見えないことは無いことではない。2

いい加減、コミュニケーションについての新しいエントリーを起こさないと、考えているんだか放置しているんだか、自分でも解らなくなりそうなので。

性暴力被害者と向き合う、ということ。

今回ははっきりと書かせて頂きました。
「性暴力表現に苦しむ人達」というのはつまりはそういうことです。そういう人達は、「性暴力表現」を不快に思っているはず。なぜなら、例え創作でもそれは彼、彼女らが現実にされたことだからです。
そして「性暴力表現」は創作であり、現実ではありませんが、確実に現実を「表象」している。故に彼・彼女らはそこに自分の過去を見てしまう。そして再びより深く傷つく。そのことを忘れては、または無意識でいてはいけない、と私は思います。そして「性暴力被害者」と正面から向かいあう術を知らない私は、いつも考え続けている。そして正面から話すことを避けている。しかし、それは「腫れ物を触るように扱う」ことであり、彼・彼女らを対等に扱うことではありません。
そういう扱い方は適当では無いな、と常々思いながら、私自身はグルグルと回って考えあぐねてしまうのです。

物を創る、描くということ

同様に私は創作する人達にも向かい合っていたいと思っています。創作、とは常に世間からの様々な批判に曝されるものです。技術のある人でも批判しようと思えばどうとでも批判できます。ましてや技術の見え難いものならなお更。やたらとネットで話題になる「トレスしたのかしてないのか」というゴシップもそうです。検証ページとやらの「構図が同じだ」という指摘に「角度を変えて、顔の高さを変え、左右を入れ替えて、近づけたりすれば一致」と書いてあるのをみて「くだらん」と思いました。そんな理屈が通るなら、向き合った構図は全てパクリです。くだらん。下衆と言ってもいい。さすがに批判が多かったためか、その後は「有料素材をコラージュしたのが悪い」との話になったようですが、これまたくだらん、と思います。写真を組み合わせて独自の世界観を表現する「コラージュ」という手法は西洋絵画ではひとつの表現手段として認められた手法です。それを持って批判の言葉とするとは。
「写真家のオリジナリティを尊重しろ。対価を払え」との声もあります。なるほど、対価は支払われるべきでしょうね。では、絵画のオリジナリティにも敬意と対価は支払われるべきでしょう?支払っていますか?
グラフィックデザインというものは「組み合わせ」で作り上げます。デザイナーのオリジナリティの基に写真やイラスト、印刷技術を纏め上げて創られます。全てのオリジナリティはデザイナーのオリジナリティのために消費されます。オリジナルとオリジナルが組み合わさって更なるオリジナリティを発揮する。そしてそのオリジナリティが大きな波を呼び、流れを作り出す。では最初のオリジナルとは?
全てを自分で創ること?ではデザインはオリジナルではない?何を持ってオリジナルと呼ぶのか。
このインターネット回線は誰かが作ったものです。そこにあるブログは私が「はてな」に借りているもの。そして「はてなハイク」で描いた絵ははてなに道具を借りて描いたもの。あなたがPCで使っているフォントすらも誰かのオリジナル作です。あなたはそれを利用しているに過ぎない。当然のことですが、忘れてはいけません。
創作者はただでさえ、批判に曝されその自由はいつ消えてもおかしくはありません。そして実際に筆を折り、消えていく人たちの多い事。同じ創作者の間ですら、他人に創作物を「汚物」とか呼ぶ、という話も聞きました。うんざりです。うんざりなんだ。オリジナリティなど誰が重要視しているというのか。
その上、表現内容にまで色々な制約を付けたくは無い、それでは創作という人生は終わってしまう、と私は考えていて。

では不快なものを不快と言ってはいけないのか。

と言えばそうでもなく。不快な物にははっきりと「不快である」と言えば良いと思います。例えそれが「感情論である」と批判されようとも。それがあなたの感情の噴出であるならば。
そして言われたほうは「なぜ、そう言われたか」を理解する必要がある。もちろん、不快感を表明したあなたにはそれを説明して頂きたいのです。お互いを理解しあうために。
不快感の説明を求めるのはあなたを問い詰めるためではありません。(結果、そうなる場合もありますが)理解しあうためです。理解したくないことがあるならば、それはそれではっきり言えば良い。理解しあうとはそういうことだと私は思います。理解しあうとはあなたに好かれることではない。私の言う「寄り添う」とはあなたに好かれることではない。理解すること。そして思考すること。さらには行動することです。好かれることではない。それはどうでも良い。嫌われていても構わないのです。

それでも話し合う、語り合うということ

あなたを理解したいから話したいのです。傷つけることを恐れて近づかない。傷つくことを恐れて近づけない。それは前に書いた「ディスコミュニケーション」ということです。議論以前に理解し合えなくなってしまう。理解しあわないということは「見えない物にする」ということ。そして「見えないものは無い」ことにするということ。お互いに「見なかったこと」にすればそれは「無かったこと」にできる。でもそれは「永遠の嘘」でしかありません。そこまでして守りたいものとは何?

結論めいたこと

は書けません。まだまだ解らないことだらけで。
ここで書かれている文章が私の全てでは無い。ここに描かれている絵や漫画が私の全てではない。同様にあなたの主張することがあなたの全てではないはず。そして全てが完璧である必要すら無いのではないでしょうか。間違ったなら謝ってしまえば良い。それでもなお、追求されるならそれはあなたの「口を閉ざそうとする」言論の暴力です。それには抗わなくてはならない。「ちょっとタンマ」と言ってその暴力を止めなければいけない。それは「冤罪」かもしれない。ならば説明を求めればよい。あなたの口を閉ざそうとする者以外の人は説明してくれるはず。なぜなら、相手はあなたの話を聞きたいと思っている人だから。あなたの知識を借りたいと望んでいる人だから。
あなたの口を閉ざす為の言論は取り除きましょう。メンチュウが聖人だったから彼女の証言が真実になったわけではない。彼女がどういう人であれ、彼女の証言は真実だったのです。