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プロフィール
げん
げん
山形県鶴岡市生まれ。
札幌、東京と移り住み、放浪の旅をへて
東北回帰~ 奥羽越(えみしの国)を拠点
に危なっかしくも面白く生きます。

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Posted by んだ!ブログ運営事務局 at

2015年05月15日

「ベロ相占い」改変の衝撃! 笑


今回は、作家という人間の、生き方についての
考察である・・・なんちゃって

いや、冗談ではない。

藤子不二雄 の一人 藤本弘先生が『ドラえもん』
で残した数多くのエピソードの中で、作家の生き様、
について触れた一話がある。
それが「ベロ相占いで大当たり!」だ。



主人公・のび太が人の舌を見て、その人の未来
を占う、と言う。ところが実態は、ドラえもんのタイ
ムマシンで少しだけ未来へ跳び、占う対象者の
未来の様子を見てくる、という単純なカラクリ。
しかし、この占いがことごとく当たる様子を目の当
たりにしたのが、近所に住む作家志望の青年・
元高角三(げんこう かくぞう 笑)。のび太の前に
いきなり己が舌をさらして、
「僕は作家になれるだろうか、占ってくれ、さあ!」
と必死に懇願。彼の生活は極貧、平屋建の家は
廃屋同然、悲痛な将来を恐れ、迷走していた。
仕方なくタイムマシンで数年後の未来へ跳んだ
のび太とドラえもん。そこに見たのは、依然作家
としての芽が出ず、極貧生活を続ける元高の姿
であった。元の時代に戻り、
「あなたは作家にはなれません」
と辛い‘占い結果’を伝えると、元高は泣きつつも
「作家なんて夢みたいな事忘れて、商売でも始め
て大儲けしてやろうかな、ははは」
と哀しい高笑いをする。のび太、これを聞いて
「商売を始めるなら、彼の未来は変わってるかも」
と思い、再び未来へ・・・ところが!
家は更にボロボロ、元高はヨレヨレの極貧中年に。
「一体、どうして?」
問い詰めるのび太とドラえもんに、元高は答える。
「小説は書き続けてるよ。アルバイトしながらね。
僕にはやっぱり小説しかないとわかったんだ。
最近、やっと自分で納得のいくものが書けるように
なってきた。たとえ世の誰一人認めてくれなくても、
僕は自分の小説が優れている事を知っている。」
そして、クライマックス。突然、元高のもとへマスコミ
関係者の群れがなだれ込んでくる。
「文学賞受賞されましたが、一言お願いします!」

これは非常に古くからある、生活苦を乗り越えて
作家や芸術家を目指す人間の典型的なイメージ
であり、苦しい下積みの後漫画家として成功した
作者の人生観の投影でもある、と思われる。
わたしが若い時分、目指したのは小説家ではなか
ったが、このエピソードは子供の頃初めて読んで
からこのかた忘れられない強烈なものであった。

ところが、最近新しい『ドラえもん』のアニメバージョ
ンで、若干この話に変更が加えられたらしい、とい
う事を知った。
なんでも、未来の元高が貧乏なままで
「一体どうして?」
と問い詰められるところまでは同じなのだが、
その先が問題だった。元高答えるに

「今でも書き続けてるよ。週5日、弁当屋で
アルバイトしながらね。僕は考えてみると、
社会に出て額に汗して働いた事がなかった
んだ。働いてみると、自分の書く小説の内容
に深みが出てきて、納得のいくものになって
きたんだ。」

・・・・・うーん・・・・・なんか、微妙に違うな。

もしかしたら、「そんなに違いはないじゃない」
と思う人もいるかも知れない。それは、作家や
芸術家を目指す、という感覚に世代や個人で
大きくズレがあり、決して共有できていない事
を意味しているのではないか、とも思える。

まず、このアニメ版には、現代の流行的という
か、悪くいうと社会迎合的な感覚が入り込んで
いる。すなわち、

作家・芸術家志望 = ニートorフリーター

という、図式である。

元高は、元の設定では貧乏な作家志望では
あるが、他の仕事はした事がない、などとは
どこにも書かれていない。そもそも、親元に
パラサイトしている訳でもないのだから、もと
から何らかのアルバイトはしていたものと判断
するのが妥当だろう。そうでなければ、家が
ボロボロの「極貧生活」すら成り立たないの
だから。のび太らに問い詰められた時の
「書き続けてるよ。アルバイトしながらね」
というのは、今まではしていなかったが、よう
やく始めた という意味では決してなかった
ように思う。

更に言えば、「週5日」おそらくフルタイムで
働いている、という事だろうが、それならば
生活が極貧なままであるはずがない。
この改変には、現代のアレンジ作家の、極めて
世知辛いメッセージが込められてしまっている。
「作家とか、夢みたいな事言ってるぐらいなら、
マトモに働け」
つまり、まず生活の安定を確保してから、片手
間で小説でも何でも書け、という事である。
これは、世の所謂 常識人が誰でも考える事だ。
しかし、これだと原作のメッセージとは全く矛盾
してしまうのである。

元高がアルバイトしていても貧しいままなのは、
その働き方が、フルタイムではない事を意味
している。つまり、他の仕事は最低限度にして、
あくまで小説を書く事を優先するという事だ。
昔からこうして必然的に文学・芸術を目指す者
は貧乏に直面し、その苦境から救ってくれる
労働ともどこかで折り合いをつけながら、いかに
情熱を維持するかと奮闘してきた。ところが現代
「フリーター」なる概念が世を席巻し、こうした者
らは「叶いもしない夢にかまけて怠けている輩」
というエニグマ、もといスティグマ 爆 負の烙印
を押される事になってしまったのである。

もうひとつ付け加えるなら、
「働いてみると、自分の書く内容に深みが出て」
という行、確かにこれは否定しない。社会参加
しない者が書いた本など、どうもおぼつかない
からだ。とにかく、社会に接して得た経験や考察
の多くがネタになる可能性は高いと言える。

しかしはっきり言って、昔は当然の話でわざわざ
書く程の事でもなかった。だからこそ、藤本先生は
書かなかったのだ。

つまり、昔はニートという概念がなく、大抵の人は
何らかの社会との接点を持ち、何らかの仕事の経
験を持っていた。現代、仕事というと自営業などを
除けば、履歴書を書いて企業に雇用されるもの、
という固定観念があり、そこから漏れる者をニート
と呼ぶようになった。
しかし江戸期の昔から昭和初期までは企業での
雇用が決して当たり前だった訳ではない。
今で言う、フリーターのように、季節労働や一日工
事の手伝いなど、流動的な仕事をしている者が多
かったのだ。

畢竟、作家志望などの者は必然的にそのような流
動的な働き方の方が適している場合が多い訳で、
つまりは決して全く働かない者という訳ではなかっ
たし、むしろ全く働かないで生きる事など最初から
不可能であった・・当然の事だ。
「ベロ相占い」はそのような世相感覚を前提にして
描かれている。ところが80年代を過ぎた現代では、
働く = 企業に雇われる という事が常識になる。
つまり、働くという事が即ち、フルタイムと半ば同義
語になるので、作家志望などという者は、新たに
フリーターなる概念に押し込められる訳である。

確かに本来当然であるところの、作家志望にとって
の尊い労働なのだが、労働形態が大きくフルタイム
かパートタイマーかの極端な選択肢に押し込められ
た現代はこの「常識」が実のところクセモノである。
結局、あまり働く事にあくせくすると、肝腎の小説が
書けなくなったりする。20代のわたし自身がまさに
そうで、本末転倒、内容に深みどころか、ネタもクソ
もなくなってしまった。意志の弱い個人のケースだが、
目指す創作を続けられるよう、各人が自分に合った
やり方を見極め、選ぶしかないという事だ。

作家という人間には、いろいろな生き方の選択が
ある。一生生活を安定させる仕事を持ちながら地
道に書いていきたい、と考える人もあれば どこか
で筆一本で生きる覚悟をしなければならない、と
考える人もいる。現代は真にレッテル貼りが盛ん
で、前者は真っ当で社会的にも信用されるが、
後者はクレイジーで、アナーキーで、結局作家とし
て成功しない限り、ニートかフリーターとしか呼び
様がない存在になってしまう。
(藤沢周平さんの時代は、会社員しながら休日に
小説を書く、事すらケシカラン不心得者だったらしい)

『ドラえもん』が描かれた時代、漫画はまだまだ
西部開拓のように野性的で、クレイジーで、アナー
キーな分野だった。何より、描く作家自身が、死と
直面するような貧しさの中から這い上がってきた
者たちだった。しかし遺された名作を引き継いだ
現代の作家たちは、本当に先人の意思を継いで
いると胸を張れるだろうか?
作家の作品に接するのならば、もう一度私たちは、
その作家の生き様に、迫らなければなるまい。



なんちゃって  爆

まあ、とにかく 書き続けるのみ ですわな。

(長い っつの!!)


  


Posted by げん at 17:18Comments(2)えみし気になる世界