流行りだの売り上げだの覇権だの、そういう話題になると必ず出てくる言葉。
「まわりなんか気にしなくていい、自分が楽しめたらそれでいい」
ネット界隈および当ブログのブックマークなどを見ると、この手のコメントが多いこと多いこと。
たいてい上から目線の自称玄人オタクの方々に多い発言だが・・・
誰にでもいえる正論ですからね、簡単ですよね。
でも、そういう人たちに聞いてみたい。
「じゃあ、なんであなたはわざわざネットにアニメ感想つけてるの?」
「自分が楽しめたらそれでいい」、確かに正論だ。
誰とも通じ合わなくていい。100%自己完結。ある種の理想郷ではないだろうか。
しかし、それを言う人がネットに感想を落とし、「感覚の共有」を求めている姿が多数見られるのはなぜか?
ネットに感想を書くという行為を、人はなぜするのか?twitterなりブログなり2chなり、貴重な空き時間を割いてまでなぜネットに感想を書くのか? アニメ視聴が好きなだけなら、ネットなんか見ないでずーーっとアニメ見てたらいい話。「書くことで自分の思考を整理したいから」それならメモ帳でやれば済む話。なぜ、あえてネットを選ぶ必要があるのだろうか?
ネットに感想を書く――つまり、他人に自分の感想を見せる――そんなことをするのは、「自分の感覚を共有してもらいたいから」に他ならない。私だってそうだ。少しでも自分の気持ちが通じればいいなと思って記事を書く。閲覧数やブックマーク、好意的なコメントが多ければうれしい。
アニメ感想に限らず、自らの利益にもならないことをわざわざネットという公開の場で発言する理由は「共有」にしかない。「自分が楽しめたらそれでいい」という自己完結至上主義の発言すらも、ネットに書いた時点で「みんなも『自分が楽しめたらそれでいいって思ってるよね?』」と共感を求めているものであり、発言自体が自己完結から逸脱したものになっているという矛盾が生じている。
どうしても人間というものは完全に孤独には生きられない。仲間がいるということに惹かれてしまう。周りのいうことが気になってしまう。「自分が楽しめたらそれでいい」という存在自体が矛盾した発言は、その道理から目を背けようとしている強がりにしか見えない。
余談
だからといって、流行りの作品ばっか追いかけて自分の好みが見えないという人は大嫌いです。
「自己完結」と「共有」、この間をふらふらさまよい続ける、そんなものなんじゃないかなあ、と思います。
「まわりなんか気にしなくていい、自分が楽しめたらそれでいい」
ネット界隈および当ブログのブックマークなどを見ると、この手のコメントが多いこと多いこと。
たいてい上から目線の自称玄人オタクの方々に多い発言だが・・・
誰にでもいえる正論ですからね、簡単ですよね。
でも、そういう人たちに聞いてみたい。
「じゃあ、なんであなたはわざわざネットにアニメ感想つけてるの?」
「自分が楽しめたらそれでいい」、確かに正論だ。
誰とも通じ合わなくていい。100%自己完結。ある種の理想郷ではないだろうか。
しかし、それを言う人がネットに感想を落とし、「感覚の共有」を求めている姿が多数見られるのはなぜか?
ネットに感想を書くという行為を、人はなぜするのか?twitterなりブログなり2chなり、貴重な空き時間を割いてまでなぜネットに感想を書くのか? アニメ視聴が好きなだけなら、ネットなんか見ないでずーーっとアニメ見てたらいい話。「書くことで自分の思考を整理したいから」それならメモ帳でやれば済む話。なぜ、あえてネットを選ぶ必要があるのだろうか?
ネットに感想を書く――つまり、他人に自分の感想を見せる――そんなことをするのは、「自分の感覚を共有してもらいたいから」に他ならない。私だってそうだ。少しでも自分の気持ちが通じればいいなと思って記事を書く。閲覧数やブックマーク、好意的なコメントが多ければうれしい。
アニメ感想に限らず、自らの利益にもならないことをわざわざネットという公開の場で発言する理由は「共有」にしかない。「自分が楽しめたらそれでいい」という自己完結至上主義の発言すらも、ネットに書いた時点で「みんなも『自分が楽しめたらそれでいいって思ってるよね?』」と共感を求めているものであり、発言自体が自己完結から逸脱したものになっているという矛盾が生じている。
どうしても人間というものは完全に孤独には生きられない。仲間がいるということに惹かれてしまう。周りのいうことが気になってしまう。「自分が楽しめたらそれでいい」という存在自体が矛盾した発言は、その道理から目を背けようとしている強がりにしか見えない。
余談
だからといって、流行りの作品ばっか追いかけて自分の好みが見えないという人は大嫌いです。
「自己完結」と「共有」、この間をふらふらさまよい続ける、そんなものなんじゃないかなあ、と思います。
申し訳ありません。