りえかわいいよりえ(浜崎あゆみ「SEVEN DAYS WAR」)
司会者「それではもう新曲でちゃったけど浜崎あゆみシングル「crossroad」のカップリングがナゼ「SEVEN DAYS WAR」なのか問題です」
kenzee「「SEVEN DAYS WAR」はよく知られているように1988年の角川映画「ぼくらの7日間戦争」の主題歌である。宮沢りえを中心としたアイドル映画の要素が強い作品だが、大筋こんな話である。ある中学校の夏休みを控えたある日。一年生のグループが突然、姿を消してしまう。彼らは町外れの廃工場に立てこもり、学校の管理教育、口うるさい親たち、そんな大人たちに徹底抗戦を仕掛ける。教師たちは彼らを連れ戻そうとするが、子供たちはあの手この手で大人たちをやりこめてしまう。そして彼らは最後には勝利を収める。といういくぶんマンガ的な他愛ない映画だ。You Tubeにその戦いのクライマックスのシーンだけ上がっているのでちょっと観てみましょう」
司会者「宮沢りえのかわいさが印象的です」
kenzee「もう22年も昔の映像だが、改めて気付くのは宮沢りえの美しさなのだ」
司会者「怖い先生の役は佐野史郎だったのか!」
kenzee「まだ冬彦さん以前の無名に近い頃の佐野史郎だ。この映画では管理教育のまさに権化として登場する。人間味ゼロの教師だ。まさか彼が若い頃、はっぴいえんどファンだったり状況劇場出身だとは誰も気付かなかっただろう。それにしても宮沢りえが輝いているね」
司会者「例の「サンタフェ」はこの3年後ですよ」
kenzee「なんと女子の時の流れとは早いものか。で、映画のほうは花火がドーンで終わってTMの「SEVEN DAYS WAR」が流れて終わる。この80年代を代表する中二映画だが、宮沢人気とも相まって結構ヒットし、続編も作られた。ところでこの「ぼくらの7日間戦争」、原作読んだことあります?」
司会者「ないです。本屋の角川文庫の棚に大抵宗田理ズラーッ並んでますけど実際に読んだことはないですね」
kenzee「そこで一回、往年の中二病小説「ぼくらの7日間戦争」をちゃんと読んでみよう!ということで近所のブックオフ行ってきました。どうせ文庫本100円コーナーとかに転がってるだろうと探してみたらアッサリ見つかり拍子抜け!」
司会者「宮沢りえ輝いてるネ!」
kenzee「初版発行が昭和60年、1985年だ。映画化が88年。ボクがゲットしたこの100円コーナー本は平成元年版(1989年)で、この時点で27版だ。いかにバカ売れしていたかわかる。りえかわいいよりえ。で、読んでみたのだが原作は結構複雑な話なのだった。子供たちが工場に立てこもるという大筋は一緒なのだが単に子供が大人社会に反抗、といった単純なものではない。グループのリーダー格、相原の両親の設定なのだが彼らは全共闘世代なのだ。68年の日大闘争のときに、バリケードのなかで知り合い、結婚したのだ。
園子は正志より二年後輩で、日大闘争のはじまった年に入学した。ある日正志にオルグされ、なんとなく運動に入っていった。バリケードに立てこもり、デモをし、機動隊に追われ、街頭カンパをしているうちに自分が確実に変わっていくのを自覚した。かつてこんなに自分が燃えたことはなかった。まるで、熱にうかされたような毎日であった。正志が逮捕され勾留されたとき、園子は留置場に差し入れに通った。それから数ヶ月、やっと釈放されたときは新安保条約は自動延長され、あの激しく燃え上がった全共闘運動は失速していた。やがて運動も解体した。その年二人は結婚した。もう大学へ戻る気はしなかった。といって就職するところもない。食うために、二人でささやかな学習塾を始めた。(宗田理「ぼくらの7日間戦争」角川文庫)
司会者「典型的なあの時代の学生だ」
kenzee「短い描写だが、ひとこと「1968」といっても年齢、出身、どこの大学のなに学部だったかで闘争の風景は変わってしまう。そしてどのように彼らがあの時代の運動に関わっていたかがわかる。彼らは典型的な日大闘争の学生だったのだ。ひとことで「全共闘」といっても68年と69年ではだいぶ様相が変わってくる。68年の日大と69年の東大では意味が違う。日大闘争の発端は68年5月のことだ。約2000人の学生が神田三崎町の経済学部一号館前に集まり200メートルデモを日大生としてはじめて行った。これがはじまりだ。翌6月には全学総決起集会が行われた。当時配布されたビラの内容はこんな感じだ。
「全日大10万の諸君! いまやわれわれの闘いは、大きな岐路に、おおいなる試練の場に立とうとしている。もてる全理知と全情熱と全神経とを闘いのこの瞬間に集中せよ! 6月11日11時半 各学部総決起集会 2時半全学総決起集会→大衆団交」(「新版 叛逆のバリケード」三一書房)
このビラで約8000名の学生が集結。このビラの特徴は後の69年以降、東大全共闘以降に見られるやたらナゾの漢字の多い、いわゆるアジ演説調ではなく平易な文体で読みやすく参加しやすい雰囲気を持っていることだ。だが危機を感じた大学側は体育系学生や右翼系の学生を使い、これを襲撃した。そして学生側にかなりの負傷者がでた。これがきっかけとなり、全学部が無期限ストライキに突入した。バリケードを築き、校舎を占拠し、立てこもった。7日間戦争において工場に立てこもり、廃材などでバリケードを築いたのはこのイメージを作者が抱いていたためだろう」
司会者「しかし、原作ではFM海賊放送による「解放区放送」を行いますよね。これは東大闘争における「時計台放送」を想起させます。バリケードは安田講堂のミニチュアであり、作者は東大をイメージしていたのでは」
kenzee「違う。どこまで行ってもあの廃工場のイメージは日大なのだ。日大と東大の決定的な違いは「負ける戦」のつもりだったかどうかだ。日大闘争はすべてが成り行き上、行きがかり上、そうなったものだ。
6.11全学総決起集会に暴力的に介入した右翼や体育会系学生や機動隊に対する講義が行動へと転化していくなかで構築されていったバリケードは同時に「ストライキ」への突入宣言になった。(中略)私は、いつどこで「スト突入宣言が発せられ、私たちに伝えられたのかを知らないし、「スト突入宣言」があったからバリケードを築いたわけでもなかった。同じようにバリケードに泊り込んだ行動がストライキの決行であることなど、まったく考えてもいなかった。私は、自分からバリケード作りに加わり、誰から誘われたわけでもないのにバリケードに泊り込み、日大闘争に自ら参加していた。(三橋俊明「路上の全共闘1968」河出ブックス)
彼らは明確に大学側のやり口に不満を持って、その意思表明としてバリ封、ストに突入した。実に自然な流れとしてそうなった、という感じだ。これが一年後の東大闘争になると様相は変わってくる。まずセクトが細かく分かれ、全共闘やセクト、民青などの活動家たちの党派闘争の様相を呈してくる。写真集・渡辺眸「東大全共闘1968-1969」121頁の写真を見ると安田講堂の時計台を覆うように「中核派」の旗が。その真下に「社学同」。さらに下へ行くと入り口屋上から「SFL」「ML」と書かれた旗が見える。日大の時点ではまだ大学vs学生というザックリした対立でしかなかったのだ。また東大に終結した学生は多国籍軍であり、ほとんどは東大以外の学生で構成されていた。
二日間の攻防で逮捕者は277名。うち東大生は64名。様々な立場の人が闘いに加わっていた。(渡辺眸「東大全共闘1968-1969」新潮社)
このようにもはや共通の目的をもつのが困難な状況であった。いきおい、「国家権力奪取」とか「革命」といった具体性の欠いた「闘争のための闘争」自家撞着的な状況に陥っていた。これが東大闘争の真実だ。さらに悪いことに東大闘争では「安田講堂立てこもり」という勝ち目ゼロの戦術を選択してしまった。
また安田講堂攻防戦は、全国の全共闘運動に「玉砕」の模倣をくりかえさせる結果をもたらした。これがその後の日本の社会運動に、最後には敗北するという観念をもたらした悪影響もあったと思われる。(小熊英二「1968(下)」816頁・新曜社)
しかし、日大闘争は勝利を得るつもりでストライキを敢行した。9月30日、日大全共闘は約一万人の学生を集め、「大衆団交要求・全学抗議集会」を開催した。そして会場の日大講堂には古田会頭、各理事も出席し、これまでの大学当局の姿勢を自己批判し、謝罪することを要求した。そして彼らは日大全共闘執行部が要求したほとんどの内容を認めていった。学生心得の破棄、思想、集会・表現の自由を承認すること、出版物の許可制撤廃、本部体育会の解散、学生会館の自主管理、全理事の総退陣、使途不明金の全容を明らかにして謝罪すること、闘争による処分者をださない、経・法校舎の仮処分執行の解除などかなりキッツイ内容の要求のほとんどが認められた。確認書には古田会頭と各理事が署名し、捺印された。
確認書 九月三十日、両日日大講堂で日本大学法人理事会を大学当局の責任者とし、全学共闘会議を学生の唯一の責任者とする大衆団交が開催され、別紙のとおり合意をみたので、確約書を相互にとりかわす。この確約書は法人理事会の決定事項として、寄付行為の改正後も、法人理事会が履行する義務をもつことを確認する。 学生代表、日本大学全学共闘会議 大学法人代表、日本大学法人理事会(「新版・叛逆のバリケード」三一書房)
日大闘争勝利の瞬間だ。実はこの1968年9月30日が結果的に日本の学生運動のもっとも幸福な瞬間だった。このとき、講堂内に歓声があがり、紙吹雪が舞ったという。もちろんこのような一方的な要求がタダで受け入れられるわけもなく、この確認書は翌日にはアッサリ反故にされてしまう。これ以降、バリケード封鎖は長期化し、闘争は迷走を始める。
この頃、日大全共闘のバリケードの中では、行き詰まりつつあった日大闘争に展望や方針を語ることの中身がいつのまにか「反戦」や「武装蜂起」や「革命」についての話し合いと重なるようになっていった。大衆団交まで実現しても解決できない日大闘争の行方をめぐって「セクト」と呼ばれていた全ての新左翼政治組織は「国家権力の奪取」によってしか問題は解決しないと断言した。「国家権力の奪取なくして日大闘争の勝利なし」という命題は、すべてのセクトに共通する主張だった。またそうした「国家権力の奪取」といった方針に、それなりに説得力をもたせてしまうような社会情勢が日大闘争を覆ってもいた。(三橋俊明「路上の全共闘1968」河出ブックス)
つまり、日大闘争に限っては9月30日の大衆団交が運動の頂点であり、その後、急速に迷走を始め、バリケード内もそれまでの「解放区」といった健全な雰囲気から「国家権力奪取」「革命」といった物騒な言説が飛び交うようになっていたのだ。引用ばっかりで申し訳ないけど「7日間戦争」のストーリーがうまいのはこの、日大闘争に例えるなら9.30の頂点までで構成されている点だ。
「みなさんこんばんは。ただいまから解放区放送をお届けします」 またもや「炎のファイター」。それにかぶせるようにして詩の朗読が聞こえてきた。「生きてる 生きてる 生きている つい昨日まで悪魔に支配され 栄養を奪われていたが 今日飲んだ「解放」というアンプルで 今はもう完全に生き変わった そして今 バリケードの中で 生きている 生きてる 生きてる 生きている 今や青春の中に生きている」
「日大全共闘じゃないの」園子は思わず大声をだした。正志も表情を固くして、宙の一点をにらんでいる。日大全共闘。 それを口にするだけで園子は胸が熱くなってくる。その思いは正志も同じに違いない。(宗田理「ぼくらの7日間戦争」角川文庫)
原作の「7日間戦争」は世代間闘争の物語だったのだ。これが発表された85年はまさにプラザ合意に年。ここから日本経済はバブルの坂を駆け上がっていくことになる。結局、高度消費社会の主役になったのは相原の両親のような全共闘世代である。そのような状況に警鐘を鳴らすように子供たちは廃工場にたてこもったのだった。芸能リポーター矢場勇がこの廃工場の子供たちに取材にやってくる。矢場もまた、元全共闘なのだった。
「さあ、では君たちがなぜ解放区をつくったのか、その理由から話してもらおうか」
「理由なんていわれても、別にないよ」
「それでは納得できないんだよ」
「じゃ、あんたたちのときはどういう理由で闘った?」
「我々の時は最初は大学の権利回復闘争だったけど、それが次第に政治運動に発展していったのだ。いや、政治的な権力闘争ばかりじゃない。学生として、人間としての解放を求めた戦いだった」
(中略)
「元全共闘に聞きたいけど、あんた、いまやってる仕事に満足してんのかい?」
矢場はぐっとつまった。
「仕事に貴賎ははない。満足してるさ」
「あんたのやってることってのはタレントのスキャンダルを追いかけまわしちゃテレビでいやらしいおばさんたちに暴露してるんだろう」
「それはだな、みんながそういうことに興味があるからだ」
「じゃあみんながスカートめくれっていったらあんたはめくるかい?」
「ばかなことを言うんじゃない」
「あんたのやってることとスカートめくりとどこが違うんだい?」
矢場の顔がみるみる赤黒くなった。(宗田理「ぼくらの7日間戦争」角川文庫)
このように一種の団塊世代批判としてのトーンなのだ。この小説は。ちなみに相原のお父さん、正志は37歳という設定だ。ちょうど68年に二十歳だったということだ。そしてオレは74年生れのバリバリ団塊ジュニアなので、まさにこの子供たちと同世代なのだ」
司会者「エ? ていうかkenzeeって今36歳でしょ? この小説における親の側の年齢じゃない!」
kenzee「そうなんだよ浜崎の新曲がどうとか言ってる場合じゃないんだよ。で、オレは浜崎「SEVEN DAYS WAR」の話をしにきたのであって別に全共闘の話しにきたんじゃないのね。ここまででわかるのは映画版にせよ、原作にせよ、「ぼくらの7日間戦争」はヤンキー的要素皆無の作品なのです。なにしろ元ネタが日大全共闘だ。ヤンキーのヤの字もない世界だ。速水健朗さんが「ケータイ小説的。」で指摘しているように浜崎あゆみとは遅れてきたヤンキーだ。
「ティーンズロード」休刊の年にデビューした浜崎あゆみは「遅れてきたヤンキー」だったのだ。浜崎あゆみが元ヤンキーだったというのは都市伝説の類ではなく本人も認めている既成事実といえる。(中略)ケータイ小説が生れる文化的背景には浜崎あゆみの影が大きく横たわっており、さらにそれを生み出した文化的背景として1980年代後半から1990年代前半にかけてのヤンキー雑誌の投稿欄的な世界を結びつけることができる。それらを大きく括ると「ヤンキー文化の陰」ということになるだろう。そのヤンキー自体は1994年あたりから一旦は後退の気配を見せていた。それが浜崎のデビューを機に、再び盛り返す。一方、「遅れてきたヤンキー」として浜崎あゆみがデビューしたことは、コギャル全盛に傾きかけた不良少女の分布図を塗り替える出来事でもあった。これは同時に、不良少女たちの再保守化としてみることもできるかもしれない。(速水健朗「ケータイ小説的。」原書房)
確かに浜崎は速水氏が指摘するように山口百恵、中森明菜、工藤静香と続く「笑わない歌姫」の系譜の歌手だろう。そして消えかけていたヤンキー文化をたった一人で再編成したアイコンだったといえる。でもそんな浜崎が「小室ソングで一曲」とカヴァーの企画をもちかけられたときによりによって「SEVEN DAYS WAR」を選曲したという事実に皆さんなにも思わないか? なにしろ小室哲哉は近田春夫に「電脳ヤンキー」と命名されたほどのヤンキーマインドの持ち主でもある。浜崎のヤンキーイメージに合う小室ソングもあっただろう。ちなみに小室は80年代にヤンキー歌手にも楽曲を提供している。中森明菜「愛撫」や中山美穂「50/50」などだ。ナゼ、ヤンキー要素皆無の「SEVEN DAYS WAR」なの?」
司会者「ちょっと待って。ヤンキー音楽ってどう定義するの」
kenzee「ヤンキー音楽の源流は演歌に求めることができるのだが、簡単に言うとヤンキーソングは色恋の話しかしない。山口百恵も工藤静香もBOOWYもシャ乱Qも色恋の話しかしないのだ。その意味では西野カナは忠実にヤンキーソングのルールを守っているといえる。しかし、再ヤンキー化代表、浜崎はデビュー当初からヤンキーソングの掟破りを犯している。トラウマや内面の葛藤を描き、幸せそうな恋人達もいつか別れを迎えるだろうとか、男の武勇伝ウザイとかヤンキーソングの世界においては異端でありつづけている。浜崎のフォロワーが現れないのも納得である。また、ヤンキーソングは「早く一人前になる」「人から認められるようになる」ということを重要視する。ヤンキーソングによくみられる表現として「オマエを守りたい」というものがあるがこれは「女性を守る→それだけの経済力を身につける→つまり、自立し、一人前になる」という背景を踏まえた表現であり、ヤンキーソングとは成熟を志向した世界なのだとわかる。しかし、浜崎の歌詞とは当初より、未来への展望という感覚が希薄なもので、「美しい過去→やがて失われる」というコンテクストで展開することが多い。
大人になった 残念ながら まだまだ加速は止まらない(浜崎あゆみ「glitter」2007年)
「glitter」にみられるのは「成熟」より「モラトリアム」に重きを置く価値観である。このように浜崎の音楽とは本来、ヤンキーの支持を得られるような要素を備えていなかった」
司会者「にもかかわらずゼロ年代、ヤンキーチームとしては浜崎が一人勝ちした」
kenzee「それがわからんのだ。ヒントは浜崎のB級アイドル時代だろうか。浜崎は98年のデビュー以前、いくつかのドラマと映画に出演している。テレビドラマデビューはテレビ朝日系「ツインズ教師」で、浜崎はチーマーに憧れる優等生役で登場する。野島伸司ドラマ「未成年」では妊娠してしまう名門女子校のお嬢様という役柄。96年にはVシネ「湘南爆走族・帰ってきた伝説の5人」にも出演している。ここでの役柄はなんと手芸部に所属するメガネ女子なのだ。不思議でしょ?」
司会者「浜崎のヤンキーマインドは疑いようがないですが、彼女は一度も「ヤンキー」として我々の前に現れたことはないのね!」
kenzee「むしろ割りと地味目の少女の役を当てられることが多かったのだ。つまりあと10年早く生れていたら学校の規則や管理教育に抵抗するマジメ少女の役を当てられていたかもしれない。そして東大はともかく日大のバリケードの中にいたのはそういう地味目な素朴な学生たちだったのだよ。そうなってくると速水さんの「浜崎は再ヤンキー化の先鋒」論も結果論であり、浜崎の可能性とは全共闘(68年限定)からツッパリ~ヤンキーへと至る「戦後日本人の多くが抱える「アイタタタタ」なトラウマ感情を直撃する表現というもっと大きな視点から捉えることができるのではないか。当初、浜崎は「自分は孤独だ」というメッセージを歌にした。そのメッセージと想像力は携帯電話の機能の爆発的進展と伴って瞬く間に「浜崎的文化」を形成した。つまり、少女たちは浜崎の名の下に連帯した。それがケータイ小説だ。その風景を想像するとき、ふと思い浮かぶのは69年、安田講堂内に描かれた有名な落書きだ。
連帯を求めて 孤立を恐れず(東大落城時の安田講堂内の落書き)
タダのヤンキーミュージックであるはずの浜崎あゆみがナゼ、「1968」と共鳴する感覚を備えているのか。もうちょっと考えてみよう」
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七月に横浜で小坂忠さんのライヴを観たとき、佐野史郎さん、お客さんとしていらっしゃってました。ギターの鈴木茂さんと写真を撮っている姿を目撃。
投稿: 講談社から来月新刊 | 2010年10月14日 (木) 18時34分
ボガンボスのヤツの単行本化ですなミャー。はっぴいえんどBOXに入ってる中津川ジャンボリーの「春よ来い」の冒頭の「ええどええど」というヤジは十代の頃の佐野史郎って噂はホントかな? ボク個人的にこの「団塊の5歳ぐらい下」の世代の影響デケーなあと思うんですよ。やっぱりイヤなもん見てない強さあるんですよ。山下達郎の神戸公演観て思った。なんかやたら昔の曲やるんですよ。シュガーベイブとか。
投稿: kenzee | 2010年10月14日 (木) 21時54分