「あの夏で待ってる」に関して、twitterで興味深いやりとりがあった。
ずっと頭に引っかかっていた。
過程を楽しむということはなんなのだろうか。なぜ、同じ物を観て、過程を楽しめる人、楽しめない人がいるのか。
ちなみにこの記事を書いてる時はまだアニメの終盤まで観ていないです。どういう最終回だったのかも知りません。
anonatsu

 
貴月イチカ - 戸松遥
霧島海人 - 島崎信長
谷川柑菜 - 石原夏織
石垣哲朗 - 荻原秀樹
北原美桜 - 阿澄佳奈
山乃檸檬 - 田村ゆかり
過程について考える前に、その先の到達点について考えてみる。
これはもう3話もいかずにわかっている。イチカと海人が両想いになることである。そして、その過程において柑菜は振られるであろう。
これはもう全ての視聴者に自明だと思われる。ヒロインのイチカが海人の家に居候して、姉は去って、主人公海人が告白した時点で明確である。
では、過程とは?
1) イチカが海人に惚れていく過程
2) 柑菜が海人に振られる過程
3) イチカの秘密が分かっていく過程
以上の3つが考えられる。
1) イチカが海人に惚れていく過程
カップルのうち、海人のほうは序盤でイチカに惚れてしまっているので、イチカが海人に惚れていく展開が楽しみの1つになる。途中の感情の起伏を視聴者は感情移入をしながら楽しんでいく。
ところが、同居するという大きな心理的障壁をイチカが軽々と超えてしまっている。なおかつ、普通の地球人とは異なる性格という設定が原因で、視聴者は共感をおぼえるのは難しいキャラクターとなっている。
イチカはいつ一線を超えて海人を好きになってもおかしくはないし、そこに感情移入するのは難しい。
2) 柑菜が海人に振られる過程
ギャルゲーものやラブコメものでよくある主人公がどのヒロインとくっつくかというのを楽しむ。各ヒロインにフラグが立ちかけるたびに視聴者は一喜一憂する。
この作品の場合は海人がイチカに序盤で惚れてしまっているので、柑菜の方向に揺れ動くことはない。したがって、柑菜の恋が終わるまでの終わるまでの過程をほろ苦い気分で見つめることになる。
しかし、檸檬先輩、柑菜、哲朗、美桜をからめてドタバタになってしまっている。メイン二人が同居を始めたというのに対して、柑菜の焦燥感が薄い。そのため、この展開はシリアス感に欠け過ぎていて印象が積み重なっていかないのである。
3) イチカの秘密が分かっていく過程
恐らく宇宙人であろうイチカの秘密が解けていく過程を楽しむ。これは登場人物たちが重要視していない。
一見イチカは気にしているように見えるが、シナリオの大半は登場人物達の関係の描写に割かれている。視聴者としてはこの過程がそほど重要ではないことを推測することができてしまう。そのため、むしろこの設定自体が不必要にすら思えてしまうのだ。
そして、大抵の視聴者にとって恋愛のほうが重要である。この過程は楽しめたとしても比率は小さい。イチカが何者であるかはどうでもいいのだ。

どれも過程に起伏がない、意外性も用意されていない。実は私自身も「あの夏で待ってる」に関しては楽しみつつも何か満足できないでいたのだ。柑菜や海人やイチカが悩む姿を見たい。一歩進んではギクシャクする意外性を毎回楽しみたいと思っていたのだ。

これらの結果を重要視しない行動を楽しむということ。
ここからふと思い出すことがあった。武道館を目指さない軽音部。そう、「けいおん!」である。「あの夏で待っている」は日常系アニメだったのだ。
軽音部が上達していくのを楽しむのではないと同様に、イチカ達の人間関係が進んでいくのを楽しむアニメではなかったのだ。その世界にひたって時間が進んでいくのを楽しむものだった。
「あの夏で待っている」はラブコメアニメなのではない、日常系アニメなのである。


余談ではあるが、似たものを1つ思い出した。エンドレスエイトだ。
これも結果は分かっていて過程に意味はない。エンドレスエイトは私にとっては非常につまらなかったが、日常系アニメとして楽しめた人はいたのであるうか。
私、気になります。