昔同人誌に幼女が巨大化する漫画を寄せたら「田中さんのはちょっと違うな」と言われて。ロリの人から排除されるのって喜んでいいのか分からないけど、当時はそう言われて寂しかった。でもその漫画見て吾妻さんがアシスタントにしてくれて。このマニアと作家のすれ違いが面白い。分かりますかね(笑)
— 田中雅人 (@tanamach) November 27, 2023
んで吾妻先生が失踪して無職になり仕方なく白泉社で漫画描いてたら(アシスタントの方が気が楽だった)突然先生から電話がかかってきて「今月号の短編面白かったよ!」というので「ど、どこにいるんですか?!」と聞いても教えてくれなかった。これにもいろいろ経緯あって字数
— 田中雅人 (@tanamach) November 27, 2023
本当に白泉社では仕方なくデビューしたんですよ。まだあまり上手く漫画が書けなくてあと数年はアシで生計立てて修行したかったから。それがいきなり月刊連載させるんですよ。アシスタント体制も整ってないのに月産40枚とか描けるわけが無いんです。経験のない出版社だとこういうことが起こります。
— 田中雅人 (@tanamach) November 27, 2023
その1 デビュー前
そんなこと普通言えませんよね。
というかこの時点でこのK編集さんの本質を見抜くべきでしたね。
これが、そういう人たちが海千山千の編集ゴロって揶揄される所以でしょうね。
でもこちらも漫画業界に長くいるつもりも無かったですし、どちらにしてもバイト気分でしたので、いいですよと、当時は油断していましたね。
今となっては面白いですけどね。
・アシスタントになってから
ここから年代記になりますが、かがみさんの仕事場に初めて入ったのは1983年2月頃だったと思います。
かがみさんが亡くなったのは同じ年の8月ですから、きっちり半年しかいなかった計算になります。
アシスタントに入ると同時に缶詰になり帰れるのは一週間後、それが月2~3回、そんな生活が始まりました。
しかもその一週間のトータル睡眠時間が(計ってました)12時間なんて感じでした。
でも若かったんでわりと平気だったんですよね。
その時代のマイナー漫画界の寵児だったかがみさんだから、いろんな人が仕事場へ来るんですね。
まずアシのレギュラーメンバーが大屋正宏さんと船戸ひとしさん、増田晴彦(寄生虫(よりうむし))さんで、イラストレーターの鈴木雅久さんが時々遊びに来てモブや背景描いてくという感じでした。
編集さんでは漫画ブリッコの大塚英志さんがつきっきりであとアニメックの某さん、同郷のよしみで張り付く編集Kさんが入れ替わり立ち代わりで、夏近くになると小学館の編集さんも来て、かがみさんもいよいよメジャーデビューかという雰囲気になって、その頃に既に小学館でメジャーデビューが決まってたゆうきまさみ先生とかがみさんがよく長電話してたんですね。
電話では原田知世の話で盛り上がっているようで、確か時かけ同人誌も見せてもらいましたが、僕は尾道第一作目の『転校生』にどハマりした大林宣彦監督ファンで小林聡美派だったので関係なかったですね(苦笑)
でもアニメのデザイナーの出渕裕さんとかも来てて『廃市』の小林聡美の階段上がるシーンは良かったよねなんて話をしました。
その頃からの見上げフェチだったんですかね(笑)
その頃、確かかがみさんからの紹介でゆうき先生の描き下ろし単行本の手伝いに呼ばれ確か2週間くらいそちらのスタジオにいました。
やっぱり漫画家無理だと思ったのはその時ですね。
先生一週間くらい平気で寝ないんですよね。
しかも描くのがとてつもなく早い。
自宅が近かったので気軽に引き受けたんですが死ぬかと思いました(笑)
鈴木雅久さんとはよく向かい合わせで描きましたが、背景は辺の線を飛ばすとそれっぽくなるんだよとか教えてくれましたね。
すごくいい方で、おそらくあの仕事場にいた人のなかで一番いい方でしたね。
「一日徹夜するとシナプスが数千本切れるんですよ」とかも言ってました。
懐かしい思い出です。
後年話す機会がなくなってしまったのは今でもとても残念に思っています。
漫画も同人誌でしか描かなかったし、昔話もかねて詳しい話を聞いてみたかったです。
後悔というか、そういうのが多いです。
それでX(旧Twitter)で船戸さんとか心配になってDMしてみるとそっけなくされたりする人生です(笑)
そんなアシ始めて少しした春先の2~3月頃に、僕の漫画がK編集さんの「マルガリータ」(笠倉出版社)というムックに載ったんですね。
作品はひとりで描いた『メビウスサーガ』でした。
正直描いていてもあまり面白くありませんでした。
これも編集さんの希望だったので仕方ないのですが。
まぁそのムックは当時(アニメーターに漫画を描かせることで)話題になっていた徳間の「モーションコミック」のパクリ雑誌でしたが、自分の漫画が初めて載ったので一応は嬉しかったです。
「これで俺もプロの漫画家」とかは思いませんでしたけどね。
当時だったか「漫画家は単行本出してはじめて名乗れる」なんて聞いてましたが、いまではそれすら怪しいですよね。
後の90年代に入ってからモーニング系のコミックスが初版5千部と聞いて驚いた記憶があります。
かがみさんとか先生方は電話でいつから寝てない昨日は1時間寝たなんて売れっ子の勲章みたいに話しているんですよね。
かがみさんは肥満体質で医者がかりとなりダイエット始めると言って烏龍茶のパックをいつも机の上に置いていました。
今から思えば睡眠不足の上に運動不足でダイエットなんて無理な話なんですが、その頃はそんなもんだとしか思いませんでしたね。
売れっ子漫画家は体力も強靭なんだなぁくらいにしか思いませんでした。
・先生の死
それで7月に入ったある日仕事場でかがみさんと偶然ふたりきりになり、疲れてたんでしょうね、なんとなく遠い目をして大学時代に別れた彼女の話を始めるんですね。
異常かと思えるくらいクーラーでキンキンに冷やした部屋で、確か自律神経失調症だと診断されたと言っていました。
彼女の話はかがみさんが「あぽ」という別名で描かれていた『ワインカラー物語』にある通りだと思うので省きますが、どういうつもりか昔の大学時代の画稿を押入れから掘り出して見せてくれたんですね。
他の人にあまり言っちゃダメだよと言いながら。
それが当時と絵柄がまったく違う、少女漫画風の(萩尾望都系)絵柄でした。
実は当時のかがみさんの絵柄にも元ネタがあったわけですが、そういうことは思わずに素直に「上手い人は何描いても上手いんだなあ」としか思いませんでした。
なんであんな重い話になったのかきっかけは憶えていないんですが、今思い出すと深い井戸の底で話していたような情景が浮かぶんですよね。
それから半月も待たずにかがみさんは亡くなってしまいました。
夏のコミケに出すコピー本の原稿を早く描けよとか冗談ぽく言ってきた電話が最後だったと思います。
確か他が忙しくて描けなかったような気がします。
電話で突然の報せを聞いて呆然としながらも、売れっ子漫画家は体力が強靭なのではなく、やっぱり無理して寝てなかっただけなんだと思い知りました。
それで数日して名古屋からご両親ご親族が駆けつけて東京でのお葬式となりました。
優しそうなご両親で意気消沈してて、こちらはただ見ているしか出来ませんでしたけど。
特に船戸さんが気の毒でしたね、第一発見者でしたから。
しかしそこで意外な事実を知ることになりました。
読経が始まりお坊さんが享年何々歳と読み上げるんですが、なんとかがみさんも年齢2歳サバ読んでいたということが分かったんですよ。
最初からかがみさんの方が年上だったわけで、亡くなったこと以上にそっちの方が愕然としましたね。
「あららお互いサバ読みしたまま逝ちゃった…」
今じゃあまり関係ありませんが、二十代の頃の1歳2歳違うってのはけっこう大きいんですよね。
若い頃はものすごい勢いで物事が展開して行きますし。
実際その半年間の出来事もそうでしたし。
でも僕はそのせいでサバ読みのままやって行かないといけなくなりました。
まぁあまり年齢を言われることなかったですけどね。
その時25歳だったかな。
その機会にみんなに言えば良かったんですよね、僕も2歳サバ読んでたって。
確かにこれから漫画家始めるには遅いって意識もありましたけどね。
でも手塚治虫さんも確か2歳くらいサバ読んでたのが後に亡くなって分かったんですよね。
漫画家は2歳サバ読めって決まりがあるんですかね。
実際出版社に持ち込みする時は年は聞かれますが履歴書なんて持参しませんよね。
最近だと免許証見せろとか、ありそうですが。
アニメックの編集さんは僕たちの手を握って「みんなでかがみくんの絵をパクってやってくれよな!」と泣きました。
でもその事件で僕はこのまま漫画家でやっていくしかないなと思ったんです。
なんかそう思ったんですよね。
それで、お葬式が終わりかがみさんの仕事場へ帰るとご両親がいて、形見分けでなんでも好きなものを持っていってくださいとおっしゃる。
みんなそんなこと言われてもと戸惑っていると、編集Kがにこやかに「じゃあ僕はこれを」とかがみさん愛用の大きな二灯式のデスクライトを仕事机から引っこ抜くと、それ戦利品のように抱えてとっとと引き上げていくんですよ。
なんというか無情の世界というか…。
これが後に依頼が来てもロリポップに描かなかった理由なんですけどね。
今から思えば喪失感を誤魔化すために怒りをそっちに向けていただけかも知れないですね。
でも、それから周辺の漫画家はみんな夜寝るようになりました。
(了)
かがみさんのアシスタント編は以上になります。
では次回は吾妻先生編になると思います。
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注1)僕が高校生の頃、 父が児玉誉士夫が顧問の東亜相互企業にいたために警察庁の聴取を受け、支持団体の口封じを恐れ全国を点々とするようになり、実家の収入も絶たれて進学どころじゃなくなった戦後日本史。今でも立花隆見ると腹が立ちます(苦笑)
注2) 確かこれでした。今見てもカッコいいですよね。
コメント
コメント一覧 (2)
当時 購入した氏の各単行本は秘蔵コレクションです。
あの独特の色使いのカラーイラスト、マクロスやザブングル時代のメカニカル絵はいまだに新鮮だと思っています。
特にワインカラー物語のカラー表紙絵。素敵でした。
未完の作品が多数あり、残念でなりません。
アニパロとかならファン(互助会)が買ってくれる訳だけど
コミケというお祭り騒ぎの中に参加したいだけの人が多かった