光市母子殺害事件の報道が始まると、日本中の関心がそこに集中して、社会全体の動きがピタッと止まったようになる。全ての人の脳裏から他の問題への関心が薄れ、
本村洋の一挙手一投足に視線が集中する。そして固唾をのんで本村洋の発言を見守り、その周囲の動きに目を凝らす。さらに誰もがこの問題について黙っていられなくなり、自分の意見を上げる場を探そうとする。日本人の全員が傍聴者として裁判に参加している。事件の概要を熟知している。このような社会事件は他にない。これは事件と裁判であると同時にドラマであり、物語の展開と結末に日本人の誰もが注目せざるを得ない感動巨編なのである。現代の忠臣蔵のドラマが目の前で進行しているのだ。この問題への人々の関心は年を追って高まったが、特に2年前から安田好弘という凄味のある強敵が登場して、
安田好弘と21人の弁護士が悪役でキャスティングされたところから、さらに「視聴率」を集める歴史的ドラマとなって行った。
その国民的ドラマの主人公が本村洋で、主人公は、朝、裁判所の前のアプローチを横から歩いて画面に登場する。そして裁判の後に印象的な記者会見をする。昨日は、一連のドラマの中のクライマックスの段だったが、主人公を演ずる本村洋は、その「視聴率」の高さに負けず怯まず、逆に視聴者の期待をはるかに上回る気高い挙措と神々しいオーラルで、入廷の映像と会見の場面を国民の前に披露した。完璧なパフォーマンスだった。記者会見は圧巻だった。素晴らしいとしか言いようがない。カメラもよかったが、役者はカメラを上回っていた。カメラマンも撮影しながら「作品」の出来ばえに感動しただろう。外国人記者に見せてやりたい。日本人の若い男でこれほど素晴らしい人間がいることを世界中に教えてやりたい。私は
以前の記事で、「
この優秀な優秀な優秀な男を今すぐに総理大臣にしたい」と書き、その表現をブログ左翼に揶揄されたが、二度とこの私の表現を揶揄したり愚弄したりする人間は出て来ないだろう。
本村洋は、「
彼は犯罪事実を認めて謝罪し、反省していた。それを翻したのが一番悔しい」と言い、「最後まで事実を認めて誠心誠意、反省の弁を述べてほしかった。そうしたら、もしかしたら死刑は回避されたかもしれない」 と会見で言っている。この言葉は、福田孝行本人ではなく安田好弘ら弁護団に向かって発せられたメッセージである。弁護団が福田孝行を反省や更生に導こうとせず、逆に「弁護」の特権を利用して、加害者に奇怪で不埒な犯行の理由づけを滔々と弁論させ、法廷と被害者を侮辱したことに対する渾身の怒りを勝利宣言と共に叩きつけたものだと言える。安田好弘に対して愚劣な弁護戦略の失敗と死刑廃止宣伝の破綻を宣告したのである。実際には、福田孝行は一審以来一度も反省も謝罪もしていない。それは一審と二審の法廷で弁護人が戦術として口先で言っていただけでの嘘で、福田孝行本人は一度も謝罪も反省もしていない。「それを翻したのが」と本村洋が言っているのは、福田孝行に対してではなく安田好弘に対してなのだ。
死刑廃止論者の多くは沈黙を余儀なくされた。この局面で安田好弘を擁護する立論と弁証は無理だろう。その代わりに、死刑廃止論者たちは「厳罰化」を批判する議論で説得力を立て直そうと必死になっている。朝日新聞の
記事と社説がその前面に立ち、幾つかのブログ左翼がそれを援護する記事を発信している。厳罰化でよいではないか。何が悪いのか。本村洋も記者会見で言っていたとおり、法律には「
人を殺した者は死刑に処する」と書いている(刑法199条)。2人だから死刑で1人なら死刑にならないという適用が判例として基準になっている現在の司法こそが間違っているとは言えないか。例えば、伊藤一長を射殺した暴力団員の城尾哲弥には死刑が求刑されている。来月に一審判決が出る。殺した人間が1人だから無期懲役でいいのか。それで許されるのか。私は絶対に許せない。判決は死刑以外にない。この男には間違いなく裏から報酬が出ている。この男が無期懲役の刑で10年後に娑婆に出てくれば、黒幕の誰かから回ったカネで余生を豪遊して暮らすだろう。
厳罰化を認めるべきだ。現に飲酒運転等の交通犯罪に対しては法規も判例も厳罰化の流れが進み、それが奏功して運転手や飲食店の意識が変わり、飲酒運転の事故や被害が減少する事実が報じられている。厳罰化は残念なことだが、受け入れるべきことだ。凶悪犯罪を減らすためには社会を変えないといけない。凶悪犯罪はどうしてこれほど日本の社会で増えたのか。無論、経済不況で人心が荒廃したことも一因ではある。しかし、一言で言えば人間が変わったからである。日本人が変わったのだ。簡単に人を殺せる人間ばかりが増えた。冷酷で残忍な心を持った人間が増え、人を傷つける衝動を理性で抑制できなくなった。それは教育に原因がある。例えば教室でのいじめ自殺、これは集団による殺人行為だが、80年代の初めからこの国で頻繁に起きるようになり、現在では珍しい問題ではなくなり、人の心にすっかり免疫ができてしまった。日本人が変わっている。変わったから司法判断を変えなくてはいけなくなった。最高裁が光市母子殺害事件で死刑の適用基準を転換したのには意味がある。
厳罰主義で司法を運用せざるを得なくなったのは、日本社会が変わったからであり、厳罰で臨まなければ法の支配が機能しなくなったからである。厳罰化の流れを変えるためには、簡単に言えば、教育を変えないといけない。家庭と学校で道徳を教え、暴力や犯罪を悪として憎む正義の心を涵養しなければいけない。読者の左翼はよく考えて欲しいが、そこの問題を放棄し無視し軽視してきたから、だから日本は犯罪社会になり、少年による残酷な凶悪事件が増えたのである。親が子の道徳教育をしてないのだ。学校が生徒の道徳教育をしてないのだ。義務教育の道徳の授業を週に1時限確実に設けて、そこで光市母子殺害事件を教えればいいのである。栃木の
リンチ殺人事件を教師が教えればいいのだ。いじめ自殺問題の発端となった富士見中野中の「お葬式ごっこ」を教えればよいのだ。山形マット死事件を教え、神戸の酒鬼薔薇聖斗事件を教え、人の命とは何かを教え、正義とは何かを考えさせればよいのである。教育とは人間を作ることである。作ってないのだ。人としての当然の倫理を内面化させてないのだ。
犯罪が増えるのは当然だ。そうした問題はわざわざ学校教育で教える問題ではないと避けるのが戦後教育一般の姿勢だった。文部省も現場の教師も。倫理や道徳といった個人の内面の領域に公教育が立ち入るのことに対して消極的であり否定的だったのが戦後の日本であり、それは一つには戦前の教育勅語による軍国少年大量生産の教育に対する悔恨からだった。だが、よく考えて思い出して欲しいが、例えば小学校で、弱い者いじめや差別や暴力のような問題に対して、常に敏感で、教室の中での問題発生を見逃さず、そうした不正義に対して不寛容で、つまり教育者として基礎的な倫理をわれわれ生徒に叩き込んでくれていたのは、戦前生まれ戦前育ちの年配の教師たちだった。そうではなかったか。私の場合はそうだった。年が若くなればなるほど、教師も親も、そうした問題に対して神経質でなくなり、子供に対して勉強と成績だけを求めて評価する傾向が強くなる。人間教育が無機質的になる。現在はその延長にあって、親の世代に倫理観や道徳観が根本的に欠落しているのだ。
子供に正義を教えてない。80年代以降の左翼脱構築主義のイデオロギー(現代思想の社会学)は、そうした状況を批判するのではなく逆に合理化し正当化したのであり、脱正義・脱倫理・脱規範・脱責任の思想性を積極的に助長して蔓延させ、さらには行政や教育の実践現場に制度化させ慣習化させて行く。その結果が今日の日本である。司法や裁判所は、言わばその尻拭いをさせられているのであって、国家が人権を抑圧する厳罰化を意図的に推進しているという左翼的な見方は間違っている。法の支配がその社会で妥当する現実水準というのは社会によって異なるのであり、われわれはそれを民度とか成熟度などという表象で了解する。中国の法の支配の水準があり、日本の法の支配の水準があり、欧州の法の支配の水準がある。あの中国でも途上国と言いつつ自らを法治国家と言っている。その意味で、日本における法の支配の水準は下がったのであり、人間的だった人間が理性のレベルを落として動物化したのである。規範の内面化の程度の低い社会では、法の適用と執行は峻烈で粗暴にならざるを得ない。
本村洋が言っていた「
この判決を契機に、犯罪がなくなるためにはどうしたらよいのか、私たちが安全で平和な環境にいられるにはどうしたらよいのか、考えなければならない」という問題提起に対する私の解答が以上である。答えは教育だ。教育が身を結ぶまで、道徳教育で日本の人間が変わるまで、社会が変わるまで、われわれは厳罰化の司法に耐えなくてはならない。
【世に倦む日日の百曲巡礼】
今日は映画『REDS』で使われていた国際労働歌『インターナショナル』を。
映画は1981年製作、翌年のアカデミー監督賞を受賞。
この映画は本当に素晴らしかった。
ルイーズ・ブライアント役のダイアン・キートンの演技が抜群によかった。
映像は第一部のラストで、蜂起した労働者が冬宮を急襲して占領、
ペトログラード・ソビエトが臨時革命政府を樹立。世界を揺るがした十日間が始まる。
トロツキーとレーニンがスモーリヌイで演説する場面も出て来る。
この映画は第二部のラストが感動的でいいんだよね。