所を失った者たちが、どんな行動に走ることだろう?想像力を働かせて欲しい。

今回の事件で、オタクカルチャーへの規制がますます強まるかも知れない。昨今、だいぶ風向きが変わってきたように見えていた、オタクという人種への偏見の眼が、また強まるかも知れない。

そんな方向に社会が動かないことを、心の底から祈りたい*2。

オタクカルチャーへの規制は、オタクカルチャーを通じてかろうじて社会に繋がっていた人間を、社会から振るい落とす。そうして社会は人生の受け皿の多様性を失い、社会不適応者を量産し、今回のような社会不適応者による事件がまた発生する可能性を高めることになる。それは、目に見えている。

少なくとも一人、オタクカルチャーのお陰で犯罪者にならずに済んだ人間が、ここにいます。

【返信&追記】 2008/06/10 12:45

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/Masao_hate/20080610/1213060723
2008年06月10日 kyo_ju おたく, 非モテ 先日シロクマ氏が上げてた、ヲタク界隈でもコミュニケーション能力が求められるようになってきたという話からすると、既に蜘蛛の糸は断ち切られているのかも。我々の世代の下あたりで。

まぁ、非コミュっ子の受け皿がオタクカルチャーである必要は全然ないんですけどね。オタクカルチャーがその機能を果たさなくなったら、また別の受け皿ができてくれれば良いし、それは放っておいても勝手にできるだろうと楽観的に思ってはいます。

ただ、受け皿が小さくなってしまう事は、社会の柔軟性を失わせ、社会不適応者を量産し、今回のような犯罪に繋がる可能性を高めると思うので、その点を心配しています。喩えが適切かは微妙ですけど、地方のDQNに、ヤクザという社会に接続するための受け皿が必要なように、非コミュっ子にも何らかの社会に接続するための受け皿が必要だと思うんです。そしてそれは、多様である程に良い。

*1:今でも時折、恨みで心が黒く塗りつぶされることはある。

*2:不幸中の幸いなことに、オタクバッシングの風潮は、今のところそう強くはないようだ。