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2011年10月30日 (日)

碁盤の目の「角度」(札幌・山鼻)

数学の「座標平面」の授業で、先生がこんなことを言いました。
「x軸は大通、y軸は創成川、原点はテレビ塔の辺りだと思えばいい」
札幌っ子にとって、これほどわかりやすい例えが他にあるでしょうか。

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札幌の中心市街地は、直線道路が等間隔で直角にクロスする、いわゆる「碁盤の目」のような都市計画で知られています。南北の軸は大通で、南39条から北51条まで約14km。東西の軸は創成川で、東30丁目から西29丁目まで約8kmという、巨大な「座標平面」です。

しかし、地図をよく見ると、南3〜6条を境に、北(都心部)と南(山鼻地区)で区画が微妙にずれているのがわかりますか?わかりやすく色分けしてみました。
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赤く塗った道路は都心部、青く塗った道路は山鼻地区。
正確な東西南北の方位に対して、都心部は反時計回りに約9度、山鼻地区は同じく約5度傾いています。どちらも、「南○条西○丁目」という「座標平面」の住所が、とくに区別することなく割り振られています。

すすきのの“深いところ”で飲んだことがある方は、この碁盤の目の乱れを経験的にご存知なのではないでしょうか?

今回は、僕がいつも地図を見るたびにじれったくて身悶えしてしまう、何ともアズマシクない(落ち着かない)この微妙な「角度のずれ」を楽しんでみたいと思います。

■都心部の「角度」を決めた「大友堀」

札幌がまだ原野だったころ、一番最初に引かれた「直線」は「大友堀」でした。
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幕末の慶応2年(1866年)に、幕府の開拓御用を命じられて、現在の札幌市東区に移住した大友亀太郎が、飲み水や水運を確保するために引いた用水路が「大友堀」。これが後に「創成川」と呼ばれ、札幌都心部の街路の基準になります。

どうやら亀太郎は、特に南北の方角を意識したわけではなく、あくまで自然の傾斜に合わせて掘ったようです。

明治2年(1869年)の地図(右が北)を見ると、何もない原野の中に、唯一の直線である大友堀が確認できます。
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ちょうどその年、函館に代わる新しい本府を建設するために札幌原野に派遣されたのが、有名な島義勇判官。彼はまず、すでにあった大友堀の東岸に、南北方向の短い道路を1本造りました。さらに、銭函から札幌経由で千歳方面へ通じる、曲がりくねっていた踏み分け道を整備し、大友堀と直角に、直線でクロスさせました。こうして、創成橋を交点とする十字形の直線道路が、札幌の原野の中に誕生しました。
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さらに島判官は、この十字路を基礎として、まるで平安京のような整然とした「人工都市」をゼロから建設するという、壮大なビジョンをぶち上げます。

島判官の明確なビジョンとリーダーシップのもと、札幌の都市建設がいよいよスタート・・・となるはずだったのですが、事態は急変。島判官は、予算の使い過ぎや独断専行ぶりを問題視され、志半ばで解任、札幌の都市建設は凍結されてしまったのです。

結局、「札幌本府」は大友堀と、縦横1本ずつの直線道路だけを残した状態でストップ。開拓使は方針を変更し、都市よりも周辺の農村の開墾を優先することになりました。


■山鼻の「角度」を決めた「ハッタリベツ新道」

明治3年(1870年)、京都の東本願寺が政府に願い出た、札幌への管刹所(寺)建立と札幌〜虻田間の道路開発について、許可が与えられました。

形の上では東本願寺が自ら志願して、政府がそれを許可したことになっています。しかし実際には、私費での道路開発を「志願」するよう、政府サイドから東本願寺に対して「圧力」があったと言われています。

島判官の「浪費」のせいですっかり財政難になってしまった開拓使にとって、寺院がわざわざ巨額の私費で道路を造ってくれるというのは、いくら何でも都合が良すぎる話ですよね。実は東本願寺には、幕末の動乱時に薩長側ではなく幕府側の味方をしたという負い目がありました。そのため、たとえ無理難題であっても新政府の「意向」には逆らえなかったわけです。

かくして、19歳の大谷光瑩(現如上人)を中心とする東本願寺の一行は、途中、越後国で資金集めをしながら、7月になって札幌に到着しました。創成橋の南西1.2kmの原野の中(現在の南7条西7・8丁目)に管刹所を建立。さっそく道路建設に取りかかります。

このとき造られたのは、平岸から定山渓、中山峠を越えて虻田方面に通じる道路(現在の平岸街道と国道230号線の原型)など、「本願寺道路」と呼ばれる4本の道路。僧侶たちや周辺の移民、たくさんのアイヌの人たちの手によって、わずか1年で完成させました。

その4本の中の1本が、札幌とハッタリベツ(現在の北ノ沢・中ノ沢・南沢)を結ぶ6kmの道路「ハッタリベツ新道」。島判官が残した「銭函道」(現在の南1条通)から一直線に南下し、藻岩山の尾根の終端「軍艦岬」を回り込んで山に入っていくこの道が、後に「石山通(国道230号線)」と呼ばれ、山鼻地区の街路の基準となるのです。北の終点・銭函通には、直角ではなく、約4度傾いて接続されました。
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■「空白の2年」が生んだ、角度のずれ

ハッタリベツ新道の直線は、ほぼ正確に磁北(真北とは約5度のずれがある)を向いています。しかし、意図してそうなったのか、地形や障害物を避けた結果なのか、はっきりとした史料は見つかっていないそうです。
東本願寺による道路開発についての数多くの史料は、「大変な困難を乗り越えた」という美文調の英雄潭には何ページも割いているのですが、「角度がこうなった理由」についての記述は見つけることができませんでした。

ただ一つ言えることは、ハッタリベツ新道が建設された当時、札幌本府を「碁盤の目」にする都市計画はまだ決まっていなかった、ということです。

時系列で確認してみます。


 慶応2年(1866年)09月:大友堀(創成川)ができる
 明治2年(1869年)10月:島判官の都市計画構想
 明治3年(1870年)02月:島判官失脚/都市計画中止
 明治3年(1870年)09月:東本願寺が道路を建設
 明治3年(1870年)11月:札幌都市計画の再検討
 明治4年(1871年)05月:開拓顧問ケプロンが来道/同年、札幌建設を本格的に再開


つまり、島判官とケプロンという、北海道開拓の2大プロデューサーが不在だった「空白の2年」に、ハッタリベツ新道が造られた、ということになります。もし2人のどちらかがいたならば、開拓の基本ともいえる主要道路の開発を寺院に「丸投げ」するようなことはなかったでしょう。また、都市の将来の広がりを見越し、ハッタリベツ新道は札幌本府と同じ角度で設計したはずです。

140年後の今も残る「角度のずれ」は、開拓初期の「空白の2年」の産物である、という見方もできるのではないでしょうか?


■札幌本府と山鼻地区のその後

明治6年(1873年)の地図です。
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札幌本府の「碁盤の目」の都市建設は順調に進んでいます。大通にはまだ公園がなく、幅105mもある広い街路でした。南4〜5条、西3〜4丁目の4ブロックは塀で囲まれています。これが「薄野(すすきの)遊郭」です。

一方、東本願寺周辺はまだ市街地化されていませんが、ハッタリベツ新道の左右に新たな区画が生まれています。これは「山鼻屯田兵村」だと思われます。対ロシア防衛軍と開拓団を兼ねた集団移民「屯田兵」制度ができたのは明治7年(1874年)なので、この地図には後から書き加えられたものです。

その18年後、明治24年(1891年)の地図がこちら。
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二つの市街地はやがてぶつかり、複雑に食い違う街路は苦心して繋ぎ合わせられ、現在の札幌が形作られました。


■「角度の変わり目」を歩いてみる

南4条西18丁目の角にあるヴィクトリア。ここが、山鼻角度のエリアの北西の端です。
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ここから東に向かって歩いてみましょう。
南3条通(山鼻角度)を境に、北側が都心角度、南側が山鼻角度。
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市電山鼻西線の軌道は、ずれを繋ぎ合わせる斜め通りの上に敷かれています。
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境界線の南3条通そのものもまた、途中から都心角度に変化します。
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この通りにある鍋焼きうどんの専門店、詩仙洞。つい先週、友人の渡辺君に教わりました。メニューは鍋焼きうどんだけですが、絶品です。
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島判官が造った「銭函道」と東本願寺が造った「ハッタリベツ新道」の接点は、南1条西10丁目、現在は市電の「中央区役所前」電停がある交差点です。現在、石山通は拡幅され、南1条通に接する部分は都心部の角度に変わっていますが、オリンピック以前は山鼻の角度のまま接している、変形交差点でした。
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そこから少し西側に、今も山鼻角度のまま南1条通に接している道が1本だけありました。西屯田通です。気持ちいいほどまっすぐに伸びる道を見通すことができます。
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西8丁目以東の境界線は、東本願寺のある南7条に移ります。
幅の広い南4条通は、西8丁目で角度を変えているのがわかります。
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ここが東本願寺。現在の正式名称は「真宗大谷派札幌別院」。
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何もない原野だった時代に建てられただけあって、広い敷地です。山門には「勅賜 東本願寺管刹地所/明治三年庚午七月」の石碑があります。

寺の北西角は、都心角度と山鼻角度のわかりやすい接点です。
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余談ですが、「えびそば一幻」はすぐそこ、東屯田通にあります。

市電山鼻線は、都心角度→つなぎ道路→山鼻角度の順に、逆S字カーブを描いて走行しています。子供のころ、ここを電車で通過するたびに、札幌の街路は「碁盤の目」だと教えられたことと、目の前にある現実の風景との矛盾に、僕は身悶えするような違和感を感じたものです。
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一気に南下して、石山通(旧ハッタリベツ新道)の直線部の南端、軍艦岬です。
「岬」といっても海があるわけではなく、藻岩山の尾根が南西部に突き出た部分。この崖を遠くから見ると軍艦の舳先のように見えたため、地元では昔から「軍艦岬」と呼んでいます。
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この崖と川に挟まれた難所を越えると、ハッタリベツ新道は右に折れ、地形に沿ってクネクネと進みます。
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ちなみに、曲がらずにまっすぐ伸びている細い道は旧道ではありません。札幌軟石を輸送する目的で明治9年(1876年)に新設された、石山方面への「直線馬車道」です。ハッタリベツ新道は山道なので馬車が通行できなかったのですね。直線馬車道は豊平川を渡し船で渡り、そのまま真駒内をまっすぐに伸びていました。その真駒内側の道が、現在の「真駒内通」(国道453号線)です。

どうにもアズマシクなかった「角度のずれ」ですが、歴史を知ると、何か愛着のようなものが湧いて来るものですね。


【参考資料】
札幌市編:「新札幌市史(第2巻通史2)」
札幌市編:「新札幌市史(第7巻史料2)」
札幌市教育委員会編:「さっぽろ文庫別冊・札幌歴史地図(明治編)」
北海道新聞社編:「星霜-北海道史1868-1945ー(第1巻明治1)」
若林功:「北海道開拓秘録」(時事通信社)
(社)札幌建築士会札幌支部webサイト「札幌古地名」
山鼻創基八十一周年記念会編:「山鼻創基八十一周年記念誌」/昭和32年
幌西史誌編集委員会編:「幌西史誌」/平成15年
藻岩開基百年記念事業協賛会編:「さっぽろ藻岩郷土史 八垂別」/昭和57年
藻岩下連合町内会編:「郷土史藻岩下」/平成15年
ほか

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コメント

続編楽しみにしてました。
小学校の社会科の教材に十分なりうる素晴らしい考察。
札幌っ子(&中央区在住)としては、わくわくする記事でした!

こんにちは!寄らせて頂きました。
これ、凄いですねぇ~札幌育ちなのに知らなかったことが沢山ありますね。
角度のズレにはこんな歴史があったとは・・勉強になりました!

お疲れ様です。すごいなあ、実家が石山通りの近くでしたので、子供の時は、自転車でこの道は、どこまで行くとなんてやってましたが、少しくらいずれている部分もあることは、知っていましたが、こんな歴史があったとは、意外です。
もう実家を離れて25年くらいになりますので、記憶もたしかではないですが、南9から11条20丁目付近も少し変形していたような記憶があります。山鼻郵便局で配達のバイトしていたので、西線電車通りの西側から伏見、旭山の下の地区ですが、丁目が抜けているようなところがあったような記憶があります。
それにしても、すごく懐かしく写真を拝見しました。どこも良く知っていたところですので、今は東京都錦糸町の近くに住んでいますが、子供の頃の(30年以上前)の東屯田通りからすすきののはずれ付近の感じと同じ感覚があります。東京なのに、なぜか懐かしい感じになります。

西村君ありがとう!
ふと思ったんだけれど、今札幌に住んでいる人の中で、少なくとも小学3年生のときには札幌にいた人、つまり、学校で札幌や北海道の歴史を習った人の割合はどのくらいなんだろう?
島義勇判官や大友堀を「初めて聞いた」という声が結構ありました。
子供たちにも、大人にも、札幌の歴史に興味をもってもらえたら、と思うんだ。

すずきさんありがとうございます!
きっと、よく存じ上げている鈴木さんですね(笑)
すずきさんは、札幌のどのあたりのご出身なのでしょうか?
もし、子供の頃にご家族からお聞きになられた、札幌の歴史エピソードなどがあれば、調べてみますのでぜひ教えてください!

幸永さんありがとうございます!
今は錦糸町の近くにお住まいなのですね!
私は学生時代に新小岩に住んでいたので、錦糸町や亀戸の周辺はよく憶えています。確かに、どこか山鼻に似た香りのする街でした。
西20丁目附近は、旧琴似街道ですね。
今は「仲通り」のようになっていますが、環状通ができる以前は、山鼻から琴似・小樽方面に行くメインルートだったそうです。斜め通りなので、三角形地帯があったり、条丁目が乱れたりしています。かつては山鼻村と円山町の境界線にもなっていたはずです。

電車通りの寿司屋でございます。小さな頃からこの付近に住んでいて思っていた疑問がスカっと解決しました。
本当に有難うございます。今後もブログを拝読させていただきます。

あら政さま、ありがとうございます!
西線6条のところですね?電車の中からお見かけします。
今度、ぜひお店に遊びにいかせてください!

是非お待ちしております。ブラサトル様でご予約下さいませ^^

札幌は碁盤の目だと思い込んでいましたが、角度がずれた碁盤が接続していたとは。
興味深いお話を教えていただきありがとうございました。
東京在住の者ですが、札幌に遊びに行った時は、境目を気にしてみたいと思います。

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