「オタク」であることのプライド

 トラックバックしていただいたこの記事にどう返答しようかと頭を抱えているうちに数日が経過してしまいました。今もまだ上手くまとまってませんが、とりあえず思うところなどを書いておこうと思います。

http://d.hatena.ne.jp/kaien/20081224/p1

「ライトオタク」と「超ライトオタク」の違い

 この話が拡散するにつれてどんどん元の 提起から外れていっているように思うのは、どうもテクノウチさんの発した「超ライトオタク」と、それ以前から存在した作品をただ受容するだけの「ライトオタク/萌えオタ」といったものとの混同があるように思います。この2者は明らかに違う存在だと私は考えていて、その点ではid:kaienさんが引用している岡野勇さんの言葉にシンパシーを感じる側の人間だったりします。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~captain/sub1_244.htm

 東浩紀氏の「動物化するポストモダン」がベストセラーになって以来、いやそれ以前からなのかもしれませんが、フラット化といった言葉を錦の御旗に「もう新しいモノは生まれない」「文化は緩やかな死を迎える」といった言説がまことしやかにささやかれ、その反動として王道復古的なものが立ち上がってきても所詮は島宇宙での小さな共同体の中の出来事でありそれは全体に波及するような大きな価値にはなり得ないといったことが正論としてまかり通ってきたのがいわゆるゼロ年代と言われる時代だった、そう考えています。そして実際その枠組みは強固で、閉塞感の中で忸怩たる思いをしつつも、「それ」を乗り越える想像力を得られないまま、結局は自分もまた自分の好きなモノの殻の中に閉じこもって生きてきた。ニコニコ動画に出会うまでは。

ニコニコ動画がもたらした想像力

 何故私がニコニコ動画をここまで褒めそやし、持ち上げるのか。それは上で書いたような問題意識について前提として了解してもらわないと、おそらく分からないんではないかと思っています。はっきり言ってしまえば、私はいわゆる「ポストモダン」が大嫌いです。だからこそ同時にその枠組みの強固さに絶望感を抱いていた。文化の蛸壺化はそのまま死に繋がる想像力だ。といってある価値観を他者に押しつけて無理矢理その価値を高めるいわゆる決断主義的なやり方が正しいとも全く思えない。そんな中で現れたのが、ニコニコ動画だったんです。

ホームポジションを持つ事の価値

 前回の記事で私がもっとも伝えたかったのは、自分の中にホームポジションをもっている事の大切さ、その価値を守り高めようとする意思の必要性なんですね。

 この文化越境を触媒したのが、ニコニコ動画という場なのは間違いない。文化の交差点としてそこに行けば違う種族の人たちと一体化して溶け合う名状しがたい体験を得ることが出来る。そしてこれがとても重要なことなんだけれども、それでもやっぱり私は「語るオタク」のままなんですよね。

拡散ではなく、越境するということ

 ユリイカの座談会の中で濱野智史さんが『僕は音楽の歴史についてはまったくの無知です』と言っているのがとても象徴的でまた共感するところなんですけれども、同人音楽、クラブ文化というものの文脈を理解しようと努めても、それで聴くだけで良いよね、踊るだけで楽しいよね、とはならないで、やっぱり「語る」んです。それは「語る」ことが楽しいから。好きだから。

 それはクラブで踊ってる人たちもおそらくは同様で、語ったり歴史を知ったりするのも面白いけど、やっぱり「踊る」のが一番楽しい、そこが自分たちのホームポジションだという実感を持っているのではないかなと。今まで他文化へ接続しようと思ったらそこに肩までずっぽりと浸かりきるくらいの覚悟が必要で、それゆえにトライブ化、文化の断絶というのがあった。それがニコニコ動画という場を通すことでいとも簡単に越境できる。こんなに近くにいたんだということを改めて知ることが出来る。それが本当に面白くて面白くて仕方がない。
誕生でも発見でもなく、越境が始まったんだと思う - 未来私考

 自分の好きなものの中にしっかりと足場を据えながら、それでいてなお自由に他の文化圏へと足を踏み入れて、新しい何かを持ち帰って、あるいは相手の文化圏へと何かを残していくことが出来る。あるいはある文化圏で特別な価値を持ったものが生まれた時、部族的な蛸壺の中でのみ消化されるのではなく、広くあらゆる階層へと飛び出していける。そこには、フラット化した世界を越えて新しいものを産み出していける想像力の可能性がある。

 これは、妄想です。今現在世界はまだそこまでその姿を現していない。ただ、その可能性の萌芽はあちこちで芽吹いている。その芽を守り、育てることこそが、大げさに言えば今の自分たちに課せられている使命なんだと思っています。

「オタク」であることのプライド

 そういった状況下で、いわゆる「オタク」である自分に何が出来るのか。それはやはり「語る」ことしかないんですね。オタクは、過去20年くらいの歴史の中で、自分たちの好きなものを守るために、いい歳して子供のオモチャに拘泥するような自分たちの在り方を肯定するために、ひたすらに作品の価値を語り、歴史を紡いできた。その紡いできた歴史の上に、今日のいわゆるオタク文化の隆盛というものが、ある。そう思っています。

 その「語る力」「歴史」を育んできたことは、オタクにとって誇っていい、大きなアドバンテージなんだと。そしてそういった「語る力」はアニメ・マンガ・ゲームといったオタク文化の中心地以外においても有効であることは、東浩紀らがライトノベルやエロゲーといったジャンルを持ち上げていった過程においてもある程度証明されている。それがクラブカルチャーや、あるいはヤンキー文化、ケータイ文化圏、我々の知らない様々なジャンルを越境していったときにも大きな武器になる。そういったこともこれから徐々に証明されていくんじゃないかという妄想もまた抱いています。

 話がどうにもSFじみた大げさなものになってしまうので、なかなかこの話は切り出すのがとても難しい。少しずつ小出しに小出しにしていたのですが、このあたり一気に語ってしまわないとどうしてもいろいろ誤魔化す形になって旨く伝わらないと思い、とにかく書けるだけ書いてみました。乱文失礼。