船木誠勝、作意なきプロレス

もう古い話題になってしまいましたが、8.30全日本プロレス両国大会のお話。武藤敬司デビュー25周年記念スペシャルタッグマッチ、武藤敬司・船木誠勝vs蝶野正洋・鈴木みのるであります。よかったら、一緒に観に行ったid:Nakamyuraさんの記事もご覧下さい。

もうねえ、復ッ活ッッ! 船木さん復活ッッ! 船木さん復活ッッ! というテンションで両国に駆けつけましたよ。パンクラスの頃は船木さん嫌いだったのに、我ながら不思議なんだけど。

船木さんの試合は本当にハラハラドキドキした。プロレスを観てこれほど動揺するのは久しぶりだった。

船木さんの出たメインと対照的だったのが、休憩前に行なわれたカズ・ハヤシvs近藤修司の世界ジュニア選手権試合だ。ここで繰り広げられたのは超ハイレベルな平成プロレス。NOAHで言えば丸藤vsKENTAのような、超絶技巧とカウント2.9の果てしない応酬、ウワースゲー、おお返した、ウヒョースゲー、おお返したという酸欠プロレスである。死力を尽くして超好試合を成立させた2人には感嘆したし眼福とも思ったものの、実を申せばこういう試合、オレは決して好きではない。

ひとつには「アンタら死にまっせ」という思いがある。これは三沢さんの死を持ち出すまでもなく、以前の丸藤vsKENTAあたりにも感じたことだ。省エネにはほど遠い、アスリート的なプロレス。しかし高度で危険な技の応酬のエスカレートの果てに素晴らしい未来が待っているとは、オレは全然信じていない。実は省エネなのに観客を興奮させるプロレスのほうが高級だと思っている。

カズ・ハヤシvs近藤修司はすれきったプオタへの劇薬にはなり得ても、誰にでも伝わるプロレスにはなっていないのだという思いもある。はっきり言えばやってることが高度すぎて、素人さんには伝わらないのだ。そして、オレ自身感嘆しながらも「しかしボカーこれが観たかったわけではないのだ」と思わざるを得ない。なぜならガキの頃あれほど胸を焦がしたプロレスは、決して今日的な意味で「うまいプロレス」ではなかったからだ。

カズと近藤が身を削った「うまいプロレス」は、2人の共同作業でリング上に試合という美しい「作品」を作りあげる。作品を作り続けるんだとの覚悟を持つ2人を悪く言う気はない。それでもやっぱり申し訳ないんだけど、そもそもオレはこれを望んでたんじゃないんだよなあ。

船木のプロレスは全然違っていた。船木には、作品を作るつもりなんか一切ない。そういう意味の「作意」は全然感じなかった。船木は、ただ自分が許せる「船木誠勝」像を完遂することにしか興味がないように見えた。船木の意識の中では、観客さえ舞台の背景に過ぎない。船木が闘っている相手は、船木自身の「美学」に他ならない。船木美学的にカッコ悪いことをやる自分を、船木は許せない。

船木美学とは「中二病」的なヒロイズムが大きな割合を占める代物だ。船木さんは好きな映画に「タクシードライバー」ならまだしも真顔で「レオン」とか挙げちゃう人だ。

船木の「滅び」への傾倒も、中二をビンビン感じさせる。2000年、ヒクソン戦の入場をおぼえてますか。高倉健ばりの着流しに日本刀。引退後の船木は「日本刀でヒクソンを斬ろうと思ってました」と語った。あのねえ、とても冗談に聞こえないんだよ。船木はヒクソン戦で、かなりクソ真面目に「死」を見つめていたと思うのだ。たとえば高田延彦にとってもヒクソン戦は人生で最も追い詰められた2試合だったと思うが、船木のそれはまったく趣が違っていた。オレには船木さんが「死にゆく自分」さえ美学として捉え、「滅び」に酔っているように見えた。

2005年、ビッグマウスラウドに登場した船木は何を言ったか。「悔いなく死にたい。だからここに来ました」と言ったのだ。悔いなく「死にたい」、彼はそう言ったのだ。こんな台詞、普段から死とかデスとか死とか思ってないと出てきません。このとき、オレの中ではルッテン戦でボロボロになりながら「明日また生きるぞ!」と叫んだ船木、ヒクソンに絞め殺されて「15年間ありがとうございました」と頭を下げた船木、BMLのリングの上で「悔いなく死にたい」と爽やかに言ってのけた船木が「美学」というキーワードできれいに繋がったのだ。

「流血の魔術・最強の演技」なプロレス界において船木さんは「美しくありたい」と本気で思っているところがあって、そのアングル無用のガチな匂いが非常にマッドネスなのである。

試合は鈴木が作り、武藤・蝶野が見せ、船木が暴れた。

武藤と蝶野の絡みなんかもう100万回見たし正直どうでもいいんだが、この試合で唯一安心して見られる場面なので実に楽しかった。顔でプロレスができる鈴木は、船木の狂気を翻訳してうまく観客に伝えていた。それにしてもあの「世界一性格の悪い男」が、船木さんのマッドネスを前にしてはただのプロレス巧者だ。いちばん身勝手なのが船木さんだ。プロレスラーとしての本能のままに動き、我々の目を釘づけにした。

鈴木に唾を吐かれ(たぶん怒ったのだろう)突然エプロンのマットをめくり凶器を探す船木さん。蝶野にイスをぶん投げる船木さん(プロレス的に使い勝手のいいパイプイスではなく2、3個連結されてるイスなのだがお構いなし)。極めつけはトペの失敗だ。いまどきあんな思いっきりロープに引っかかる豪快な失敗もなかなか見かけないが、それ以上に自分のトペ失敗を許せないであろう船木さんが発散するかなり気まずい瞬間がそこにあった。トペの失敗くらいで船木さんにヘソを曲げられてはたまらない。だからトペ失敗の直後、この日最大の声援が船木さんに飛んだ。船木のミスを観客が吹き飛ばしたのだ。

数々のギョッとするような違和感を残し、船木さんの復帰戦は終わった。これはあらゆる意味で、最高に面白く興奮する試合だった。

船木さんは役者もやってたくせに感情表現に乏しいひどいプロレスラーだ。たぶん無表情がクールでカッコいい(キリッ)という船木美学があるんだろう。それにしても、無表情で何を考えてるのか判らない浅黒い男がキビキビとした動きでリング下で凶器を探しているという図は、人を不安にさせるのに充分なものだ。

「オレは怒ったぞ」という表現、たとえば動きを止めて怒った表情をきちんと見せたり、マットをバンバン叩いたり、場外でフェンスを蹴っ飛ばしたりというのはプロレスでよく見る風景だ。それは感情を表現して観客に伝え、試合という「作品」を成立させる行為だ。一方、船木さんは無表情で闇雲に凶器を探すのだ(しかも見つからなかったのだ!スゲエ)。観客はすごく不安な気持ちになる。

よくできたハリウッド映画は、すべてのシーンに意味があり無駄な台詞はひとつもない。安心して観られるし、起こる事件のすべてが説明できる明朗会計だ。それは、カズ・ハヤシ的プロレスの目指すところだ。

船木さんの感情はちゃんと提示されない(する気さえない)。ただ黙々と船木のプロレスを遂行する。だから船木さんの感情は、船木さんの行動から観客が推測するしかない。推測だけで説明がつく保証もなく、ハッピーエンドの可能性もあんまり高くない。実はこれ、すぐれたドキュメンタリーを観るときに感じるスリルだ。要するに80年代の新日本プロレスにあった、我を忘れて釘づけになってしまうあの空気である。保証書や取扱説明書とは対極にある世界、管理のズサンなサファリパークの空気だ。当時古館伊知郎が「闘いのワンダーランド」と呼んでたアレだ。

船木の奏でた強烈な不協和音を、しかし武藤・蝶野・鈴木のオーケストラは、美しき大団円にきっちりと持っていった。これはこれで、さすが千両役者のいい仕事であった。

客のエゴに迎合しない、むしろ自分のエゴで客を振り回すような船木には「そうだ、これがプロレスなんだよ」と膝を叩いて納得したし、武藤らの盤石おもしろプロレスも存分に堪能できた。今年はねー、もうこれが年間最高試合で間違いないですな。間違いないっ!

追記

試合後、武藤のマイクに合わせてリングの各コーナーから大量の銀色のテープがバシュッ! と打ち上げられ、リングに降り注いだ。ここで印象的だったのが、体にかかった銀テープを神経質に払い落とす船木さんと、頭や肩にへばりついた銀テープをあえてそのままにしてポーズを決める武藤さんの対照だ。銀テープさえ衣装として身にまとってしまうのが、武藤のゴージャス・ジョージ的センスだ。一方船木さんはご自慢の日サロ行きすぎハイブリッドボディこそが完成品で、そこには何も足すべきではないとする一見ストイック風な中二センスを見せつけた。こういった何でもない場面に、「人間」が浮き彫りになる瞬間がある。これがプロレスの豊かさなんだと思う。