【あらすじ 】 主人公・田淵公平、通称「ぶっさん」(岡田准一)は、20歳の無職青年。床屋を営む父親を手伝いながら、高校野球部時代の仲間たちと、草野球と酒盛りに明け暮れる日々を送っていた。 そして、そんな「ぶっさん」は今、家族や仲間たちに見送られながら最期のときを迎えようとしていた――。そう、これは若くしてガンに倒れた「ぶっさん」の最期の三ヶ月の物語である……、という設定ではじまったこのドラマは3ヶ月前にさかのぼる。 ぶっさん、バンビ(櫻井翔)、マスター(佐藤隆太)、アニ(塚本高史.)、うっちー(岡田義徳)の元野球部五人組は、ある日思いつきで所属する草野球チームの監督・猫田(阿部サダヲ)のキャデラックを盗もうと計画。怪盗団『木更津キャッツアイ』を結成する。キャデラックを探して、母校に忍び込んだ5人は、悪戦苦闘の結果キャデラックを入手。勝利の美酒に酔う中、ぶっさんはふと告白する。 「オレ、ガンなんだ――」。 (市民) 【解説】 宮藤官九郎の脚本には作品内ルールがあり、その説明に使われるのがこの一回だ。 『木更津キャッツアイ』には二つのストーリーラインがある。 一つはぶっさんが癌で余命半年という難病モノの部分と、もう一つはキャッツアイの面々が本人たちの意思とは無関係に人助けをしてしまうという部分だ。 過剰な会話のやりとりや巻き戻しなどの演出の複雑さのせいで、見逃してしまいがちだが、この二点を追っていれば作品の意図は概ねわかるようになっている。 ただ、この一回は、まだ導入部のためにストーリーラインや作品内のルールが見え難く、後のクドカン作品と較べてもぎこちなく思える。 そのため今時の若い子のおしゃべりを延々と見せる内容のないドラマと思ってしまい、最初の数分でリタイアしてしまう人も多かったのではないだろうか? だから放送当時、人に勧める時は「二回まで我慢してくれ! そしたら面白くなるから」とよく言っていた。そして自分で見ていても一回ではそこまで手ごたえを感じなかった。 ただ今見返して気づくのは、ぶっさん演じる岡田准一君は最初の段階から余命半年ということをみんなに言えずに、はしゃいでいるキャラとして主役のぶっさんを演じてる。 ぶっさんが死ぬことがわかるのはエピソードが一段落して、最後にキャッツのメンバーが飲んでいるシーンなのだが、そのやりとりを見た後に一話を見ると彼等の空騒ぎがいっそう切ないものに見えてくる。 この「死を背景にした空騒ぎの切なさ」がこのドラマの根底に絶えず流れることとなる。 (成馬) 【今回のチェックポイント】 ■「表」と「裏」――巻き戻しと繰り返し 本作の構成上の最大の特徴は、無論「巻き戻し」である。本作では物語がある程度まで進むと(表)、場面が巻き戻されて「実はこのとき別の場所でこんなことが起こっていた」という種明かしが描かれる(裏)。概ね、他のキャッツのメンバーが悪戦苦闘している間に、うっちーが意図せぬ大活躍で事件を(結果的に)解決しているさまが描かれるのだが、この「巻き戻し」は実はシナリオ学校等で教えられる「脚本術」において最大のタブーのひとつである。 たしかにこの手法を濫用すると、同じような場面を繰り返すことで視聴者を混乱させてしまうし、話の筋も強引になりがちだ。しかし、クドカンは会話のノリと、多少の強引かつ漫画的な展開は「折り込み済み」とかなり早い段階で視聴者に了解させてしまうことで、この難関を軽々とクリアしてしまっている。(市民) ■「死」というテーマ ――「終わりなき日常」の終わり 「俺、ガンなんだ――」第1話のラスト、ぶっさんはキャッツの仲間たちに告白する。 そう、そこで描かれている空間がどんなに楽しいものでも、その語り口がどんなにふざけていても、この物語のテーマは「死」であり、終着点は紛れもなく「ぶっさんの死亡」である。 90年代「終わりなき日常」(宮台真司)や、「平坦な戦場」(岡崎京子、元ネタは別にあるけど)というフレーズが流行った。モノは溢れていても物語のない退屈な現実。歴史や社会が「生きる意味」や「ロマン」を備給してくれないつまらない世界――、僕たちはそんな貧しい世界に生きていて、変わりばえのしない、退屈な日常を生かされているのだ――そんな厭世的な叫びが、「カッコイイ」ものとして消費されていた。 しかし「終わりなき日常」「平坦な戦場」なんて、本当に存在するのだろうか? この木更津という田舎町で繰り広げられるバカ騒ぎは、一見、永遠に反復されていくかのように思える。しかしこの物語は、第1話からそれは「あり得ない」ことだと拒否する。主人公であるぶっさんの余命は僅か半年。彼は確実に死に、その日常は「終わる」のだ。そしてそれは、何もぶっさんだけのことではない。 そう、人間はいつか確実に死ぬ。時間は絶対的に流れて、過ぎ去った日々は二度と戻ってこない。 僕は当時流行った「終わりなき日常」「平坦な戦場」という認識は、たぶん現実逃避のための共同幻想だったのだと思う。 たぶん、彼等は「終わりなき日常」という共同幻想に逃げ込むことで、「死」(絶対的な時間の流れ、今・ここの入れ替え不可能性)から目をそらしたかったのだ。 「終わりなき(ゆえに絶望的な)日常」なんてものは存在しない。あるのは「終わりのある(ゆえに可能性にあふれた)日常」だけだ。90年代は「終わりなき(ゆえに絶望的な)日常」という共同幻想に逃げ込むことで、自分の人生がつまならい人間たちが、その責任を世界に転嫁していたのだ。 だが、「終わりのある日常」を直視し、ポジティブに受け止めるぶっさんは違う。彼は若くして死ぬ運命にあるが、だからといって急に何かを始めたりはしない。あくまで、それまでと同じようにこの「終わりのある(ゆえに可能性に溢れた)日常」を満喫していくのだ。(市民) ■「ファスト風土化」せざる木更津 「ファスト風土」それは、評論家の三浦展が2004年に上梓したベストセラー新書『ファスト風土化する日本』で用いた造語である。80年代からじわじわと進み、そして小泉政権下の規制緩和の動きで決定的になった地方への大型店舗の進出。それは、地元商店街に象徴される地域コミュニティと消費文化を、経済的・文化的に破壊した。そして全国どこへ行っても一様に「ジャスコとマクドナルドとツタヤとユニクロとブックオフがある」画一的な風景が存在するようになった……。この「郊外化」=「ファスト風土化」が進行した社会では、「その地域ならではのオリジナルの文化」や「血の通った温かみのある(流動性の低い)強固な共同体」が衰退して、文化的・社会的な貧しさを生む……。三浦は同書で種本であるリッツアの「マクドナルド化する社会」に従い、「郊外化」=「ファスト風土化」を痛烈に批判した。 では、我等が「木更津」はどうだろうか? このドラマで描かれる木更津という街は、一見「昔ながらの商店街」が奇跡的に保存されている空間のように見える。主役格のぶっさん、バンビ、アニはいずれも商店主の息子であり、親同士のご近所づきあいも盛んだ。この作品の豊かさのひとつは、間違いなくこういった「ファスト風土化に負けない<匂いのある街>」に拠っている。 だが、その一方でこの木更津という街は三浦のような反ファスト風土論者が賞賛する「地域の伝統文化」や「地域のオリジナル文化というものにほとんど依存していない。強いて挙げるならばそれは「やっさいもっさい」くらいだろう。更に言うと、現実の木更津市は地区によってはかなり早い段階でファスト風土化が進行した街ですらある。クドカン本人が「第三話まで木更津が海に近いことを知らなかった」と述べていることからも明らかなように、この物語で描かれている「木更津」はせいぜい「東京ではないどこかの街」くらいの意味でしかないのだ。「木更津キャッツアイ」というタイトルであるにも関わらず、この物語は「木更津」という街のオリジナリティにまったく依拠していないのだ。 (市民) ■サブカルチャーの力 代わりにぶっさんたちがその日常を豊かなものとして使用する文化(ツール)は、ざっくり言ってしまえば80年代~90年代のサブ・カルチャー、とりわけ俗に「ヤンキー文化圏」の諸文化である。哀川翔、加藤鷹、氣志團(きしだん)、『タッチ』、『ドカベン』などの野球漫画……。どれを取っても「木更津」という街ならではの文化ではなく、日本全国どこへ行っても手に入る、むしろ「ジャンク」で「ファスト風土的な」ものばかりだ。 おそらく、この作品の圧倒的な強度の秘密はここにある。 三浦に代表されるアンチ・グローバリズム論者の理論に従うと「歴史」や「伝統」を失いファスト風土化した場所に豊かな文化や、濃密な地域共同体は育たない。 だが、本作における「木更津」という街は、「歴史」や「伝統」から切断されていながらも、サブ・カルチャーの力を借りて濃密な空間を成立させている。 「ファスト風土化」した社会を濃密に生きる方法、それはアンチ・グローバリズムの立場に立って、カビの生えた「歴史」や「伝統」にすがりつくことだけではない。 そこに生きる私たちに、貪欲にそれをしゃぶりつくす意欲さえあれば、サブ・カルチャーのジャンクの山からは汲めども尽きぬ濃密なエキスを取り出すことができるのだ。(市民) ■先見の明 例えば三浦展の一連の著作で描かれてることを読んだ時に俺は特に驚かなかったと同時に「そこまでネガティブな解釈をしなくてもいいのに」と思った。そこで書かれていることは肯定的な意味合いで、すでに『木更津キャッツアイ』が描いていたからだ。 02年の本放送当時、まだ「ファスト風土」や「下流社会」という言葉はもちろん「負け犬」や「ニート」という言葉も流行っていなかった。 無職でギャンブルばかりしながら家で居心地の悪さを感じているアニや30過ぎて独身の美礼先生の煮詰まり方はコミカルながらも妙な説得力がある。木更津キャッツアイで宮藤官九郎やスタッフが描いたものは、私たちのすぐ隣りにありながらもチープでジャンクなゆえに中々普通の作家の視界に入らなかったものだった。そういうものを拾い上げかつ、なおかつ笑いというフィルターを通すことで肯定的な意味を与えたことがまず第一の衝撃だった。解説では一回では手ごたえを感じなかったと書いたが、それでも見続けようと思ったのはそれらの私達の周りにある景色から作者が逃げずに正面から挑んでると感じたからだ。 バックに聳え立つアクアラインと、その対比で写る寂れた木更津商店街。やたらと広い空ときれいな海。木更津という舞台設定がこのドラマに一役買っている。 (成馬) ■固有名詞の乱用 時間軸の自在さと共にクドカン脚本の特色として実際の固有名詞の多用にある。一話だけでも松戸ナンバーのクラウン、レザボアドックス、キャッツアイ、ルパン、シティーハンター、新庄、松沼アニ……数えあげたらキリがない。 これも基本的にシナリオはもちろん小説でもNGの表現だ。 固有名詞を作品に出すというのは結構諸刃の剣で、その単語を知っている受け手には(それがマニアックであればある程)作者に対する親近感をわかせるが、逆に知らない人間を弾く結果となり作品の幅を狭める。そういう諸要素のためにマニアのオモチャとしてクドカン作品を毛嫌いする人も中には多いと思う。だが、これは大塚英志も指摘していることだが、それらの固有名詞は作品のテーマと切り離せないもので宮藤官九郎は細部の固有名詞の配置でテーマを語る作家なのだ。本稿ではその関連の分からない人に対し簡単に説明できたらと思う。 (成馬) ■レザボアドックス 怪盗団を結成した五人は名前を本名で呼び合うのはヤバイということで仇名で呼ぶことになる。ここで野球選手の名前がそれぞれに付けられてそれがうまくギャグになってるのが脚本の上手いとこなんだが、これは作品内でも言ってるようにクエンティン・タランティーノの映画『レザボアドックス』が元ネタだ。 (上に書いたことと若干矛盾するがクドカンは引用が多いが出展元は浅く、ちゃんとわかるように「それ~からだろ」みたいな台詞を書き足す。その意味では親切な作家であり、少なくともドラマに関してはマニア以外の層にも開かれている) おそらく本作を見た時に映画マニアが連想するのはタランティーノの一連の映画やダニー・ボイルの『トレインスポッティング』そしてスタッフも公言するガイ・リッチーの『ロック、ストック&トゥー、スモーキング・バレルス』だろう。それらは90年代頭から今に至るまで活躍してる若者を中心に人気を得た監督たちだ。彼等はその時々でファッションと音楽、斬新な演出の三大柱で話題になった。だが一方で水モノ的に評価される傾向が強く、少し旬を過ぎると恥ずかしいもの、上辺だけのものとして見られがちだ。(そして次の時代の若者向けのポップな映画にその座をあけわたしていく)『IWGP』以降の流れを見て彼等の日本版としてクドカンや『木更津キャッツアイ』を評するのは、その意味で正しい。 だが、それらの作品もクドカン作品も表層的な部分でのみ流行ったのではないと俺は思ってる。特にタランティーノは表層的な部分は別にしてそこで描かれてるのは、低階層の若者が何とか浮かび上がりたいという足掻きだ。それと同時に彼等の描く世界観は物は豊かだが近代化の終わった低成長の時代を舞台にしている。だから70年代のニューシネマのような熱さは彼等の作品には無く、乾いたユーモアを持つことが多い。邦画でも表層レベルの演出や会話だけはタランティーノの亜流だった作者は腐る程いたが、舞台設定や状況認識のレベルで取り込み日本的なものの咀嚼できた脚本家はクドカンが初めてではないか? と思う。 あと最大の共通点は脚本と役者を兼業してる点だろうか? おそらく会話における身体性の強さの秘密はそこにあるのだろう。 (成馬) ■猫田 木更津キャッツと高校の野球部の監督をしながら、保健会社に勤め、裏ではヤクザの山口さんとつるんで危ない仕事もしている猫田は、ある種もっとも『木更津キャッツアイ』を象徴するキャラクターだ。後には愛嬌のあるコメディーリリーフに変化していくが、一回における猫田のキャッツの面々には威張りちらしながら、上の山口さんには媚びる姿には地方都市の狭い人間関係の息苦しさを感じさせてネガティブな意味で強烈だった。田舎においては中高生の頃の先輩後輩の関係が(特にヤンキーは)そのまま繰り上がり大人になっても続いてる場合が多々ある。(そしてそれが女だと、狭い人間関係の中でカップリングが転々とする、そちらはローズ姉さんやモー子を通して描かれている) 幸か不幸か『木更津キャッツアイ』はそのダークサイドには突入しなかったが、そのモチーフは後に舞台の『鈍獣』で引き継がれている。裏『木更津キャッツアイ』として未見の方にはシナリオ本をオススメしたい。(成馬) ■美礼先生 『木更津キャッツアイ』には様々な理由(ほとんどの場合本人の気真面目さが理由なのだが)で心をこじらせた人間が毎回登場する。彼、彼女らを木更津キャッツアイの面々が意図しないところで助けるのがストーリープロットとなっているのだが、美礼先生はその象徴とも言うキャラクターだ。 本人の生真面目さから、学校では浮いていて生徒ともうまくいかず、教頭先生にはストーカーまがいの行為をされている。そしてそのストレスから爆弾を作り。学校にしかけてしまう。描写がコミカルなので一見見逃しがちだが、薬師丸ひろ子さんの演技もあって生々しい。 彼等を救うのが、社会的には負け組でくすぶってるが内面的には健康(もしくは馬鹿)なキャッツの面々だという所がクドカンが何処まで意図したのか? わからないが、90年代の自意識過剰なトラウマ的な人間観に対するカウンターとして当時、新しい印象を与えた。 その意味で『木更津キャッツアイ』と『IWGP』は90年代と00年代の橋渡しとなった作品だったのかもしれない。 ちなみに本作ははじめて薬師丸ひろ子が主演以外の形で出演したドラマで、今まで煮詰まっていた彼女の新しい転機となった作品だ。薬師丸はあるインタビューで「母親でも犯罪者でもない役をくれるのは宮藤さんだけなので、一生ついていきます」とまで言っている。 (成馬) ■男の子の物語 宮藤官九郎ほど男の子の物語にこだわってる脚本家はいないのではないだろうか? 映画『ピンポン』のレビューで詩人の林あまりは「男の子の男の子による男の子のための映画」と評した。80年代の高度消費社会以降、男の子を主役に物語を展開することが難しくなったと、作り手も評論家も口にしてきた。特にオタク業界ではその傾向が激しく、主人公を女の子に添えるか、何もできない少年の無力感を根底におく作品ばかりが目立つようになっていった。 それは『木更津キャッツアイ』と同時期にオタク周辺で話題になってたのが深海誠の『ほしのこえ』や『最終兵器彼女』に代表されるセカイ系と呼ばれる作品であることからも明らかだ。それらのオタク系の作品や岩井俊二の『リリイ・シュシュのすべて』などに、作品の出来とは別の男としての居心地の悪さを感じていた俺は、その状況に対しすがすがしいカウンターを放って見えたのも『木更津キャッツアイ』を評価した理由だった。 消費社会、成熟社会あるいはポストモダンの世の中と言ってもいいが、明確なピラミッド構造が崩れた社会においては成長という概念は曖昧で、つねに梯子を外されるような形となってしまう。木更津に限らず、クドカンドラマにおける世界観は常に流動的で一度明示されたルールもすぐに変わってしまう。(それを恋愛という形でわかり安く描いたのが『マンハッタンラブストーリー』だ)その過剰に流動的な世界観を前提とした上で、正面からぶつかっていくキャッツの面々の姿に当時、正面から男の子を描こうとしていると思い、これは擁護せねば! と思った。 だが残念ながらジャニーズドラマというバイアスのせいで当時は男の子に届いたとは言いがたくファンの中心は女性という状況だった。 その意味で今の方がよけいなフィルターがなく男女両方に届くのでないか? と期待している。 (成馬) ■バンビとぶっさん キャッツのメンバーが高校最後の夏――高校3年の夏の県大会の決勝戦、キャッツのメンバーが所属していた野球部は、監督猫田の采配ミスで惜敗する。そしてその決勝戦以来、バンビとぶっさんはまったく口を利いていない。猫田が自分のミスを棚に上げて、ぶっさんに責任を転嫁したからだ。それから2年、ふたりは同じグループに属したまま、冷戦状態を貫いてきた。「仲間から抜けはしないけど、特定の誰かとは口を利かない」というのは、男の子のグループではよくある話だ。 だが、そんなバンビだけが、ぶっさんのガン告白が本気だと正しく察知する。「きっかけさえあればいつでも」仲直りすると周囲に明言していたぶっさんと同じように、バンビもまた、ぶっさんのことを常に注視していたのだろう。こういった細かい描写は流し見していると見過ごしてしまうことも多いが、こういった小さな描写の組み合わせが、本作の豊かな世界築き上げているのだ。(市民) ■「終わり」の物語 気持ちのいい仲間たちと過ごす、居心地のいい(閉じた)街でのバカ騒ぎの毎日――評論家・大塚英志は本作の描く世界を、高橋留美子『うる星やつら』の流れをくむ、オタク系のラブコメものになぞらえて説明する(『キャラクター小説の作り方』)。 高橋留美子の描く「楽園」には時間の流れが存在せず、登場人物たちは基本的に歳を取らない。主人公の美少女キャラクターに囲まれたモラトリアムが半永久的に延長されていく――この欺瞞を、よりにもよって同作のアニメ映画版という形でやってのけたのが押井守監督の『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』だった。 そして大塚は『木更津キャッツアイ』を、『ビューティフル・ドリーマー』のテーマを受け継ぐものだと評価した。そう、この物語は「木更津」という楽園の「終わり」を描いたものに他ならない。それも、「死」という身も蓋もない形で――。21世紀のビューティフル・ドリーマーたちにどんな結末が用意されているのか、これからじっくりと追っていきたい。(市民)
by wakuseicats
| 2006-09-18 00:14
| 第1回
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