ニューヨーク湾、自由の女神がそびえ立つリバティ島の至近にエリス島という島がある。
この島は1892年から1954年まで合衆国移民局が設置され、各国からの移民にとっては夢見るの新天地の入り口であった。
ーー私にとっての「ボカロ」とはそういった立ち位置に近い。

2007年8月に初音ミクが発売されニコニコ動画上で話題になり始めた頃、私はさしたる注意を払わなかった。
MIDIであるとかテキスト読み上げソフトは従前から存在したので技術面では妥当な進歩だと思ったし、いかにもといったキャラクターの造形も私の好みではなかった。
お金がないが時間のあった当時大学生の私にとってニコニコ動画は手頃なエンターテイメントであったので、流行りの動画は一通り視聴していたが、ボカロに対してハマるといった感覚は皆無であった。
 
認識が一気に変わるのは何の気なしに「五拍子」というキーワードで検索してヒットしたこの動画を視聴してからだ。

雨傘P - Dear Old My Future


打ち込みのピアノと巡音ルカのみという大変シンプルな作品であるが、私にとっては衝撃だった。
私の好みがこんなところにあったなんて!何故今まで気付かなかったんだろう!!

これが私の新天地への第一歩だった。
それからは毎日取り憑かれたように様々な作品を漁り回った。

「ボカロ」で括られる範囲はその当時、既に実に多種多様であった。
自作曲をはじめ、歌ってみた、演奏してみた、イラスト、MV、果てはネギを振る人形まで。エンターテイメントの坩堝ともいえる状況は毎日が刺激的だった。

そのうち「自分も何かをしてみたい」と思うようになった。
当初は素直に作曲をしてみようと思い『巡音ルカ』を購入してはみたものの、高校程度の知識では中々形にならず、そのまま放置となってしまった。
一から何かを始めるよりは既に出来ることをした方が良いのではないか?と思い始めた矢先に島袋八起氏から連絡があった。
「ボカロで批評本作ります」

島袋氏は僅か1週間という短期間でコピ本同人誌『ボカロクリティーク』を完成させた。
そしてそれを手に取った私は「次は私にも参加させてください!ボーマスに出しましょう!」と食いついた。
高校、大学と冊子作りをやっていた私はDTMはサッパリだがDTPならある程度環境が揃っていたので直ぐに作業を開始できた。
それまでオフ会等で構築したツテを徹底的に活用して作成したのがボカロ批評同人誌『VOCALO CRITIQUE』だった。
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『VOCALO CRITIQUE』は同人誌としては驚異的なペースで刊行された。
調子に乗ってイベントの度に新刊を出した結果、2年半で10号も刊行してしまった。
しかし一気に進めすぎて疲れてしまったこと、仕事のほうでも大きな変化があったので2013年3月で休刊とした。
(サークルとしてはこの後『ボカロ批評』を2号出すが、編集担当が変わったので割愛する。)

かつてエリス島に上陸した人々は、その後もニューヨークに留まる者、アメリカ各地に散った者、それぞれの道を歩むこととなる。

『ボカロ批評』も終わった頃には、私は以前ほどボカロ曲を聴かなくなっていた。
新曲を追うのは大変だし、世の中にはまだ私の知らない音楽が山ほどある。
敬愛するボカロPは今でも新たな音楽を作っている。

しかし、一ボカロリスナーであった事が無意味で有ったかと言えば断じて否である。
『ボカロ』という言葉で乱暴に一つに括られた中には多種多様な要素や背景が有った。
ボカロが無ければ私はライブハウスにもクラブにも足を踏み入れなかっただろう。
様々な知識や経験を凝縮して吸収出来たのだ。

「散った者」である私には今の流行りは皆目分からない。
当時に知り合った人々とは今でも親交があり、時折再会しては楽しく話をしている。
辺境に居着いた者は幸せな過去を振り返る。
「ボカロ」は素晴らしい「入り口」だった。