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2020
03.07

陽光は照り続け、残酷な花が咲く。『ミッドサマー』感想。

Midsommar
Midsommar / 2019年 アメリカ / 監督:アリ・アスター

あらすじ
ホルガ村へようこそ!



不幸な事件で家族を失ったダニーは、恋人のクリスチャンや大学の友人たち5人でスウェーデンの奥地にあるホルガ村を訪れる。太陽の沈まないその村では、90年に一度の祝祭が行われるところだった。幸福そうな村人に歓迎されたダニーたちだったが、徐々に不穏な空気が漂い始め、やがて恐ろしい事態に発展していく……。謎の村を舞台に描くサスペンス・ホラー。

『ヘレディタリー 継承』で長編デビューを果たしたアリ・アスター監督の第2作。白夜のため夜になっても太陽が沈まないホルガ村は、美しい花に彩られ、陽気で優しい住人たちが歌ったり踊ったりという楽園のような場所。このコミューンに数日滞在する予定で訪れたダニーは、恋人や友人たちと共に家族を失ったばかりの傷を癒そうとします。しかし村で90年ぶりに行われるという祝祭に参加したことで、思いがけない恐怖に巻き込まれることに。前作でトラウマ級の恐ろしさを見せてくれたアリ・アスター監督、今作も半端じゃないです。原題はスウェーデン語で「夏至祭」のことですが、その祭のさなかに起こることが凄い。終始不穏、徹底して不気味、明るいのに怖いという強烈な陰の面が強烈です。しかし同時に、どこか晴れやか、なぜか感じる繋がり、何かからの解放という微かな陽の面があることも否定できないのです。そして一体何を見せられているのか戸惑いながら、一人の女性の解脱を見守ることに。忌避感があっても目が離せない。なんだこれ凄い。

ダニー役は『ファイティング・ファミリー』『トレイン・ミッション』フローレンス・ピュー。恋人への依存を感じながらもなかなか心を解放できない姿が際立ちます。ダニーの恋人クリスチャン役は『シング・ストリート 未来へのうた』ジャック・レイナー。何とも煮え切らない感じの役ですが、やがて渦中に巻き込まれ全てを晒しての熱演を見せます。マーク役の『デトロイト』ウィル・ポールターのやっちまった感、ジョシュ役の『パターソン』ウィリアム・ジャクソン・ハーパーの生真面目さ、ペレ役のウィルヘルム・ブロングレンが見せる笑顔の意味なども、追い詰められていくダニーのドラマを彩ります。

ショッキングなゴア描写もありますが、怖いのはそこではなく、一見頭のおかしいホルガ村が共感と幸福に満ちているということで、特定の人に頼らずとも皆で共有すれば苦しみは消えるという、それって真理なのではと思わされそうになるところ。美しささえある映像に広がる、残酷なカタルシスにやられました。

↓以下、ネタバレ含む。








序盤でダニーがクリスチャンに電話するシーンで、言葉はクリスチャンにおもねるようでありながら家族への不安をとめどなく言い聞かせるダニー。薄暗い部屋で瞳を揺らしながらアップで映るダニーはいかにも不安定です。一方のクリスチャンは仲間たちと集まりながらダニーと別れるべきと詰め寄られます。ダニーがクリスチャンに依存するのは自分の不幸をわかってほしい、苦しみを分かち合ってほしいと思っているからですが、クリスチャンはそれを重荷に感じながら、ダニーへの同情もあるのか態度を保留している様子。二人の間には既に断絶が見られるわけですが、ダニーの不幸があったためさらに別れづらくなるクリスチャン。逆に男だけのつもりだったスウェーデン行きにダニーを誘います。一見クリスチャンの優しさのように見えますが、そうせざるを得ないからそうしただけで、断絶が埋まるわけではなく、むしろ最悪な展開へと発展することになります。ダニーの双子の妹が両親と無理心中を図るというところから、家族でさえわかり合うことは難しいと言ってるわけで、他人同士ならなおさらでしょう。そんな断絶は多かれ少なかれ誰もが感じるものでもあり、アリ・アスター監督が「これはラブストーリーだ」と語るのも、その断絶込みで二人の関係が最後まで描かれるからでしょう。

そんな断絶のある世界からホルガ村に向かう一行。道中カメラが車を追い越して天地がひっくり返るショットにより、ホルガがこちらの常識とは違う異世界であることが示されます。爽やかな草原にポツポツと建つファンタジックな建物、白っぽい衣服を花で着飾り笑顔に溢れた人々。一見楽園のようですが、その現実離れしたビジュアル、逐一的な言動に新興宗教を疑ってしまいます。白夜で陽が沈まない、つまり闇がないというのが、全てが白日の元にさらされているかのようで落ち着かず、一同が会しての食事風景も薄気味悪さが漂い、寝所は仕切りもなくプライバシーは皆無。普段は穏やかなのに、マークが神聖な木に放尿したのを見た者は狂ったように罵倒してきたりもします。何かがおかしいという違和感は、異国の奥地という開けながらも隔離された空間も相まって、明るい画面でありながら不穏さが膨らんでいきます。この不穏さを醸す雰囲気の作り上げ具合が凄い。

そしてあの祝祭です。崖から身投げし顔が砕ける様子を誰一人止めることなく見届ける。落ちても息がある者にはとどめを刺す。90年に一度の行事のようですが、ということは村人たちも初めての経験のはずなのに誰もたじろがない。それどころか恍惚としているかのような、自ら死を選んだ者に共感しているような一体感さえあります。もう一組の来訪者であるコニーとサイモンのカップルが騒ぎ立てる方がむしろおかしいかのようで、クリスチャンらも衝撃を受けて愕然とします。ただここでダニーだけはちょっと違う反応を見せます。困惑し怯えてはいますが、その事象に何かを感じ入るような様子。これがダニーがホルガを受け入れる前段となっていますが、それでもまだ理性は残っていて、逆にクリスチャンやジョシュの方が村にとどまろうとするんですね。でもそれは結局外側から観察したいだけで、このコミューンに加わりたいわけではない。サイモンは先に帰ったと言われたコニーも、ホルガの秘密を暴こうとしたジョシュも、村に興味のなかったマークも姿を消します。クリスチャンだけは助かるかのように思えましたが、村の長老が時折外部の者を招く、と言っていたように種馬として残されるだけです。

ホルガの理念は共存共栄ではなく、共感と共有です。個人をありのまま受け入れるわけではなく、共同体の一部になることを求めます。クリスチャンが部屋に入ると裸の女たちがずらりと並んでいるのにはどんなプレイだと思いますが、セックスの快楽さえ共有の対象。相手の女性マヤがクリスチャンではなく村の女の手を握りそちらを見つめるのには、まさに種付けのためだけであるという感じが凄い。一方で、泣きわめくダニーに合わせるように本気で泣く女たちは、完全にダニーに同調しています。あれだけ共有して泣き合えば、発散され浄化もされるでしょう。それ以前にダニーはもうホルガの女王であり、既に村の一部なのです。その立場は女王を決める躍りでダニー自らが勝ち得たものであり、面談されて種付けを許可されたクリスチャンとは逆のもの。二人の断絶は間にホルガが入ることで明確になり、一方は受け入れられ、一方は利用だけされ切り捨てられることで完全に別の道へと分かれていくのです。わかり合えず依存するしかなかったダニーは、わかり合うことが全てである共感という関係性で救われます。そして最後の生贄としてクリスチャンを指名することで、ダニーは自分の意思をも祝祭に反映させます。

クリスチャンはそんなに悪いこともしてないように思えて不憫だし、人の論文テーマをパクるくらいホルガに魅せられてもいましたが(いやダメだろ)、ダニーへの同情というのが結局のところ上から目線だったと言えなくもないわけです。そうして熊の内蔵を取ったあと同じ台に乗せられるクリスチャン。もう最悪の展開しか予感できなくて怖い。ダニーが救われていくのとは裏腹に、踊ってる女性たちがバタバタ倒れていくとか、村人が無言でねこだましをかましてくるとか、花でできた十二単みたいな女王の衣装とか、平和そうな風景に自然に紛れ込む違和感がとにかく不気味で不穏で恐ろしいです。ダニーの泣き声が低音で長いのからして怖いし、今後を示唆するタペストリーの不吉さも怖い。他にも細かいメタファーが山ほど出てきてサブリミナルに揺さぶりをかけてきます。この繊細で独自的な恐怖表現が凄いんですよ。そして最後の生け贄です。花をあしらったオブジェにされた仲間たち。その中央に災厄の象徴である熊として鎮座するクリスチャン。徐々に炎に包まれていく建物を見ながら、燃やされる者と共感して泣き叫ぶホルガの人々。ここに祝祭は成され、ダニーは解放されるのです。

しかしホルガには欺瞞があることを忘れてはいけません。それは「預言者」と呼ばれる者たちの存在です。顔が崩れた姿で隔離されたその人物はほんの少ししか出てきませんが、これが近親交配により生まれた者なのでしょう。また最後の生け贄として手足に障害がある者たちも運び込まれます(ひょっとしたら障害者ではなく老人だったかも)。彼らは共感できる体や頭脳を持たず、ある者は預言者として閉じ込められ、ある者は贄にされるという、幸福の代償を担わされているのでしょう。そしてもう一つ勘違いしそうになるのは、ホルガに共感されて救われたダニー自身は他のホルガの人々に共感しているわけではないということ。皆は焼かれる者に共感して泣き叫んでいるのに、ダニーは最後の最後に笑うのです。それはダニーが本当の意味でのホルガ民にはなっていないということ。家族を失った悲しみを癒してくれ、依存してしまう恋人を葬ってくれ、自分を肯定してくれる、そんな世界で自分だけはその愉悦を個人的な満足感として味わっているのです。だからダニーは確かに救われているけども、結局救いというのはとてもパーソナルなものだということも示しているのです。でも物語はダニーに寄り添っているので、いかに残酷であろうともカタルシスとして成り立ってしまうのです。

誰かが自分を肯定し、自分が何かしなくても共感し救ってくれる。それは確かに魅惑的な世界かもしれません。本作を観て救われたと言う人はダニー同様何かしらの痛みや苦しみを抱えているということでしょう。それを気付かせてくれる作品だ、とも言えそうです。でもホルガ村に馴染むためには、やはり自分というものを捨て去らないといけない。それは本当の幸福なのだろうか?ダニーはこれからも幸福にやっていけるのだろうか?そこが曖昧になり、自分の存在ごと飲み込まれてしまうところが本作の本当の怖さです。

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