こういうのが読みたかったんですよ、竜騎士さん - 竜騎士07『彼岸花の咲く夜に 第一夜』

こういうのでいいんですよ、こういうので(ゴローちゃんっ面で)

 新作の『ローズガンズデイズ』も出た後なので超今さらになるのですが、『彼岸花の咲く夜に』第一夜をようやくプレイし終えました。『うみねこ』の頃あれだけ騒いでたくせに、どうして『彼岸花』はクリアするまで一年もかかったのかと言われると、うーん……。2010年末に完結した『うみねこのなく頃に』の最終話がこういう感じで、わたし的にどうにも納得しかねた、とゆうかぶっちゃけ竜騎士信者であることに疲れ切ったという感じになりまして、なかなか手が伸ばせなかったのですね(一夜も二夜も即日で購入はしてたんですが……)。もともとノベルゲームなんて竜騎士さんの以外は数年に一本程度しかやらない人間なので、一度手が遠のくとずるずるどこまでも機会を逸してしまうわけです。そうこうしてるうちに新作も出ちゃったし、一年半もクールダウン期間を置けばさすがに冷静にもなれたので、いいかげんそろそろプレイしてみようかな、と重い腰を上げたのが先日のことです。

 いざプレイしてみると、うみねこ最終話で感じた残念なところ(誇大広告的なビッグマウス、わが振り顧みない一方的でブーメランなお説教*1、短納期による最も単純な練り込み不足)はほとんど払拭されていました。正直、もっと早くやっておくんだったナーと後悔しています。なんていうか、今回の作品は"センセーショナルでない"良質な短編集だったんですよね。『うみねこ』の頃にあった「前例のないでっかいことをしてやろう」という気負いがなくなったぶん、うまいこと肩の力が抜けたというか。自分の書けるものを、書けるように書いている、という感じで、全体的にかなり余裕のある仕上がりになっていると思いました。やっぱり説教くささはあるんですが、明らかにブーメランしてるようなひどい自己矛盾はないし、このくらいなら"いつもの竜騎士さんの作風"という感じです。

『彼岸花』は、『ひぐらし』のように大ブームになりうる話題性を持ってはいないし、『うみねこ』のように珍奇なことをやって毀誉褒貶吹き荒れる作品でもありません。どちらかというと小粒で、無理のない作品です。そのぶん、これが等身大*2の竜騎士さんなんだろうな、という感もあります。だっていくら作品のスケールをこぢんまりとさせたところで、竜騎士さんの癖はどうやったって抜けないのです。"竜騎士疲れ"を起こしかけていた私みたいなファンにとって、いちばん嬉しいのはきっとこういう作品だったのでしょう。竜騎士さんの作品が好きだけど、「自分の作品をことさらセンセーショナルに意味づけしようとするビッグマウスなところ」が苦手で足が遠のいたという人は、今一度戻ってきていいんじゃないかなと、これは本当にそう思いました。そうそう、こういうのでいいんですよ、こういうので。

社会派ホラー?

 ただまあ、プレイ前の印象とはだいぶ違った作品でもありました。学校の怪談系ホラーという体裁で売り出されている本作ですが、『ひぐらし』鬼隠し編のような"怖さ"を期待すると、きっと肩透かしを食らうでしょう。本作の妖怪たちの扱いって、基本的に『うみねこ』のオカルトキャラたちとおんなじで……要するに異能バトル要員なんですね。各話は導入部こそしっかり不気味に描かれているのですが、話が進むうちにこんな感じのいかにも異能キャラ的な「妖怪」たちがニューッと正体を現して、この手の怪談には不可欠な「なんとも説明のつかない不可解な空気感」をぶち壊しにしてくれます。こんな連中が「私は七不思議妖怪序列第ナン位のナントカである! 我が怪談の餌食になるがいい!」*3みたいな芝居がかった口上で仰々しく喚き立て、あまつさえいつもの「ギョイーン」*4な効果音とともにドンパチ異能バトルやり始めたら、そりゃあ恐怖もへったくれもなくなります。竜騎士さんはわかってて好きでやってるんだろうから別にいいんですが、人を恐怖させる表現としてのホラー*5とドンパチバトルの食い合わせはまあ、どう見ても悪いと言わざるを得ません。

 そもそも最初から、本気で人を怖がらせる"ホラーらしいホラー"をやる気はないんだろうな、と思います。だってどの編を見ても、「怖がらせること」を至上目的として描かれたお話ってないんですもん。最初はホラー的現象に焦点が当たるお話でも、話の中心はやがて必ず主人公の内面的葛藤や生活環境の問題に移行していきます。本作が根本的なテーマとして描き出しているのは、小学校の生徒や教師を取り巻く諸々の個人的な、または社会的な問題です。

 これがですね、巧いんです。ああ竜騎士さん、なんだかんだいってもやっぱり書ける人なんだな、って思います。キャラクターの人格を一人一人掘り下げて、心の内にある執着や美徳や問題意識を積み重ねていく筆力。いろいろと癖はあっても、そういう巧さが竜騎士さんには確かにあるんだなって、今回改めて確認することができました。悪徳教師のひんまがった自己弁護とか、カメラ少年の人格形成、いじめのある日常風景……みたいものを、竜騎士さんは力まず奇を衒うこともなくさらっと描いてしまえます。魔女とか妖怪とか、いかにもフィクションめいたオカルトキャラたちをケレン味たっぷりに描くときの荒っぽさ*6とは打って変わって、こういう何でもないような人の姿を描くときの竜騎士さんの筆致は、とても落ちついたものになるのです。

 いじめ等の描写にしても、単に物語上の障害として扱うのではなく、現実にコミットする問題として深いとこまで突っ込んでいます。耳障りのいいおためごかしは一回捨てて、「ぶっちゃけ詰んでるんだけど、それで結局どうすんの?」と身も蓋もないシビアなところからものを見ている感じ。「がんばれ、死ぬな、立ち向かえ」的な激励を飛ばしはするんですが、根本的にそれは祈りみたいなものであって、思いを込めて頑張れば成し遂げられる的な希望的観測は一切ありません。作中の展開を見ても、いじめが終わるケースって「いじめ対象が別の子に移る」とか「いじめられっ子の抵抗と無関係にいじめっ子が勝手にどっかいなくなる」とか「いじめられっ子がそのまま死んじゃう」とかろくなもんじゃありません*7。公務員時代に何らかの知見でもあったのか、竜騎士さんって児童問題の描写がやたら真に迫ってるんですよね。『ひぐらし』の虐待問題しかり、『うみねこ』の母子問題しかり。本作のいじめ問題の描写も、その延長上にあるのだと思います。

 いじめ関連の話題でひとつだけ気になったのは、「学校から逃げろ」とだけは決して言わず、選択肢に挙げすらしなかったことでしょうか。竜騎士さんって共同体に対してきわめて保守的な態度をとる人*8なので、これが彼の思考の枠組みの限界なのかな、とは思いました。この件については、第二夜の方で触れてくれれば嬉しいなと思うんですけど、どうなんでしょうね。

 あああと、「今回は推理ものではありません」って宣言されてはいるんですが、伏線を張り巡らせて終盤でどんでん返しする、というスタイルが竜騎士さんの基本的な作風である以上、どうやっても「カジュアルなミステリーっぽいもの」になってはしまうみたいですね。『ひぐらし』『うみねこ』のようにシリーズを通して推理すべき謎があるわけではありませんが、「あ、この辺の描写ってエクストリーム叙述トリック*9使ってそう。わーい当たったー」とか気軽に展開予想する分にも面白い作品だと思います。竜騎士さん、無理に「推理ゲームでござい」と頑張るより、単に伏線張って驚かせるだけの作品書く方が得意ですよね……。

オカルト描写は後付け、という読解

 そういえば、『ひぐらし』の登場人物たちは初登場の時点で「はぅー」だの「ですわ」だのの非現実的な語尾を連発する、きわめて作り物めいた(ギャルゲーちっくな)表層を持ったキャラクターでした。ところが話が進むにつれ、そんな彼らの内面に地に足のついた人格描写が積み重ねられていき、漫画的な表層からは想像もつかないほど確固とした人物像(その人が現実にそこにいる、という感覚)が立ち上がっていったことをよく覚えています*10。『うみねこ』は『ひぐらし』ほど顕著ではありませんが、作り物めいた表層と現実的な内面で一人のキャラクターを構成する傾向はやはりあったと思います。

 一方の『彼岸花』では、人間側登場人物の現実的な描き方と、オカルト側妖怪キャラの作り物めいた描き方が、綺麗に二分されているように思いました。これまでの竜騎士さんの作風から考えると意外なことなんですが、『彼岸花』に登場する「人間」には変な口癖も分かりやすいキャラ付けもありません。人間キャラクターに限って言えば、このまま非オタク文脈の一般誌に出せるくらいの造型になっているのです*11。一方で、妖怪連中の造型は主人公の彼岸花を除いておよそ内面というものから切り離された描かれ方をしています*12。いじめや不和のはびこる生々しい現実世界の小学校と、「怪談」として分かりやすい悪役を引き受けたり弱い子の空想的逃げ場になったりする虚構としてのオカルト世界が、上手い感じに対比される格好になっているわけですね。

 ちょっと根本的な読解の話になるのですが、私は本作で描写される幽霊、妖怪、怪談等のオカルト現象を「現実に起きてしまったミもフタもない"事実"に意味を与えるための後付けの物語」と解釈しています。なんの話かというと、「意味」や「物語」には人にある種の安心を与える作用があるよ、という話なのですが……(この説明だけでピンと来た人は、以下の2段落は読み飛ばしていいかもしれません)。

 たとえば、ある小学生が階段で足を滑らせて突然死んだとします。そこには「小学生が階段で足を滑らせて死んだ」という空虚な事実があるだけです。残された級友の中には、何の意味も読み取れない彼の死をどう受け止めればいいか分からず、戸惑ってしまう子もいるでしょう。ここで、「彼は数日前に学校の側の名もない祭壇を蹴っ飛ばした」という、彼の死とは本来何の関係もない情報が広まったとします。いくらかのクラスメイトは、「あの子は祭壇にいたずらをしたから神様の怒りに触れて祟り殺されたのだ」という後付けのオカルト解釈を見いだすでしょう。それを不快に思う人はいるでしょうが、神の祟りという分かりやすい「物語」を与えられたことで、級友の死をすっと心に受け入れられる子もいるかもしれません。

 もっと単純に、「あいつは天国でも元気にやっているさ」とか「今日のラッキーアイテムは黄色いアクセサリ」みたいな他愛ない気休めでも構いません。別にオカルトを絡めなくても、「彼の死には意味があった」とか「金メダルを獲れたのは愛国心の発露です」みたいな「物語」だって同じことです。事実に対してなにかしら座りのいい意味や物語を求める心理が、人間にはあるわけです。『うみねこ』における魔女や悪魔たちのオカルト勢は、「六軒島で人がいっぱい死体になった」というミもフタもない事実に対するきらびやかな虚構の象徴であり、人間のやるせない営みに代わって「悪役」を引き受けた者たちであり、「こうあって欲しかった物語」の体現者でした(こっちは私独自の読みではなく、作中で何度もメタフィクション的に「そういうものだ」と言及されています)。

『うみねこ』の問題意識を受け継ぐなら、『彼岸花』に登場するオカルト現象についても同じような読み方ができるのではないか、というのが私の考えです。一応の根拠として、本作で公に観測される「事実」は全てオカルトなしで説明できるようになっている*13、というのがあります。作中で描かれるオカルト現象は事実を覆い隠すための虚構やある種の隠喩的描写であり、現実そのものには影響しないというわけです。まあ実際竜騎士さんが何考えて書いてるかなんてわかんないんですけど、『うみねこ』から続く流れとして決して無理のない自然な読解だと思っていますし、なによりこう読むことでいろいろ見えてくるものが本作にはあるんですよね。

 本作には「最後に妖怪が出てきてデウス・エクス・マキナ的に問題を"解決"*14してしまう」展開がいくつかあります。これは普通に読むとひどいご都合主義に見えてしまい、作品のマイナスポイントと判断しかねないのですが、「オカルトは後付け」であるのものとして読むとだいぶ見え方が変わってきます。「自分はなんもしなかったけど妖怪が解決してくれた、やったー!」という都合のいい話ではなく、「自分の力では何もできず、単なる偶然に頼るしかなかった」という諦観が漂う話になるからです(そこから後付けで「妖怪が真心か気まぐれかで助けてくれた」と信じることにすれば、少しだけ人間味のある物語を幻視できて救いが生まれるかもしれませんね)。こういう読み方をしているせいで、他の人と根本的にずれた感想になっちゃってるところがあるかもしれませんが、こればかりはご容赦ください(いちおううみねこクラスタの人に確認してみましたが、訓練された竜騎士ファンならこういう読みをしてる人はそこそこいるっぽい雰囲気でした)。今後余裕があれば、「オカルトは後付け」として読んだ場合に各話がどんな解釈になるのか、ネタばれ記事として書いてみたいですね。

 さて、ここまででも結構な文字数になってしまいましたが、せっかくなのでこのまま全話感想いきますよー。

第1話「めそめそさん」

 そこそこコンパクトにまとまっていて、あまり奇を衒っていない時の竜騎士さんの標準的な作風。つまり依然としてちょっとヘンテコなお話でもあります。

 陰影を強調したキャラ絵も(竜騎士さんの絵に慣らされた目にとっては)グッド。肝心の彼岸花ちゃんの顔が崩れてるような気がするのはアレですが……例によってプレイし終える頃には慣れてましたね。キャラクターとしては、金森先生のムッツリキチガイっぷりがいい感じ。竜騎士さん画の表情差分が、相変わらずいい効果を出してますねえ。「みんな裏がある」のと同時に究極的には「みんないい人」だったうみねこだと、こういういかにも道化的な悪役は出せなかったので、ますます楽しくはっちゃけてます。やってることは陰惨そのものですが……。(結構昔に別媒体で原案*15の出た作品であるせいか、この先生の言動は人間の中ではかなり派手で漫画的ですね)

 それにしても、人生訓をぶっちゃけるのは竜騎士さんの作風なので慣れっ子なのですが、虐げられていじめぬかれた子について「勇気を持って行動しなかったお前にも非がある」って方向に話を持っていくのはさすがに胸が悪くなるなあ、とも。弱い人の視点に立って「勇気を持って行動しよう!」って鼓舞するのは、それが同調圧力みたいにならなければ悪いことじゃないと思いますが、弱い人を押さえつける側の人間が「勇気を持たないお前が悪いんだ」と言い出すと醜悪な自己弁護になるわけで、金森先生はもろこのパターンです。*16

 もちろん、「勇気のないお前が悪い」とぬかす金森先生は徹底的な悪人として描写されています。でもいじめられていた女の子も先生の説教自体は受け入れていて、先生をやっつけた後で「これからは先生の言う通り心を入れ替えて勇気を持ちます」といい話の方向で〆るんですよね。うん……別に間違ってないけど、うん……って顔になりました。

第2話「幽霊写真機」

 序盤は主人公・野々宮くんの人格が簡潔丁寧に描かれます。冤罪事件の悔しさを経て、「あのとき証拠さえ残せていれば」という思いがカメラへのアイデンティティに繋がっていくと。上でも書きましたが、こういう人格形成の話をさらっと書いて見せられると、なんだかんだ言っても竜騎士さんは「巧い」んだなあと再確認させられます。

 人体模型事件は「やった、やってない」「見た、見てない」の話。うみねこで繰り返し言及された「猫箱」(シュレディンガーの猫*17 )のモチーフが、ここでも使われていると見ることができます。このモチーフは『Rewrite』のルチアルートでも出てきてました*18し、竜騎士さんには相当のこだわりがある模様。現実にオカルトを後付けして二重に解釈する。という『うみねこ』以来の考え方ともここに繋がっています。

 終盤のバトル描写は必要なのかなあ……と首をひねるものの、まあ描きたくて描いてるのは分かるので温かい笑みでも浮かべておきます。彼我の戦力が定量的に示されてないので、最終的には作者の一存で恣意的にバトルの勝敗がついてしまうのが分かりきっていて、どうしても緊張感を持てないんですよね。これは『うみねこ』中盤くらいから慢性的に感じている引っかかりだったので、竜騎士さんが今後もバトル描写に拘るならぜひぜひ打破してもらいたいところです。ひぐらしの部活は「ゲームルールの穴をついてトリッキーに勝つ」面白さがあったので、ああいうのをバトルで再現してくれたら俄然面白くなると思うのですが。

 終盤は例によってお説教タイムに。テーマとしては「生者が犯してしまった罪」と「殺された死者による赦し」でしょうか。オチのつけ方は妙に死者側の物わかりがよくって「生者の勝手な論理」という感じがしてあまり納得はいきませんが、竜騎士さんでなくともこの辺はデリケートな問題なので、どこか割り切れない結論に落ち着くのは仕方ないかなと。お涙頂戴と言ってしまえばそれまでですけれど、考えても答が出ないような問題に真面目に言及しようとしていて、わりと好きな範疇のお話でした。

第3話「お姫様の嘘」

「白磁の肌」とか「ご謙遜を」とかいう小学生ってどうなの、と思いますがまあご愛敬で。1話、2話と比べると、3話からしばらくは分量的に軽めの話が続きます。どんでん返しも少なく、仕掛けをひとつ明かしてオチ、という感じですね。ホラーというよりは、カジュアルなミステリー仕立ての作品という風に見えます。話が二転三転した1話、2話の感覚をひきずっていると「あれ、ここで終わり?」と物足りなく感じてしまうかも知れないのは注意。

 前2話もそうでしたが、竜騎士さんの書くものには話がどこに向かうか分からないところがあります。最初はストーリーラインが見えるんですが、気付くと脱線して別の方に向かっている、ということを繰り返すので、最終的な落としどころがなかなか見当つかないんですね。決して分量の多くないこの話でも、そういう性質はしっかり残っています。多少居心地が悪くはありますが、先が気になる面白い書き方だとも思います。

 オチとしては想像通りの展開そしてアヘ顔。そのまんま見れば「現実を拒否して妄想の世界に引きこもる人」の姿をアヘ顔という滑稽なイメージで描いて揶揄しているわけですが、「じゃあ妄想以外にもっといい方法なんかあんの? ないでしょ?」っとも言っているんですよね。クリア後に解禁されるキャラ資料を読むと「不遇の現在を耐え忍べば、きっと開花するだろう」とあって、かなり感心しました。たとえ現実逃避だろうと、どんなに惨めな姿だろうと、生きのびれば希望はある、という裏返しの意味を持つお話でもあるんですね。決して厭なばかりのお話ではありませんよ、これ。

 ところで、『うみねこ』のEP4やEP8は「悲しく虚しい現実よりも、自分の中の美しい真実を大切にしなさい」というテーマのお話でした。といっても、最終話で反論者を軒並み悪役として描いてやっつけるような強引な全肯定をしてしまったのでその正当性がどっかに吹っ飛んでしまったのですが、本編では「現実を拒否する人間の姿」を外側から滑稽に描くことで『うみねこ』になかった自己批判的な視点を導入しています。この視点を踏まえた上で『うみねこ』のテーマをもう一度しっかり問い直してくれたら嬉しいな、と思うのですが、はたして機会はあるんでしょうか。

第4話「鎮守神さまの祠」

 鎮守神さまの祠を壊したクラスメイトたちが、次々と祟りに襲われる。いまだ不信心な彼女らを神様の前で謝罪させて祟りを鎮めるべく、霊感少女の主人公が奔走する……というお話。かなりシンプルな構造で、分量的にも少ない部類。中盤の息抜きに、という感じですね。

 鎮守神……要はその土地に古くからある因習ですが、これを一種の共同体と見ると、竜騎士さんの大好きな「共同体にコミットする話」として読みとることができます。郷に入りては郷に従え、他人の領分に立ち入って怒られたときは相手の様式に従って謝りなさい、ということですね。この話の場合、作中に登場する共同体構成員が霊感少女一人だけ*19なので少々変則的ですが、神様の存在を信じることが「共同体にコミットする」ことになりますね。

『ひぐらし』の雛見沢村もそうでしたけど、竜騎士さんの書く共同体の「ルール」は融通が利かないケースが多いです。当事者に悪意がなくても、不文律への十分な理解がなければ地雷を踏むことはある、というパターン。これが色々な誤解や悲劇を生むんですけど、共同体の存在そのものを根本的なところで肯定しているのが竜騎士さん。「最初は誤解もあったけど、共同体の不文律を知って真の構成員となれた今では毎日が楽しいよ! あんなことはもうしないよ!(満面の笑顔)」みたいな感じで終わる話が多いのです*20。

「共同体に入るときは、ちゃんとルールを守りましょう。ルールを守らない奴なんて誰も相手にしてくれないぞ」という主張、これ自体はもっともな話なんですが、これをひっくり返すと「共同体のルールに従わないお前なんか相手にしないぞ」とえらく傲慢な話になってしまう危うさもあります……ということは上の方でも書きましたね。

 ところが本編の場合、共同体とは言ってもそれは言葉の綾*21。共同体の本来の長である神様は人間とまともに意思疎通できない存在なので、結果的に主人公の霊感少女一人によって共同体が運営されているという点がミソです。共同体の下位構成員である霊感少女が「鎮守神さまの意思を慮って」勝手に行動する、という構図は、『ひぐらし』の雛見沢村で個々の村人が「当主お魎の意思を慮って」勝手に行動していた構図とよく似ています。共同体そのものに対してはどこまでも肯定的な竜騎士さんですが、『ひぐらし』の頃はむしろその運用の危うさの方に目を向けていたんだな、ということを思い出しました。

第5話「ハメルンのカスタネット」

 出だしから「飼育小屋でウサギが虐殺されている」というスプラッタな描写。こういう猟奇的なシーンから入っていきなり驚かしにかかるのは竜騎士さんお得意のやり方なのですが、シーンの最後で「死体を合わせると元々のウサギの頭数と合わなくなる」っという不条理な謎に焦点を収束させて唐突にフェードアウトするが巧いです。猟奇的シーンの派手な印象と、"本来強調したい謎"をシームレスに繋げているんですね。竜騎士さんの作品のヒキの強さって、こういうところに秘訣がありそうです。

 今回もいじめに関わる話なのですが、かなーり意地の悪い書かれ方をしています。というのも、このいじめ対象の子がとんだ曲者で、自分のことを利口だと思って他人全てを見下してる類の殴り飛ばしたくなるクソジャリかなり困った問題児なんですね。おまけにこの子自身も自分より弱いものを一方的に痛めつけて憂さ晴らしするのが趣味だったりして、ちょっと同情する気が起きません。

 真面目な話、この子の性格が「周りの人間を不愉快にさせる」としても、彼が責任を負うべきなのはあくまでその不愉快さに対してです。結果的にそれ以上のいろいろな問題を引き寄せることはあっても、それは単なる因果関係であり、責任関係とは切り離して考えるべきところでしょう。だから、彼の言動がいじめを誘発するからと言って、「いじめられて当然」と無茶苦茶な懲罰を正当化するの理由にはなりません。頭では分かっているし、「やられる方にも責任がある」なんて言説は大嫌いなのですが、そんなに理詰めで動いてくれない心の隙間にするりと忍び込んで「さすがにこれは自業自得では?」と思ってしまう誘惑をはらんだ、まあいやーなお話なわけです。

 他にも、このクラスの教師が「子どもの心は生まれつき綺麗なはず」的な前提でものを考えるボンクラさんでぜんぜん話が噛み合わなかったり、彼岸花ちゃんが「もっと人殺しの顔をしろ(意訳)」と迫ってきたり、いろいろややこしい問題意識がてんこもりの回でした。その上、ごった煮状に繰り出されるいくつもの問題意識について、このお話は特に解決らしい解決を提示しません。ただ現実の小学校の中にありうる厭な話を厭な話として描き、読者に「イヤナハナシダッタナー」という感想を抱かせてエンドという、なんとも割り切れないお話なのでした。

 まあ、これはこれでいいと思うのです。そもそもが割り切れない問題を扱ったお話なのですから、快刀乱麻の解決策なんて提示しちゃったらそれは単なる「嘘」になります。もちろん、物語は嘘を書くわけですが、わりと真剣に現実にコミットしている本作の場合、「嘘っぱちの救い」を安易に描いて現実の問題を軽視するのは下策ということになるのでしょう。解決しがたい問題は解決しがたいものとして書く、という態度は、本作で一貫しているところです(そして、そのミもフタもない現実を贖うために、オカルト世界の夢物語が並行して描かれているわけです。)。

 あとまー、「テーマとしている問題意識に対して妥当な解決策を提示できたかどうか」だけでフィクションの価値を測ろうとする教条主義がありますが、「美しい情景をただ美しく書いた作品」にこの評価軸は当てはまりませんよね。だからといって、「美しい情景をただ美しく書いた作品」の価値は否定する根拠にはなりません。同様に「厭な情景をただ厭な感じに書いた作品」にだって「読者を感動させる(感情を動かしていやーな気分にさせる)」という立派な機能があるわけですよね、と。

 とはいえ、何も解決せずさほど強烈などんでん返しもないこのお話、ちょっとカタルシスが弱かった気は確かにします。ただし「本作のオカルト描写は現実に起こった出来事に後付けされた虚構の記述だ」という観点から見ると、また違った様相を呈してくるかもしれません。分かりやすい一例なので、ちょっと記しておきましょう。というわけで次の段落だけわりと露骨なネタばれ注意、一応気休めに色の反転だけはしておきます。

 本編のラストの方で、ある人物が「自分が人を殺すシーンを幻体験させられる」シーンがあるんですけれど、これ実は「現実に自分がやったこと」の記憶がフラッシュバックしてるシーンなんじゃないかと思うんですね。殺人という罪の意識を誤魔化すために、「妖怪の祟り」という偽の記憶を上書きし、復讐の味だけを残そうとした。「自分は人を殺したのだと自覚しなさい」と詰め寄ってくるこのシーンの彼岸花ちゃんは、要は彼の自責の念の擬人化だったのでは……と。こう見ると、かなり一貫したお話に見えてくると思うんですけど、いかがでしょ。

第6話「とある少女の一日」

「転んで膝を擦り剥いた。
 その上で、遅刻した。

 楽しかった」

 という底抜けに明るい出だしで始まる、特にひねりもない「いい話」。もしこの「いい話」が現実のものとして描かれていたら、ちょっと興醒めしたかも知れません。「あれだけ現実を厭なものとして描いてきたくせに、いい話を書く時だけ現実をいいものとして描くなんて、結局フィクションの幸不幸なんて作者のさじ加減次第で決まる恣意的なものなのか」と。

 でも本編は、徹頭徹尾現実と関わらない祈りのようなお話です。現実を良く変えることも悪く変えることもない、気休めの夢物語にすぎません。そうして現実と完全に切り離されているからこそ、私はこのお話をただ虚心に「いい話」として楽しめたのだと思います。人をちょっとだけ救われたような気持ちにさせる、とるに足りない「後付け」のオカルト。その働きを体現したようなお話である本編は、暗い話ばかりの本シリーズにあって異彩を放っていますが、実はとても『彼岸花』らしい作品なのだと思います。

第7話「ユートピア」

「あいつ、いちいちリアクションが面白かったもんなー。」
「確かに確かに。」
「打てば響くっつーか。」
「そうそう。いじめられっこは、あーあるべきだよなー。」
「榊はその辺、まだまだ鍛えが足りないんだよなー。」
「それを鍛えるのが面白ぇんじゃん。」

「いじめは心の栄養なんだよ」

 おげー。今回はこんな感じの名台詞がばんばん飛び出してきて、ほんともう許してという気分になりました。特に後者のセリフは、とある天性のいじめられっ子が長年のいじめ生活の中で「私も皆の役に立っている」と自分の現状を正当化するためにひねり出した"思想"として語られます。あまりにも倒錯した話で気が滅入るのですが、そこまで思わないとやってられない、という意味でこれもひとつの「魔法の言葉」ではあるんですよね……。

 というわけで、残虐というよりはひたすら精神にクるいじめ描写が続く第一夜最終話。それでいて、「いじめに立ち向かおう」というテーマを真っ正面ガッチガチで取り扱った重量級のお話です。いじめの話といっても扱い方は色々あって、いじめの酷い現実をただ克明に描き出そうとする作品もあれば、個別案件としての「とあるいじめ」に焦点を当て、知恵を絞ったり協力し合ったりしてなんとか「個別の解決例」を導き出す作品もあります。本作も形の上では主人公に降りかかった「とあるいじめ」に焦点を当てているのですが、よく読むと個別案件としての「このいじめ」を解決するのではなく、特殊な要素を排除してなるべく「いじめ一般」を描こうとするスタンスがあるように見えました。実際、作中では「どうやったらいじめと戦えるの」というあまりに根本的な、文字通り"小学生並み"の問答が行われたりします。

「どうやったら"この"いじめと戦えるの」という問いかけについては、条件に応じて色々な解決策がありえます(いじめの主犯格をピンポイントでどうにかするとか、自分がいじめられてる証拠の動画・音声を公開して捨て身の反撃に出るとか)。でも「どうやったらいじめと戦えるの」という一般的で抽象的な問いかけに対して、個別状況でのみ有効な奇策は意味を持ちません。本編で描かれるいじめの風景は、過激ではありながらもきわめて典型的なものです。いじめっ子たちの人物像が典型的なら、主人公がいじめられるに至った経緯も典型的。この物語ならではの特殊な条件というものが存在せず*22、"うまい抜け道"のような解決法がどこにも用意されていないために、主人公は「どうやったらいじめと戦えるの」という根本的な問いを発せざるをえないのです。

 面白いのは、いじめという現象を過度なまでに一般化して描き出すため、結果的にオカルト混じりのかなり特殊な状況設定を組んでいるところでしょうか。奇抜な解決策を許さず、正攻法以外の戦い方を封じ込める特殊設定……まあぶっちゃけ「いじめ一般の構造」自体を抽象した存在が、一体の妖怪として描写されるわけですね。現実をゲームに落とし込むようなこういう遊びは、いかにも竜騎士さんらしくて好きです*23。ただし本作の場合、「問題を擬人化して悪役に仕立てる」手法はかなり危険を伴うものでした。

 物語作劇上の常套手段として、「問題を象徴・擬人化した悪役をやっつけることで問題自体の解決を表現する」パターンは非常にありふれたものです。心の闇の象徴である化物を殴って倒すことで邪念を克服、みたいなやつですね。現実よりも爽快感ある「物語」を描くことを目指したお話ならそれでもいいのですが、本作のように現実へのコミットを旨とした作品では事情が異なります。「オカルトバトルで黒幕妖怪を殴って倒していじめ解決!」という単純化された展開は、そこまで積み重ねてきた複雑な問題をなかったことにしてぶん投げる最悪のオチですし*24、その解法自体が「うまい抜け道」そのものですからね。

 もちろん本作は、そういう安易な解決を突っぱねます。オカルトはあくまで現実の象徴であり、オカルト側の世界だけをどう操作しようと現実世界に影響することはありません(レーニン像が倒されたのをソ連崩壊の象徴と見ることはできても、レーニン像を倒せばソ連を崩壊させられるという理屈にはならないわけです)。オカルト解釈は常に現実の後付けである、という原則*25はここにも現れ、妖怪の実在など関係なしにいじめはきわめて困難な問題として厳然と存在し続けるのです。実際のところ、このお話で描かれているのは本当に典型的な「(過激だが)よくあるいじめ」に過ぎず、状況を裏で操る大妖怪は現実に被せられたフレーバーテキストと考えるのがいんじゃないかな、と思います。

 だとするとどうなるのかというと、結局どうにもならないんですね。主人公たちはいじめに対してなんとか抵抗を試みるんですが、何をしても焼け石に水。「状況がこれ以上エスカレートしないように」踏ん張るのが精いっぱい*26です。特殊な抜け道でもなんでもいいからとにかく目先の苦境から脱しようというのではなく、「いじめ一般」をどうにかしようというのですから仕方ありません*27。いじめ一般を一挙に解決できる妙案なんてものがあれば、世紀の大発見か嘘っぱち。さもなくば、ひたすら抵抗だけして何もできずに犬死にするのが関の山です。

 そうやって、個人の力では本当にどうにもならないのだと示したところで、作中の「このいじめ」は唐突に終わります。それは、いじめに抵抗しようとする主人公たちの努力とは何の関係もないところから降ってわいた、伏線も何もないデウス・エクス・マキナ的な「終わり」でした。作者が「終わり」と書いたからここで終わりなのだと言わんばかりの、なんの物語的因果もない強引で恣意的な単なる「終わり」。作中の描写としては、オカルト側のとあるキャラクターが最後の最後でいじめ妖怪に一発かますという、さっき「やっちゃだめ」と書いたばかりの展開になっています。物語的なカタルシスもへったくれもない、とってつけたような大団円で、これには拍子抜けしたプレイヤーも多いのではないでしょうか。

 たしかに、「いじめと戦い、解決する物語」として本作を見るなら、この終わり方はご都合主義と呼ぶのも生易しい茶番でしょう。せっかく現実のものとして描いてきたテーマを、最後の最後でオカルトにぶん投げたことになるのですから。でも本作は、「いじめと戦い、解決する物語」ではありえません。だって、いじめと戦おうとした主人公たちの努力は、最後の解決にまったく貢献しなかったのですから。また、「オカルトは後付けである」という私の読解原則を適応すると、「オカルトによるご都合主義でいじめを解決した」という見方も否定できます。無数に想定可能ないじめ事例の中から、たまたま奇跡的な偶然によっていじめから脱することのできた事例を選択し、その顛末のオカルト的後付け表現としてデウス・エクス・マキナを登場させた。常に現実がオカルトの先に立つとするなら、そう考えるのが合理的です*28。

 だからこのお話は、「いじめと戦おうとするも、何も解決できなかった物語」なのです。ラストの顛末も、結局のところ「いじめを解決するには、奇跡のような偶然に頼るくらいしかない」と示しているだけです。ご都合主義と言おうにも、そこには根本的に何の希望的観測もないのです。シビアな問題をシビアに描く*29、という本作の方針は決してぶれておらず、最後まで徹底していたのだと思います。

 ただ、ここまで徹底して希望のない話でありながら、読後感は不思議と悪くありませんでした。主人公が生きのびる結末にしたから多少後味が良くなった、というばかりではありません。主人公たちの努力をいかに無力に描こうとも、そこに宿る意志や決意まで冷笑的に扱うことは決してなく、物語の視線はあくまで彼女らに寄り添っていました。無力な者の勇気をそれでも力強く尊いものとして描ききる結末は、もの悲しくありましたが、少しだけ元気をもらえた気分にもなれました。こんな複雑で割り切れない感情を抱かせるなんて、やはり竜騎士さんはひとかどの作家なんだな、と思い直した次第です。

 なにより、本作のようにメッセージのはっきりした作品にとって大事なのは、小学生並の感想でもなんでもいいからとにかく「やっぱいじめってよくないよなー、そういうの見かけたら止めに入ろうかなー」とほんの一時でも思わせることができるかどうかです。現実への「貢献」度をもって作品の価値をはかるなんて野暮の極みですが、この作品の場合はお話自体が野暮そのものの「お説教」なのです。小学生はともかく、中高生のプレイヤーも決して少なくない竜騎士さんの作品でこういうお話が描かれたこと自体、「いじめを戦おう」という「運動」にとってのひとつの前進、収穫*30だったんだなと思います。

しめ

 うーん、やっぱり好きな作品の感想を書くのって楽しいものですね! だらだらと書きたいこと全部書いてたら、1万7000字超という自己最長感想になってしまいました。でもよく考えたらここまでで半分、まだ第二夜が残ってるんですよね……。この感想を書いたらすぐ第二夜をはじめよう! と思っていたのに、感想そのものに1月以上もかかってしまいました。数時間でプレイしたゲームの感想に数週間かけるというのも間抜けな話ですが、楽しかったのでよしとしましょう。個別感想に入る前の前置きはもう少し短くできると思うので、次回感想は一月以内にお届けできればいいな、と思います。ローズガンズデイズの方は、さてどうしましょう……。

*1:「当事者が傷つくことも顧みず、彼らが本当はどんな人たちだったのか知ろうともしないで、陰惨な事件の真相を面白おかしくスキャンダラスに暴き立てようとする野次馬的心性」の糾弾はうみねこ後半の根幹テーマに繋がる重要な部分なんですが、同作中で「ミステリーのことをちゃんと知ろうともせずに、自分の勝手な想像で作った偏見だらけのミステリー像の欠点をあげつらい、"ミステリーにもの申してやった"という態度をとる」みたいな藁人形論法を思いっきりやらかしちゃっていて、もういろいろ台無しだったっんですよ! 「よく知りもしない六軒島の人々について想像と偏見であることないこと言い立てること」と「よく知りもしないミステリーについて想像と偏見であることないこと言い立てること」の相似性に竜騎士さんが気付いてくれていれば、それだけで『うみねこ』は全然違う話になっただろうに、と今でも悔しく思います。それにしてもこの段落のカッコと注釈、本文より長い……。

*2:身の丈にあった、とも言いますが。

*3:作中にこんなセリフないですが、まあ大体こんな感じ。

*4:うみねこで魔法の剣が伸びるときとかにお馴染みのやつ。

*5:スプラッタ的にびっくりさせるのは別として。

*6:最大級配慮した表現……。

*7:もっとどうしようもないケースも出てきますが、まあネタばれなので。

*8:郷に入りては郷に従え。旧態然とした共同体に新風を吹き入れて膿を出すのはよいことだが、一度共同体にコミットして構成員と認められてから、共同体内の手続きに従って改革しろ、という感じ。

*9:妄想、オカルト等の虚偽の記述を駆使したエセ叙述トリック(今考えた言葉)。「実は主人公が幽霊だった」「人形が人に見えてた」等。

*10:そんなもん知らねーぞ、あいつらの内面なんてどこにあった、と言われたらあっはいとしか言えませんが。

*11:変なキャラクターがまったくいないわけでもないんですが、そういう子は「自己顕示欲が強くて思い込みが激しい」みたいな別の意味で生々しい扱いを受けてます。ひどい。

*12:「けいおんには内面がない」的な意味ではないのであしからず。

*13:未検証ですが、ざっと見た限りでは。

*14:「最終的解決」みたいなのも含みますね。

*15:http://www.fujimishobo.co.jp/pure/2007/07/post_121.php

*16:そういえばうみねこの「読者は作家を信じるべき」的な話も、読者の倫理を説く話として読者の視点から喋ってるうちはいいんですが、意に沿わない読者を押さえつけて作家を正当化する自己弁護の言葉にすり替わるとえげつない凶器になるわけで。こういう非対称さを自覚的に抑えていかないと、作品の面白さまで損なわれちゃいますよね(遠い目)。

*17:こういう学問的に突っ込まれそうなワードはあまり使いたくないのですが、竜騎士さん自身が使いまくってるのでこの場合はまあ「竜騎士07ターム」ということで。

*18:実際に触ってみるまで呪われているかどうか分からない、もし本当に呪われていたら怖いから実際に触って確かめてみることが出来ない、確認しないからいつまで経っても呪われているんじゃないかと脅え続ける。

*19:神様本人や妖怪除く。保健の先生もちらっと顔見せてましたが、まああれは端役なので。

*20:『ひぐらし』の雛見沢村がまさにそうだし、『うみねこ』の魔女同盟や小冊子「新人司祭コーネリア」(名作!)もこのテーマです。

*21:ていうか私が勝手にそう言ってるだけ?

*22:いえ、直後に書いたとおり思いっきり特殊な要素が存在するのですが、それはすべて「うまい抜け道」を封じる方向に働いてるんですね。

*23:いやでも、「彼女をいじめる者は、いじめの楽しさに取り憑かれてしまい、魂が堕落して、いじめっこに成り下がってしまうのだ」って本当にこの通りの文章で大まじめに説明されたときはずっこけそうになりましたが

*24:うみねこ最終話が納得いかない理由のひとつに、作品テーマである「魔法」を肯定するためにこの手法に頼ったから、というのがあります。「魔法」側の人間はかっこいい人ばっか、それに敵対する陣営は性悪ばっか、みたいな描き方だったんですよー。

*25:私がそうであるに違いないと思っている原則、ですが。

*26:いじめから脱する現実的な解法として「いじめターゲットを別の人になすりつける」ことが提案されましたが、それはいじめそのものに克つことではないということで作中で明示的に拒絶されました。

*27:「学校から逃げる」という根本的な解決法に触れもしなかったのは手落ちだな、とは思うのですが。

*28:あるいは、最後に描かれた「奇跡」そのものを、オカルトの範疇に属する「幸せな/復讐のための作り話」とみなすこともできますが。

*29:本当に現実はそこまでシビアなのか、というツッコミはまたありえるんですけどね。

*30:本記事の最初の方でも書いた通り、「逃げてもいいのよ」という方向のフォローに欠け、とにかく立ち向かわなければならないと圧力をかけているように見えるところは難、ですが。