【日記】オタクVSサブカル、再び……
「[投げつけ][断片]勘違いする余地がないのは、幸せなことか、不幸せなことか」
に対する批判
「これから音楽に出会う若い人たちへ~ダッシュ君、そしてダッシュ君と同じ気持ちの人に向けて~」
について。
どうも誤読に思えるので、オオツカダッシュを擁護しますね。
「サブカル」というのは他者性に裏打ちされた文化である。これは近年「動物化した」といわれている「オタク」と対比すると分かりやすい。「動物化」とは他者の視線の失われた、スノビズムなき世界へのシフトを意味する。家畜が餌を食うように、ジャンキーがドラッグを打ち込むように、娯楽に接する態度ですね。京都の料亭で懐石料理に舌鼓をうったり、船来の葉巻を嗜むような「気取り」の文化とは対極に位置する、唯我論的な気持ち良さ、他者性なき快楽主義の文化を「動物的」と呼ぶわけです。
オオツカダッシュの人が言いたいのはおそらく、他者に開かれていたサブカルとその信奉者たちが、この「動物的」な世界へと取り込まれていくことへの危惧なのではないかと思う。
サブカルとは本来コミュニカティブな文化であり、社会の中での位置付けが重要視される。いかに信奉者が「単に好きだから」という理由で愛好していようと、サブカルの世界では相対的なポジションが重要視されるのは、現実を見れば分かるとおり。音楽マニアのセンス競争など、その最たるものではないですか。もっとも、モノに溢れた現代では、ある程度まわりを見ながら商品を選ぶのは当然であり、その行いは何ら否定されるべきものではないと、個人的には思うわけですが……。
で、ここからが本題。確かにサブカルは他者に開かれた社会性を重んじる文化である。しかし、サブカル好きが同胞を見つめる視線が、「動物化」し始めている。ブログやmixiででマイ・フェイバリット・アーティストを公開している人は少なくないけれども、これに対してオタクがネコミミやアホ毛、メイド服の組み合わせを愛好するのと同じような類の欲求を抱いてしまう。萌えキャラを構成するパーツの順列組み合わせに欲情するように、マイ・フェイバリット・アーティストの並びに魅かれてしまう、という現象です。これは、あらゆるアーティストやその作品が、フラットにデータベース化された世界ならではの欲求なのだが、ここからは他者性や、それがもたらす緊張感・異物感といったサブカル本来の要素は、完全に失われてしまっている。
オオツカダッシュのトニオ君の言う「勘違いの起きる余地のなさ」「オサレの行き過ぎ」というのは、「オサレ女子向け名盤リスト」のデータベースから一歩も出ずに、「"サブカル女子萌え"オタク」の嗜好にカッチリとはまってしまうこと。これを指しているのではないのか。このデータベースは「ユリイカ」「スタジオボイス」といった雑誌により随時補強され、生温く安全な箱庭を若者に提供している。この箱庭の中で遊ぶのは、お手軽にサブカル気分を味わえて大変楽しいのだが、サブカル好きが年長者の掌の上で踊らされているさまは、まったくサブカル的ではない。あらゆるサブカル愛好者がデータベースを元に、趣向の組み合わせによって理解の枠にはめられ、安全な「萌えキャラ」として年長者に愛でられる。この動物的な関係の構造には、本来サブカルが備えているはずの他者性も社会性もまったくない。
そう、これは昨年夏の「オタクVSサブカル」の延長。オタクによるサブカル方面への静かな侵攻を意味している!(笑) このままではサブカルはオタクに取り込まれ、オタクのいち領土として細々と生き延びていくことになるだろう。すでに年長者の一部は懐柔された。彼らは確かにサブカル文化を好んではいるが、同胞(特に女子)の受容の仕方は明らかにオタク的だっ!
という冗談はさておき、オオツカダッシュの文章は、「ハイセンスな俺様目指して頑張りな!」というスノビズム丸出しのセンス自慢ではなくて、むしろ「確かに趣味はいいけど、俺ら年長者が萌えるような優等生的なチョイス。それって"サブカル"と違くね?」ということが言いたかったのではないかと、僕は思うのですよ。違ったらごめん。
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コメント
「超越論的な歴史(正史)にベタにコミットするのも、それを断念して逆に個々の作品に閉じこもる(動物化)のもどっちも退屈だから、歴史を絶えず脱構築してこうぜ!!」っていうのがオオツカダッシュの人の発想だとしたら、それは確かにキクチさんが言われた通りサブカル的にも非常に真っ当なことだと思うんですよ。
ただそこで「単一の歴史、単一の脱構築」、あるいはもっと具体的には「正しい”サブカル”」のようなものを想定してしまったら、それは結局彼自身が批判する「正史に対して距離感のない者」と同じ振る舞いだって気がします。言い換えれば、歴史の相対化を説くものが、いつのまにか自己目的化して、「相対化の絶対化」にたどり着いてしまう。
で、吉田さんのエントリは動物化に抵抗しつつ同時にそういう絶対化をどうやって回避するかという問いから始まっていて、「どんな歴史にも外部はある」とか、「歴史自体が複数ある」ということを考えているのではないかと(というかこれはほとんど俺の勝手な読みだなあ)。
そう考えると、両者の議論がかみ合ったものに見えてくるのではないか。あーでも両者の議論の前提としてデータベース化、動物化があるっていう状況論はすごく問題をクリアにしてくれると思いました。
投稿: anisopter | 2006.03.08 12:22 午後
>anisopterさん
キーワード辞典と歴史の違い、みたいなものだと思いました。キーワード辞典では読み解けない言葉を構築して文脈を作るのが歴史なんだと思います。そこには伝えたい人の思いがありますから、人によって歴史観が違うのは仕方ない。今、問題なのはそこではなくって、辞書の部分かと。
同じ辞書を使っていないから話がなりたたないのかな、と思いました。
そして、その辞典の部分にはちゃんとした根拠があり、調べて説得力がなければなりません。その部分を個人の感覚に委ねるから語弊が生まれるのだと感じました。根拠があるなら感覚じゃなくって証拠を提示しろっていう。コメント欄のばるぼらさんとのやりとりを読んでてそう思いました。
投稿: 吉田アミ | 2006.03.08 01:08 午後
>吉田アミさん
あー、そうですね。いったん議論を後退させたほうが、両者の議論の成り立つ場所がわかりやすいかと思ってやってみたんですが、俺の要約を読むとなんか吉田さんが単に「人がそれぞれ異なる歴史(キーワード辞典じゃないほう)を生きてていいんじゃね」って言ってるだけみたいに見えちゃいますね。そっからどうやって異なる歴史を生きる人がわかりあえるかという実践について何も言えてないってのは我ながら問題だなあ。
で、おっしゃる通り「歴史」と「キーワード辞典」みたいなインフラの問題はリンクしてて、違った歴史を生きているからこそ、それを支えるような最低限の共通了解を作っていこうという発想には非常に納得しました。俺もダッシュ君とぱるぼらさんが今「オオツカダッシュ」でやっている議論っていうのはそういうインフラを作るための、地味だけど生産的な議論だと思いました(あそこに出てくる固有名詞は残念ながら全くわからないんですが)。
投稿: anisopter | 2006.03.08 07:09 午後
「オオツカダッシュの人が言いたいのはおそらく、他者に開かれていたサブカルとその信奉者たちが、この「動物的」な世界へと取り込まれていくことへの危惧なのではないかと思う。」
これまったく正反対、真逆だと思う。『そんな他者の目だけで構成された正しいオサレさんで人生いいの?何かに惚れるってもっと「動物的」なもんじゃないの?』というのが趣旨だと思った。
そして書かれた人もそれを正しく読み取って
http://d.hatena.ne.jp/churchill/20060226/p1
そもそもそういうんじゃないし、と答えた。
投稿: odakin | 2006.03.12 06:06 午後
いや、オオツカダシュの人の過去の趣味はとても「動物的」とは言えない代物ですよ。
ジャーマンプログレを「名前がかっこいいからって理由でものすげく分けがわからないまま聞いてた」とのことですから。
スノビズムの最たるものです。
オオツカダッシュの文章で問題にされているのは、スノビズムの種類。
つまり、「名前がかっこいいから」聴くのか、「ユリイカ文化圏だから」聴くのか。
これは「サブカルは、どのような”他者の視線”を想定すべきか」という論争になるはずなんですが……。
「好きだから好き」という理由に還元したり、
「実はHR好きでした」なんてカミングアウトする流れは
僕的にはあまり面白くないですね。
いいかげん朴訥な「動物」的態度にはウンザリしてるんで
そろそろスノビズムの「質」を問題にすべきだと思う。
サブカル復権のためにも。
投稿: 管理人 | 2006.03.15 03:54 午前