ナントモハヤ

明日のぼくを殺せ。昨日のきみを救うために。

21世紀の空から、ドラえもんが消える日

 タイトルは釣り。(釣れない気がする)

 というわけで、映画「STAND BY ME ドラえもん」の感想と考察に見せかけた"いいとししてドラえもんに拘泥している人がネットに吐き散らす的外れの自分がたり批評ごっこ”はじまりまーす。

関連

 視聴直前直後にツイッターでギャーギャー言っていたのをまとめてくれた方がいらっしゃいまして、けっこう見てもらったみたいですね。

 みんなこんななにいってるのかよくわからないものをブクマしたりコメントしたりツイッターにはったりしてなにがしたいんでしょうか。まあみんな今回の3Dドラに対して純粋な興味と、なにかしら汚物のフタを覗き見たいような下卑た欲求があるような、そんなかんじですよね。そういう人間的な反応は大好物です。


 あと、ブログ書かなかったんですけど、今年の春公開の「新大魔境」はマジ完璧なリメイクでしたのでみなさんBD買いましょう。別に武田鉄矢の歌がなくても、ジャイアンの声がちがくても思い出汚れたりしませんよ。そもそも大した記憶力じゃないんだから。

 ここ訂正します。ブコメで教えてくれた方マジ感謝でーす。
 

”旧大魔境の主題歌を歌ってるのは武田鉄矢じゃなくて岩渕まこと、出直し。”

 ということです。な? 大した記憶力じゃないだろ? 以後その程度のファンがお送りする俺の考えた俺のドラえもんはこんなんじゃない! これが俺の考える最強のドラえもんだ!!! が始まります。推敲もなんもしてないクソ読みにくいので最後まで読めた方がいらっしゃいましたらご愁傷様です。この段落は追記です。最初から書いておけって? チッうっせーな、反省してまーす!



前置き

 
 
 ああそう、今回ネタバレは満載ですので、これから視聴するつもりのひとは見ない方が良いです……と言いたいところですが、特に気にする必要はないと思います。百万回観た(誇大表現)エピソードのつなぎ合わせですので、ドラえもんが3Dでヌルヌル動くぞ! という点のみにパッと見の新規性みたいなのはあります。まあ、気にする人はわざわざこんなもの探して見たりはしないとおもいますけど。


 ていうか、そもそも俺は「ドラえもん」としてしかこの作品を観ていませんし観る気もないわけです。なので、上のまとめのブコメとか、ツイッターのタイムラインでちょこちょこ見えてくる情報「この監督の前の作品がどうこう」みたいな人達と、まったくもって興味の矛先が違います。正直なところ「あんたがたなに見に来てるの?」って思います。なに? 作品じゃなくてクリエイターが好きなの? なんかねえ、その入れたくもねえ情報眺めてるといいたいことはわからんでもないんですよ、でもこれはドラえもんであって、ヤマトとか三丁目の夕日とかとビタイチ関係ないでしょ。それらは実写映画でしょ? フル3Dアニメでもないわけでしょ? にもかかわらず観る前から観ない為の言い訳みたいなのをどいつもこいつもグダグダグダグダ言ってるのなんなのイミワカンナイ!(真姫ボイス)
 俺だってこのタイトルアホかって思うわけですよ、なーァにがスタンドバイミーじゃ、これを許せばそのうち「ジ・エンド・オブ・DoraemoooooN・エタニティブルー」みたいな究極悪魔合体遂げるに違いないわけですよ、アレやコレみたいに海を渡って短絡感情となんちゃってスペクタクルの大げさSF(サイエンスフィクション)のていのいい容れ物として消費されちまうんじゃないかって危惧するだに夜も眠れなくてデパスガリゴリ囓ることになるじゃないですか。どうしてくれるんですか。それはそれでちょっと観てみたいけど、そんなもの作った奴は一族郎党余さず片っ端から地球の重力からほっぺがして宇宙空間で沸血させても飽き足らない。そんくらいセンスないアホらしいタイトルで、この人他のタイトルにも、自分のオリジナルでなくともそんなのつけちゃうんだってところでふざけんなって思うのはよくわかります。そこはまあグッとこらえて、唇を噛みしめて血を流しながら次に進みたいわけですよ。どうやら今回提供されるのは、3Dで動く"ドラえもんとのび太とその世界"なわけですから。



"ドラ泣き"について

 しかしね、そんな鋼の意志(ノックバック無効)をもってしても、まずこの映画の最初にたちはだかるの「ドラ泣き しませんか?」って、初見で「ァアン!?」て下北のチンピラみたいな声を漏らさざるをえなかったキャッチコピー。なんなのこれ。この期に及んで、作品内だけじゃなくて観る前から感情押しつけてくるのは一体なんなんだよ! 泣くかどうかは作品が提供して観客の感情が決定することであって、広告が押しつけてくる選択肢じゃねえだろうがよ! お前のとこの客はもはや1から10まで「ここで泣いて!」ってカンペがでてねえと泣けないのかよ! そもそもドラえもんだぞ!? ドラえもんはよしんばそういう方法がまかり通ったとしても明らかに愚の骨頂だよ、わざとやってるんだとしたらとんだ炎上商法じゃねえか! あげくホームページに飛んだら連動企画のツイッターハッシュタグが「#子ども経験者」脳の血管が何本あっても足りない。なにその雑なターゲットは! つまりなんだ、この広告に気持ち悪さを感じる人間は今回の客じゃねえのか? ってなもんです。
 正直、このへん「きもちわるい」だけで終わらせたいんですよ、こんなねえ、5限目が体育の教室に忍び込んで目当ての弁当箱の隅をなめてきれいにする妖怪みたいな真似したくないんですよ。でも俺さいきん自己承認欲求に飢えているのでやります。なんできもちわるいのか、クソ気色悪いのか説明します。「ドラ泣き」ドラ焼きとかけているのかどうかはまあさておきですね「全米が泣いた」とはまず違いますよね。「全米が泣いた」は「アメリカで公開された時はみんな泣いてたよ、これは泣ける映画さ、ジャック! そのポップコーンがふやけないように気を付けな!」くらいの意味なわけじゃないですか。「ドラ泣き」だけならね、ドラえもんがどうも泣いているらしい、なにか悲しいことがあるのかしら。どうやらこれは、あのドラえもんとの別れを描いた「さようならドラえもん」を話の根幹に据えているらしいーー。まあそれだけならまだいいんですよ。このキャッチにはなぜか「しませんか?」ってついてる。これは観客に呼びかけちゃってますよね? 「ほらほら、みんな知ってるあのエピソードですよ~ドラえもん未来帰っちゃいますよ~悲しい~めっちゃ悲しい~でも帰ってくるんですよ~感動~マジ感動ですよね~?」って言われてるわけじゃないですか。フザけんなっておもうじゃん!? もう呉の提督も勢揃いで憤血して絶滅ですよ。このキャッチコピーに関してはOKした奴の枕の中身が毎晩無数の毒虫が詰まった袋になればいいとおもいます。俺のドラえもん史において、ゴールデンヘラクレスオオカブトとタメ張る重罪です。俺が仮に演劇を志す者であったならば、怒りと悲しみと諦念と怨恨がないまぜになったドス黒く重い感情を引き出すときに思いだす定番エピソードになるレベル。そんでさらに「#こども経験者」ほんとね、誰向けなのかわからない。まあつまりですよ、作ったひとの気持ちになりできるかぎりネアカのポジティブにとらえますとですよ、「これはドラえもん世界を最先端の3Dで表現してるけど、中身はみんながしってるドラえもんの感動系ストーリーで、ターゲットはそんなドラえもんのことをよくしっている、かつてよくしっていたところの、もう大人になっちゃったけど、子供のころに空想の中でドラえもんと一緒にあそんだみなさんのための映画です」ということなんですけど。これ、観たから言えることであって、そうでなければ伝わるのは「大人になってまでドラえもんを好きっぽい人達をカモにしてるけどその実中身はなんでもよくてただ涙腺を弛めることに快楽を覚える『感動した~ドラ泣き~』ってブログに書きたい口半開きのハクチ予備軍あちまれェ!」っていう人をこれでもかとバカにしたメッセージに他なりません。あ? 考えすぎ? 考えすぎない奴が大人になってまでドラえもんが好きなわけねえだろ!!! こちとら三十年ドラえもんしか友達がいない人生送ってんだ!!!! 何万回てんコミの6巻7巻読みかえしてボロボロになってると思ってんだ! いいか! これからもずうっと一緒に暮らすぞドラえもん!!!! かわいそうでけっこう、俺はぶっちゃけドラえもんが動いてるだけでこの上なく幸福なんだよ!!!!! ただし奇跡の島はお前はダメだ!!!!! ゴールデンヘラクレスオオカブトだァ――――――――――! いったいなんなのかわからないけれど!!!! 祈ると!!! ねがいを! きいてくれるぞ!!!! 死んでいたカブトムシが蘇った!!!! いみが1!! いみがわ!! わから!!! ギャ―――――――――――!



 取り乱しました。俺はいったい何と戦っているんだ。


売り方について

 あとは映画公開前のテレビのCM、芸能人がワサワサでてくるクイズ特番、そのクイズの内容も「かつてドラえもんにくわしかった『こどもけいけんしゃ』(ひらがなで表記したときのこの犯罪っぽさはなんだ、そのままにしておこう。)に対してまったくやさしくない、真摯ではないものでした。わけのわからないくらいイージーな問題か、最近アメリカに輸出されたときの変更点とか、あとは原作とアニメで同じシーンでも呼称が違うのにそこを念頭に入れていないようなていどひくい問題。つくりが『こどもけいけんしゃ』向けなのに、内容がそれを鑑みてない。もちろん現子供向けでもねえ。ぶっちゃけバカにされてる気分。まあ広告屋にはバカにされてるんでしょうが、バカにされてるのはかまわないけどそれを隠さないようなものをわざわざバカにされるために、教室の引き戸開けて黒板消しやバケツやタライを頭からカブるために見に行くほどマゾじゃないですよねみなさん。俺はマゾなので一番に観に行きましたが。マゾにだって矜恃はあるんですよ! こういう余計な情報のせいで観る前から疲れるし、正直観たくなかった。なんでもう、極限まで期待値を下げてから行きました。


 内容の話に移っていいですかね。


雑感


 ドラえもんが3Dでヌルヌル動く! あの日、白黒のてんとう虫コミックス、ブラウン管に映る金曜夜七時のぺったりもったりとしたテレビアニメ、そこからかつて我々が想像したドラえもんの居る世界、同じ空の下にあるかもしれない架空の練馬区、この時代の果てに長生きすれば届くかもしれない2112年――。
 それが、銀幕で踊ると思っていただいて差し支えありません。すべては丁寧に描写され、違和感のあるのび太のデザインも、クレイアニメっぽい小道具たちも、動く前は確かに不安の種ではありましたが、動いてみればそれはあざといくらいに鋭利な郷愁をふりかざす暴力的なまでにたしかな力となって振り下ろされてきます。実際、3Dで観るのをおすすめします。

 ”わさドラ”と呼ばれる新ドラ、もはや声優交替して来年で10年です。それでもまだ怪物大山のぶ代のボイスパワーに拘泥し「わさドラはパス」みたいに言うひとが居るのも事実です。『ウソつけ、あんたが大人になっちまっただけのくせに』と俺は思いますが口にも出します。あんたは仮に今のぶ代ドラであっても、もうドラえもんのことなんかわすれちまってるんだろうが――。そう悪態をつかずにはいられなわけです。
 ですが、それはさておいて、最初のわさびボイスは正直受け付けないキンキンボイスだったし、最近やっと慣れたとはいえ、どうしてもなにかに妥協しながら観ているような、そんな気がしてならんのです。それは他のキャスト(スネ夫だけは異様なまでにどの媒体においてもマッチしている印象があります)にも大なり小なり、そして、のぶ代ドラ末期においても同じような印象を抱いていました。
 今作を観ている途中、大人のび太(妻夫木聡)が喋ったときに(上手だと思います)気付いたんですが、日頃のアニメ、他の映画を観ているときよりも、声の違和感がないんです。もしかしたらこれテレビアニメわさドラの音響がヘッタクソなだけなのかもしれんのですが(毎回言いますけどテレビアニメのクソみたいな雰囲気ぶちこわしのゲロのようなBGMなんとかならないんですかね、最近頻度減った気がしますけど、特にあの愉快なエンディングっぽいときにかかる曲ほんと気に障る。ギャグにもならない)。ともかく画面と声が常にナチュラルに入って来る。旧ドラ末期からずっと感じていた、わざとらしさが薄い(無いわけじゃないです)。これが今作で一番評価されるべき点かなと思います。やっぱりねえ、3Dモデルってどうしても不気味の谷みたいなのを超えたり超えてなかったりするじゃないですか、それが今回格段に自然なのでそこはやっぱりすごいんですよ。
 ビジュアルについての小話、3DCGが自然なのはキャラクターだけではない、小物、まず道具、この道具の質感がすごい。ちゃんといちいち、実際にあったとき、どんな質感で存在しているかということを考えてデザインされている。プラスチックのようであったり、セラミックのようであったりするけれど、どれも一緒ではない。どこでもドアは木のようでいて木ではない。タイムマシンはおもちゃのようなパーツの組み合わせでありながら、(時空間の表現もスゲエんですが)未来っぽさと親しみやすさ、おそらく藤子Fが想像した道具を、2次元の白黒のマンガに落とし込んだものを3Dに忠実に再翻訳できているんじゃないかと「そうか、この道具はこんな質感だったんだなあ」と納得出来る感覚は、実際に見て欲しいと思います。まあもちろん個人差はあると思います。俺タケコプターの描写が正直しっくりこないんですよね、でも周囲ではタケコプターのシーンは高評価のようですけども。道具以外も、マンガ的な表現を3DCGで気持ちわるくなく表現していて、没入感高い。また、世界観全体が、「こどもけいけんしゃ」向けであるが故に、昭和っぽい、その「こどもけいけんしゃ」が子供だったころ、「ドラえもん」がそばに居た頃の景色を意識して描かれています。原作テイストでありながら、現代日本に即して世界を描いている現アニメとは情景がすこしばかり違います。のび太の部屋は、現ドラリメイク映画の際ののび太のすこし汚らしくみすぼらしさのある部屋(現ドラ新作映画のときは、広い)よりもさらに寂寥が漂っており、本棚は埋まっておらず、机は小さく、ドラえもんがのび太と枕を並べるには少しばかり狭いような、だから押し入れの中で眠るのだなと納得出来るような描写。そのいちいちが、そこにいるのび太がかつての自分の分身だったような懐かしい――いや、どちらかというと苦しいんですよね、のび太はイベントと環境に恵まれたリア充ですからね――気持ちになります。まあのび太と自分は別物だしなあと見ますけど、ところどころにでてくる小物がまたあざとくできてて良い。たぶん色々そういう気分を想起させるアイテムをちりばめてあるし、そんなに探してはいないんですが、たとえば、のび太が床に置いてある本の中にあやとりのひみつって本があるんですよね、学研のひみつシリーズのパロディ、その背表紙が、赤い、キラキラした地の中に白文字なんですよ1970~1990くらいのインドア小学生はこの本に思い入れがあるはず。今あるのは白地に赤文字なんですね。まあこんなんどれだけ言葉を尽しても陳腐なんでいいから見てよといった風情。

 今回のこうした「古い」ドラえもん世界の描写、ものすごいクリティカルであるがゆえに、既存のドラえもん大長編にあった「今ある世界の延長、ぼくにもドラえもんがいたらこんな冒険できたかもしれない」という地続きのSF(すこしふしぎ)感が消失しているんですよね。ここは無意識のうちにひっかかるひとが居る気がする。今回のドラえもんは21世紀の技術で描かれた、21世紀が記憶をかき集めた20世紀とその思い描いた未来、であるがゆえに21世紀の現在において空想として固定されてしまった。どーしたってこれは現実と地続きではないんです。これはけっして貶しているのではなく、考証がたりないわけでもなく、設定が甘いわけでもなく、この描き方をすると決めた以上、こうなっちまうんだろうなあ。といった感触。気にならない人はならないと思います。

 キャラクター、のび太の造型がやっぱり気に障る感じはあるんですが、それでも動いてみれば特に気にはなりませんでした。しずかちゃんはかわいいし、ジャイアンはガキ大将だし、スネ夫はウザいし、出木杉はスーパーマンだし、ドラえもんはまごうことなくドラえもんです。のび助はちょっと違和感あったかな。さっきも言ったけど、声とキャラクターの演技が、もしかしたらアニメよりもすんなり合致していたような印象を持ったのが自分でも不思議。わたしが不思議。

 動きのあるところ、まあもっぱらタケコプターで空を飛ぶシーンで、ちょっとした動きの激しいところを描いてるシーンがとってつけたようにいくつかあるんですな。これは物語全体が、冒険調ではないのでそこまで激しい部分がないからなんですが、評判良い部分でもあるんですけど、個人的にはちょっと過剰。「んー、すごい動くんだね、あーそんなに動けちゃうんだね、すごいすごい」みたいな。スネ夫の自慢話聞かされてる気分になるんですよね。すごいのはわかるんだけど、ひけらかされてるような気分になる。


構成などについて

 今作の全体的なツクリとしては、全部せつめいしちゃうとあくまでのび太の話として成り立っていて(ここを違えなかったのも評価できるポイントです)ドラえもんがセワシとともにやってきて、未来の道具でのび太の問題を解決しつつ、のび太は成長し、しずかちゃんへの恋心を抱くとともに自分の未来を変えて幸福になるという目的を見定め、未来を書き換え、定義した幸福目的を達成すると共に、目的を達したドラえもんが未来に帰ることとなり、ご存じ別離と再会のクライマックスがあって終わり。
 という物語のツクリとしては簡単明瞭。1000だかあるようなドラえもんの短編の中でも有名なみんなが知ってるエピソードを一本の線になるようにオリジナル解釈を加えながら切り貼りしている。今作ならではのアレンジは加わってますがその殆どすべてはわかりやすくまとまっています。子供の頃、ドラえもんの単行本読んでて、のび太の成長や、ドラえもんの態度とかを頼りに「このエピソードは、どちらが先なんだろう」と考えてみたことがあるでしょう。それはきっと、こんな感じだろうなという自然さがあります。
 しずかちゃんとの関係性を深めるために「ムシスカン」と「刷り込みタマゴ」を持ってくるあたり、特に刷り込みタマゴを序盤に持ってきて、それまで道具をドンドコ持ち出してただ状況に対処していたドラが、そこで出来杉の人間的な魅力にやられたあと、のび太に「ちゃんときみが人間として成長しないとダメ」といいつつ、自分もめくらめっぽうに道具をだしていてはダメなのだなと成長するように(あ、いやそんな描写はないのだが、くみ取れるので)段階を踏んで描かれていくのが本当に良い。出木杉がなあ、現ドラだとなんか「出木杉」ではなくなんかちょっと頭の良いけどイヤなやつみたいに描かれてることがたまにあって「そうじゃねえんだ、それではのび太の超えるべき壁としてなりたたねえんだ!」と歯がゆい思いをしておったのですが、今作わりと完璧に出木杉でしたのでいうことないです。
 クライマックスは正直「泣くか?」と言われると「もうさんざん泣いたからなあ」という感じではあるんですよね。泣いたとしてもそりゃ、ドラえもんが傷付きつつも自分でジャイアンに立ち向かった充足とともに安らかに眠っている(死んでない)のび太をあたたかく見守りながら、消えていく(未来に帰る)シーンとかそりゃ悲しいに決まってますしね。でもこれ、ノスタルジーとかなしに泣くの難しいし、今巷に溢れる物語に物語の構造で対決するにはちょっとパンチよわいんじゃないのって思うし、やっぱり「ドラ泣きしませんか?」ってピントのズレたコピーにしか思えないんだよな。


とりあえずまとめ

 ここまでのうわべをまとめると
「なんかコピーとか売り方みて正直わかってない奴がつくってるんじゃないかと不安になったけど、ちゃんとドラえもんだし、ちゃんと動いてるし、かわいいし、そんなに余計なことしてないし、意外とよかった! 俺はお前のことすべて認めたわけじゃないけど、充分満足しているぜ! お前は、ドラえもんだ!」
 ということになります。

 





三十路の俺がかんがえたさいきょうのドラえもん妄想


 で、ここからお楽しみの蛇足です。弁当箱の隅を鼻毛でつつきまわすがごとしみみっちい所業です。正直俺、他人がこういうの書いてても見る気しないです。読んでくれる人ありがたいですけど、他にすることないんですかね。
 細かい部分はともかく、今回の話にする上で、オリジナルで足されたクリティカルな設定というか要素があります。

 あと、前提として「ドラえもんの中でタイムパラドクスはある程度以上深く考えるのはナンセンス」ということでお願いします。ある程度というのは「タイムパトロールが出てきちゃうのにドラえもんにおとがめがないのはなんでや!? 陰謀か!?」くらいのアレです。「鉄人兵団を歴史から消したのになんでリルルたちの記憶をのび太は残してるンや! おかしいやないか!」とかそういうアレ。お遊びだと思って気軽に楽しんで欲しい。でも俺は本気だ。

 まず
「セワシが、自分の境遇を改善するために、自分の先祖であるのび太の未来、ひいては結婚相手を変えるための手段としてドラえもんを送り込む為、22世紀の未来からやってくる」最初の登場シーンで、ドラえもんはのび太の人となりを見て、こんなの変えられるはずないよ無理だよといやがります。これはまあわかりますよね、原作では最初から乗り気でしたが、最初はそんなことはなくて、セワシの自己中な思いつきにふりまわされているわけです。
 で、そこでセワシがとる手段これが問題「ドラえもんの鼻に設定されている、行動強制システム(名前忘れた)――のび太を幸福にするまで、未来に帰って来られない(目的を達成したら帰らなければならない)――」を作動させます。
 ものすごくわかりやすく、物語構成上理にかなった仕掛けです。正直、すごくわかりやすい。
 これひとつで
「乗り気でないドラえもんがのび太の幸福実現の為に努力しなければならなくなり」
「やがて乗り気になってきたドラえもんはのび太の幸福を自分の幸福と共有できるようになり」
「ドラえもんとのび太の間に絆が産まれ」るが
「のび太が幸福になることは即ち、ドラえもんはその時点で、未来にかえらなければならない」ジレンマが発生する
 原作ではぼかされていたところの「急に未来に帰らなければならなくなった」を曖昧にせず、意味をもたせることができるようになるわけです。
 で、これ目的に反する行動を取る(のび太の幸福が達成されているのに、「帰りたくない」とドラえもんが呟く)とそれに対してシオキが発生するんでがこれがちょっとビジュアル的にエグい。ブリキのラビリンスの電撃レベルのかわいそうさです。
 で、さいしょのセワシの言動から察するに、セワシはこの強制装置をドラえもんに使ったことがあるようなんですよね。ドラえもんいやがってるから。
 ここで、ものすごい基本的な疑問というか、怒りが湧くわけですよ。
 (設定が変わってなければ)セワシが乳飲み子の時から一緒に居る子守ロボのドラえもんに対して、まるでドレイに鞭をふるいいうことを聞かせるような手段がロボットに対して存在して良いのか? よしんば存在したとして(まあ、存在はほかのドラの未来道具もいかんせん近視眼暴力的なものが多いのでわかることはわかる)セワシがドラえもんに、使うかそれを? クールっぽいキャラではあるものの、たまにタイムテレビで様子を見ているところを見たり世話をしているところを鑑みるに(時間軸や未来の倫理観はわかりませんが)そこまでクズではないんではないかと。
 という怒り。もとからあるならともかく、そんな設定後付けででてくるの許していいものかと、お前なドラえもんはドレイじゃねえんだぞ。未来のロボットの権利はどうなってるんだ、神ヨ、ノビタヲスクイタマエ!(ロビタ画像)という怒りにおもわずスクリーンをブチ破りそうになりましたが、グッとこらえていきます。良い方に考えて行きたいと思います。
 まずは「物語上しょうがないので、深く考えない」
 大人です。すごい大人です。そもそもドラえもんは矛盾だらけの物語ですし、短編を繋ぎ合わせた今作の楔として仕方のない齟齬ではないでしょうか。わかる。わかるが納得出来ない。
 次案「セワシはこの時点ではクズ」
 やっぱりクズです説。ドラえもんが来なかったせいで、自分で会社を建てたりなぜかジャイ子と結婚したりする主体性とか目的とかなさそうなのび太と芸術性をどうやら開花させられずブクブクと肥大化したジャイ子(アルバム的に子だくさんなのも想像するとだいぶ恐ろしいですね)の子孫ですから、我々がそれ以後の短編でみているセワシよりも格段に暴力的なクズであった可能性があります。そもそも自分の利益の為に歴史を5代前から変えようとするあたり筋金入りのクズの発想です。なんでもとから人間の感情を解さないクール野郎の雰囲気はありましたが。歴史が変わった後に若干更正した可能性があります。というのも、今作において、あの有名な「行く方法の乗り物は違っても、最終的には大阪に着ける」説は出てきません。それもあり、まあ、野比家が少し裕福になれば、ロボットを暴力で言うことをきかせるような貧しい精神性の子供ではなくなるのかもしれません。クソッ結局カネか! 生まれなのか! なんて残酷な物語なんだ! ただまあセワシがクズな方が、正直都合がいいんですよね。何故って、たとえ20世紀にやってきたドラえもんがどれだけのび太との絆を深めようとも、普通に考えれば「産まれてそれまでずっと一緒にいたセワシ」の方を選ぶような気がするんです。ドラえもんがのび太とウマがあうのか、セワシのことをよほど嫌いなのか。セワシとドラはもしかしたら友人としての関係を築けなかったのかもしれない。

 次の重要変更ポイントいきます。
 子供のび太が、近未来雪山でひとり仲間からはぐれて遭難したおとなしずかを、タイムふろしきで大人になって助けにいくあの話。途中まで原作通りなんですが、吹雪から隠れるための岩穴の中でしずかの具合がわるくなってしまうし、ドラえもんは助けにこないし、そこまでさんざん自分の無力を自覚させられたのび太がどうにかしなければならない状況においやられる。
 そこでのび太は、しずかのコンパスの位置情報を意識して「記憶」します。それによって同時代にいる大人のび太が「おとなしずかと子供のび太が遭難している位置」を突然「思い出し」助けにくる。という。正直よく考えると明らかに辻褄が合わないが、いままでのドラえもん時空だとよくあるタイプの我田引水タイムパラドクスにより解決する。
 賛否両論ありそうな気がしますけど、俺はこれすごく良いと思うんですよね。これを許しちゃうと「なんだお前の判断基準は結局過去原点にそれっぽいものがあったかどうか、判例主義みたいなもんじゃねえか」みたいに思われる気がするんですが、正直そうだと思います。俺はともかくこの改変は「ドラえもんっぽい!」とおもったので、アリです!

 で、このタイムパラドクスで解決する。というのが今作においてのテーマでもあります。のび太の運命も、しずかの運命も、上の2点によって解決されました。雪山イベントによって、しずかとの結婚フラグを確定させ「幸福」になったのび太は、同時に「ドラえもんが未来に帰らなければならない」フラグを満たし、ご存じ「さようなら、ドラえもん」パートにスムーズに移行するわけです。このへんの話の流れがねえすごいなめらかで良いんです。でドラえもん帰っちゃうわけですよ、たまらず声が出ます。USO800の容れ物のレトロ感がたまらない感じでさらに声が出ます。このあたりで後ろの席に蹴られる。(ところで、魔界大冒険の「もしもボックスで作られたパラレルワールドはもとに戻しても、それぞれで続いていく」のアレは、とりあえずもしもボックスは歴史を改変しているのではなく予め存在しているパラレルワールドに接続するパターンと、実験としてそういう定義でつくられた世界を一次的に構築するパターンとがあるとおもうんですよね。いやまあ、今回のには関係ないんですけど、なんか今これはどうなんと思った方がいるような気がするので。ともかく、もしもボックスはバカの一つ覚えで言われるような万能道具じゃねえとおもうんですよね。俺は)

 USO800も運命書き換えツールとしてこの際扱われるわけですな、のび太のいる過去において使われたUSO800の効果でドラえもんにかかった強制力がキャンセルされ、新しくUSO800の強制力によって戻ってくる。
 ドラえもんがここで戻ってこようとする意志までもがUSO800の影響によるものだったら興醒めすぎてどうしようとか思わないでもないですが、その説はちょっと忘れましょう。ともかく、USO800による書き換えは、かなりの強制力があるとわかります。そこでせっかくなので、俺は我田引水タイムパラドックスで最大限の妄想を働かせたいと思います。

 前述の雪山イベントの終了時、大人のび太は子供のび太に別れ際こう言います「ドラえもんといる時間を、大切にしろよ」そうですね、ドラえもんは大人ののび太がいる作品において、姿を現したことはないはずです。だから、ぼくらは自然と、言外に、のび太が大人になる過程のどこかで、ドラえもんはやがて未来に帰ってしまうのだと確信していたはずです。今作でも、ちゃんとそれはこのセリフによってあらわされたように見えます。

 しかし。

 ドラえもんが最初に未来に帰る(USO800による強制力が働く)タイミング、このイベントより(のび太個人時間軸では)後、なんですよね。そして、セワシとドラが最初にきた事によって、今作においては「どの方法を取っても結果として同じような未来にたどりつく」という明言はされていない。タイムパラドクスの絡む改変が決定的に運命を変えることが描写される今作時空において、大人のび太の「ドラえもんといる時間を大切にしろよ」という、フラグセリフは、それが示唆するやがての永遠の別離の運命を、「USO800による異常な強制力」で上書きされていることを示しているんじゃないか??
 
 それ以降の事が描かれていないだけで、いや、ずっとわかっていたことかもしれないけれど、いままで原作で、アニメで、描かれてた未来において、大人ののび太のそばにドラえもんがいなかったのは、まだUSO800を使う前の物語だったからで、
 
 ただ、どこにも描かれていないだけで。





 ――ドラえもんは、ずうっとのび太と一緒に暮らしたのではないか?
 ――この、

 ――21世紀のどこか、どこかの空の下で




 "STAND BY ME"


















最悪の結末について

 最後にこれもってくるのちょっとなんなのですが、この映画の最悪の点が、最後に巧妙に隠れており、この作品のすべての余韻を全部が全部ブチ壊していったのです。全部終わってスタッフロール。そこで、画像があるわけですよ、のび太くんがカチンコもってメイキング画像よろしく「TAKE2」とかなんとか書いてある、そこに初登場したドラえもんが、机に足をひっかけてころぶような、まあ言わばNG集。

 ――NG集?
 
 目を見開いた。
 
 刷り込みタマゴと一緒に回転するスネ夫、ストレートホールにひっかかる出木杉、カメラに映り込むジャイアン、その映像は確かに楽しい。しかし、ぜったいにドラえもんのこの作品ではやってはならなかった。いかに技術が優れていて、それによって作れるものの可能性を示唆したかったのだとしてもだ。出来の善し悪しではない。ドラえもんのキャラクターは、例えば手塚治虫のようにスタアシステムの「役者」なんかではない、唯一無二だ。ドラえもんはドラえもんで、のび太はのび太なのだ。いま目の前で行われている所業は、実際アウトだ。結婚式で流すための、共通の親友であるドラえもんの動画を流すためにわざわざ過去に飛んだのか? そうであるなら、さっきの推理はナシだ、ドラえもんはのび太の成長途中で消えている。今見せられた映像は、大人ののび太か、それに頼まれた子供ののび太かはわからないが、それによって撮影された二次的な、のび太たちによって都合良く「脚色」されたものです。この作品はツクリモノですと、スタッフロールでキャラクターたちに言わせてしまった。わざわざ「いまのは夢だったんだよ、のび太くん」と最後の最後に告白しにやって来た。あまりにもとんだお節介であり、ろくでもない無意識のエクスキューズかもしれなくて、これこそ蛇足の真骨頂を百科事典に載せる為に用意した最高のサンプルに間違いなかった。ほんとに、画像自体はとても楽しくよくできているのがより地獄だった。スタッフロール中ずっと俺は、この映画始まって以来、初めての涙を流していた。
 そして最後に、いつものメンバーがのび太の部屋でくすだまを割る。それさえなければ、どうにでもいいわけはきいたものを。






「さつえいおわり」






 ダメだった。
 まったくもってなにも、なあんにもわかっちゃいなかった。







 やっぱりいないのだ。
 どこにもいなかったんだ。





 この空の下のどこにも、彼らはいない。






 わかってるよ、そんなこと。
 わかってるんだよ、ドラえもん。