Unweaving the Humanbeing

アキ。学園祭。
佐藤真監督「エドワード・サイード Out of Place」の上映会+講演会を見に行こうと思ったら、起きたらあれれの午後二時半。上映会は終わっているけれど、パネリストの話だけ聞きに行く。サバティカル(サバ!)の最中のはずが、この講演会のため(と冬物の服を取るため)に帰国したN先生の話が刺激的だった。
イードは自伝「Out of Place」において、自身の批評の方法論である「対位法的読解」を自らの人生に対して行った。それによって彼は、自己を固定的なアイデンティティでなく流れ─様々な旋律との関係の中で、しかもお互いに重なり合わないもの─として把握し、繭化せずその外側で起こっている出来事との関係において位置づけてみせた(対位法とは一種の人生哲学であった!*1)。
sexism、racismではないが、アカデミックな場では今readism(読書差別)がはびこっている(サイードはそれに対して文献学の復権を主張したりする)。それを十分に意識した上で、我々は自分の半径十メートルの世界を成り立たせている遠い場所を知らなければならない、とN先生。その遠さを近づけること─それが限りなく幻想でナルシシズムであっても、その危険を冒しながらも1mmでも近づく、あるいはつながっていることを知る、自分と他者は同じだと言うという危険を冒さないままで─が何らかの倫理的態度であるとするならば、それってある種の愛なんじゃないか、と階段の帰り道。それはナルシシズムかもしれないけれど、だからって悪いわけじゃない、よう、な。
20h@Shubelu.打ち上げに混ぜていただく。割と予想されたとおり、パネリストの皆さんが打って変わって映画を酷評。N先生、みんなの前で突然に生意気な学部生時代の逸話を暴露するのはやめてください。

やっと出た。前作『グラン・ヴァカンス』から早四年。けれど待たされた甲斐があった。仮想リゾート〈数値海岸(コスタ・デル・ヌメロ)〉における「終わらない夏」の終焉の絶望と残虐を、古典的なSFネタを(難解になり過ぎない程度に)散りばめつつ描いた前作『グラン・ヴァカンス』を補完する形での短編集である今作。「終わらない夏」を作り出した─仮想リゾートへの人間の訪問を途絶えさせた─〈大途絶〉の真相、前作における敵役の過去の逸話、そして〈数値海岸〉を作り出した「物理世界」での物語である表題作など短編五本。このつくり方って、油断するとどこかの鈴木光司みたいにグダグダ化しかねない気もするけれど(実を言うとその危険性は見えなくはないのだけれど)、VRモノのSFのお約束を踏破しつつ小道具や概念がリゾーム的に広がっていく感覚がまだまだ気持ちいいし、前作でとびきり輝いていた残酷な美は衰えを知らない。いや、久しぶりに読んでいて単純に気持ちよかった。
個人的には、「他の人みたいに考える、っていうことは(「私」が演算器官の機能・効果であり、炎のような「現象」であると考えると)、その人になる、っていうことと分けられるか」というくだりが非常に興味深かった。SFって極端なまでに他者志向のもの(スタージョンとか)と自己志向のもの(マトリックスとか)があるような気もするけれど、飛さんは完全な後者。自己が常に自己とずれていて、それを必死につなぎとめるために文字通り釘を差し込む(痛みで自分をつなぎとめる)、というモチーフの痛々しさが官能と結びついているんだけれど、そのナルシシズムって誰かのそれと繋がるのかなあ。

*1:やっぱり僕らは批判理論を勉強したほうがいいみたいだよみにぶちくん!