精神的支柱たりうる一冊

予告どおり、中山信弘教授の『著作権法』を入手した。


まだ手元に置いて間もないこともあり、まっとうな論評ができるほど読み込んでいないのであるが、ざっと一通り眺めたところで、本書の特徴をざっとご紹介することにしたい。

時代的背景の反映

これまで中山教授が随所で披露されてきた“問題意識”に触れてこられた読者にとっては、当然想定の範囲内だったろうが、本書は

「このような情報化という難しい時代を背景に本書は執筆されている。」
「本書は体系書という性格上、未来学を述べるものではなく、現行法の解釈論が中心とならざるを得ないが、その制約の中で常にこのような時代的背景を意識し、少しでもあるべき姿を追求した」(はしがき)

ものとして位置付けられている。


同様の視点は、「著作権の憂鬱」と題された本編の書き出し以降の部分でも繰り返し示されており、「著作物の流通」、「競争法的視座」といった点が強調されるとともに、

「著作権法が普遍的な法に変身しつつあることに鑑み、本書においては、可能な限り著作権法に一般常識を持ち込み、妥当な解決を試みるよう努めている。要は、著作権法は特殊な法ではなく、普通の法であることを強調したいと考えている。」(9頁)

というところへとつながってきているのである。

特許法との比較の視点

中山教授は、著作権法の本質を探る上で、特許法と比較することが有益である、と説きつつ、もう一つの本書の特徴として、

「随所で両法を比較検討し、著作権の特色を浮かび上がらせるという手法を採用して(いる)」(はしがき)

という点を挙げている。


この点については、知的財産法全般を研究対象とされてきた中山教授ならでは、の試みであり、これまでもそんなに多く試みられたものではないものだけに(田村善之教授、渋谷達紀教授、土肥一史教授くらいだろうか)、興味深い部分といえるだろう。

全体の構成

全体の構成に関しては、「侵害の場において問題となる」著作権の特徴をどのように反映するかで、悩まれた様子が窺える。


現実に発生する訴訟(紛争)の実体に合わせた構成の好例として田村善之『著作権法概説〔第2版〕』を紹介しつつも、最終的にはスタンダードな構成にされたとのことであるが、従来の概説書との比較をする上では、この方が分かりやすいといえ、ここでは好意的に受け止めておくこととしたい。

その他


以上のような特徴を有する本書であるが、当然ながら完全無欠なもの、とまではいえないように思う。


「はしがき」にもあるとおり、本書はあくまで「大学で教材として用いられること」を念頭に置いたつくりになっているとのことで、全体としての読みやすさが重視されている。


したがって、判例評釈は原則として脚注等で紹介されていないし、論文や判例等の情報についても、簡素なリファレンスが付されているにとどまる*1。


「著作権法のエンサイクロペディア」として、情報の網羅性に定評のある田村教授のテキストなどに比べると、物足りなさを感じるムキもあるかもしれない。


だが、

「本書は、著作権法の体系書であるので、以上のような問題意識*2をもちつつ、基本的には現行法の解釈を中心とし、立法論はなるべく控えるように努めた。」(9頁)

という自ら課された制約の下でも、「情報の流通促進と自由利用領域の確保」という著作権法の本来の目的を強調して、解釈論の枠内での“原点回帰”を呼びかける師の思想は、本書全体を通じて発露されており、そんな師の思いが、時に痛烈に、時に熱く、読者に迫ってくる。


最近話題になっているトピックを見ても、「著作権の制限」の節の冒頭で、

「著作権法は、創作者に独占的な権利を付与しているが、その目的は文化の発展にあり、そのためには著作者の経済的利益と情報を利用する社会一般との調和を図る必要があるから、権利に制限があるのは当然である。」
「著作権を不可侵のものとして絶対視すること自体が誤りであり、その内容は政策的に如何様にも制度設計し得るものである。特に公共目的での制限の中には極めて重要な価値を体現しているものもあり、著作権が制限を受けるのは当然である。著作権法の究極の目的は「文化の発展」であり、そのための手段として権利を付与し、かつ公正な利用に留意するとされていることを忘れてはならない(1条)。著作権法は、他人の表現の自由も奪いかねない独占権であるが、それにも拘らずその存在が認められる一つの理由は、この制限規定にあるといえよう。」
(太字筆者、241-242頁)

と熱く述べられた後に、「私的使用目的のための複製(30条)」等個別の論点について、現状の運用(ないし法改正の動き)に疑義を呈されている。


また「保護期間の延長問題」については、死後50年以上も経済的価値を維持しているような例外的な著作物(しかもそれらは既に十分な利益を得ている)に対して更に利益を与える必要はない、と述べ、

「仮に明治時代における保護期間(当時は死後30年)がより長かったならば、漱石や鴎外の創作意欲はより一層増大し、後世により多くの作品を残しただろうか。創作者が、孫やひ孫の受ける利益を考えて創作活動を行うとは到底考えられない。」(343-344頁)

と、創作インセンティブと保護期間延長をリンクさせる主張を痛烈に批判しているし*3、「短い保護期間のままでは国益に反する」という言説に対しては、

「<<純経済的>>に考えれば、日本は圧倒的に著作物の入超であるため、わが国にとって現行制度は<<経済的には>>有利な立場にあるといえる。ブロードバンド時代を迎えるにあたり、著作物なかんずく映像著作物は重要なコンテンツであり、保護期間の延長は、わが国で自由に利用できるはずのコンテンツを<<むざむざと>>放棄することを意味し、<<産業政策的観点からだけ>>見れば、期間延長は国益に反すると評価できよう。」(344頁)

とこれまた強烈な批判を行っている。


このように、原点に立ち戻ることで著作権法の情報化時代への対応を志向する本書の記述は、権利者のエゴを離れた常識的な議論を望む多くの人々にとって、(単なる資料的、教材的意義を超えた)理論的・精神的よりどころとなりうるものということができるように思われる。


奇しくも、16日から、文化審議会著作権審議会の法制問題小委員会、私的録音録画小委員会での中間とりまとめに対するパブコメ募集が始まっており*4、新たな法改正に向けた動きが一気に加速しつつある状況である。


健全な議論を期待する筆者としては、

「パブコメを書く前に、まず中山著作権法テキストを読め!」

とここで強く訴えかけておくこととしたい。


著作権法

著作権法

*1:この辺は、弘文堂から出されている工業所有権法のテキストと同じである。

*2:筆者注:ここでは、デジタル化の波が著作権法制に大きな影響を与えている状況にもかかわらず、著作権法システムが従来のような所有権法のドグマに捕らわれている状況への危惧が表明されている。

*3:なお、脚注では、著作財産権と著作者人格権の区別ができていない「著作権法関係者」の存在ゆえに、「わが国の期間延長論」をめぐる議論の混乱に拍車がかかっている、と批判するくだりもある。

*4:http://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=Pcm1010&BID=185000283&OBJCD=&GROUP=、http://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=Pcm1010&BID=185000284&OBJCD=&GROUP=

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