かがみさんマンション

いらはいませ。
まず、吾妻ひでお先生関連のXポストが3本あってこんな感じでした。



というわけで、過去のことに興味ある人がたくさんいる様なので、デビュー前後の面白そうなことをここで書こうかなと思います。
PixivFANBOXでやるのは、ここを今までうまく使えていなかったから。
以後よろしくお願いいたします。

ちなみにこのXエントリは吾妻ひでお先生の件に関してでしたが、ならばその前のかがみ☆あきらさんのことも書きたいと思うので、ちょっと遡って書くことにします。

その1 デビュー前

・萌え絵に目覚める頃

1977年、ロッキード事件の余波で大学進学を諦めた(注1)僕は、しばらく地元で叔父の営む美術工芸のアルバイトをしていましたが、いろいろあって一人暮らしするために練馬区早宮へ引っ越しました。
漫画を描くのなら千葉県我孫子市の実家住まいの方が楽だったんですが、高校時代から参加していた漫画同人でいろんな漫画を描いて来ていて、自分の才能に限界を感じ、生活を大きく変えようと思ったんです。
長い同人生活で、自分よりよっぽど達者な漫画家志望の人の苦労を見てきていて、漫画家に向いてないと判断していたんですね。

それで引っ越しと前後して同じ同人仲間と、もう漫画同人はマンネリに陥っているので休止することになりました。
気分も一新し、前々から考えていた文章主体のミニコミ誌を出そうという話になって、晴海のコミケ出店を目指してみんなで編集を始めました。

れとりか2

そのミニコミ誌を順調に1~2号と出して、そこでみんなでリレー漫画として描いたのが『メビウスサーガ』でした。
出来上がったミニコミ誌は当時特撮SFX関係で話題になっていた雑誌「宇宙船」に送って編集長の聖咲奇さんに寸評もらったりして調子に乗ってましたね。
その主人公キャラの元絵になったのが、僕がなんの気無しに描いたメビウスちゃんって少女の顔絵だったわけです。
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なんでそんな美少女タイプのキャラを描いたかと言うと、引っ越す前のバイト先に熱心な宮崎駿ヲタがいまして、美少女絵というのはどういうものか僕に熱心に説くんですね。
「田中さん宮崎美少女はこういう感じです。こういうの描いてみてください」と。
昔っからヲタって絵描けるやつに気軽に絵を描くの頼みがちですよね。
なるほど未来少年コナンラナか、という感じでなんとなく描いてみせると大喜びで、じゃあ職場のマイコンに入力してディスプレイに表示してみようと。
その当時やってたバイトというのは地元にあった電力中央研究所で、内容はダム用コンクリート耐圧試験
何百という割合でコンクリートを練って骨材と混合して固め、耐圧試験にかけてデータを記録していくという単純作業だからバイトにやらせてたわけですね。
そこにあったマイコンは日立のベーシックマスターMB-6880だったと思います。(注2)

まず女の子の顔絵を方眼紙にトレースして、その線画の座標をひとつずつキーボードで打ち込んでいく当時のCGの手法で、緑色の線画がゆっくり上から表示されてくる様に「トロンみたいだぞ」と未来を感じ、彼はしきりに緑のドット絵に「かあいい…かあいい」とつぶやくんですね。
なんというか、そういう人が本当のヲタエリートなんでしょうね。
僕なんかとは違うんです。
その描画データはカセットテープに記録して持ち帰ったのに無くしましたねw
その頃、電研のダム担当の主任には奥田さんという昭和の日本のダム建設を指導してきた方がいまして、どうも僕のコンクリ破砕実験のデータ取得の筋がいいということで呼び出され、「田中君、一緒にダムを打ってみないか」と言うんです。
目眩がしましたね。
筋もクソも隠れて研究所のパソコンで美少女のドット打ってたんですからね。
そこからですね美少女しか描かなくなったのは。
それ意外絵は描いてもつまんなかった。
美少女はあらゆる世事を、つまらぬ日常を淘汰するのに気付いたんですね。
今になれば分かるけど、あれは一種の麻薬で描き手はジャンキーですね。
奥田さんについてダム打ってればきっと一生生活安泰だったのに、職場の伏兵にタッチの差でヤク中にされていたんですね(比喩の筋が悪いぞw)

・ひょんなことからかがみ☆あきらさんのアシスタントになるまで

さて晴海のコミケ出店も3度めくらいで慣れてきた頃、3号掲載用の漫画のあてが無くなり、仕方無しに個人で4Pくらいの二次創作みたいのを巻末に載せました。
よく憶えてないんですが宮崎美少女がペンギンに襲われるショートギャグだった気が…。
これをたまたまブースにやってきた流しの編集が目に留め、その場で名刺を出し「雑誌やってるんだけどうちで描かないか」と言って来ました。
その編集がのちに雑誌ロリポップを出すことになる編集Kさんでした。
ずいぶん気軽に依頼するんだなと驚きましたが、後から思ったのはそういうゴロはかわいい絵をナンパしてるような感覚なんでしょうね。
描き手なんてどうでもいい、そのかわいい絵をナンパしているんです。
だから編集ゴロなんです。
彼はそこで描いてるかがみ☆あきらさんと同郷らしく、アシスタントの手も足りないから高田馬場の先生の仕事場に来てくれよと言われ、話に乗ることになってしまいました。
その時は経験不足だし相手の名刺が商業誌だということで目眩ましにあったのかも知れません。
そこでわりと軽い気持ちで漫画家のアシに入ることになりました。
日給から計算すると当時していたタオル配送のバイトより高収入になりそうだからアシに入ることにしたんですよね。
だからかがみ先生のことも漫画ブリッコのことも興味ないというか知りませんでしたね。
僕が漫画に熱心になっていたのは、その数年前、「コミックアゲイン」の頃まででした。
所謂ポストCOMの頃までで、なにせ石森章太郎の漫画家入門が聖書の世代でしたからね。
「未来少年コナン」は面白くて観てましたけどね。
で、それ以降は漫画よりSF小説の方が面白いなと思っていましたし、今で言うライターみたいので食っていけないかなと「東京おとなクラブ」に連絡したりしてたんですよね。
あれは惜しかったですね、掠りましたね。
そんな話をかがみさんの仕事場でもしてたから「田中君はサブカルの人だな」なんて言われたりしたんですが、僕はSF小説やホラー小説の熱心な読者だったんですよね。
ほらスティーヴン・キングとか日常的なガジェットとしてあらゆる商品の実名を小説でどんどん入れ込んだりしてたじゃないですか。
サブカル系の知識吸収もそういう文章を書くための日常的な知識収集に過ぎないんですよね。
閑話休題。

そこで、そこでですよ。
その某編集Kさん某が「田中君、かがみさんの1歳年上だからアシに入るため2歳サバ読んでくれよ」と言うのです。
これが後々いろいろトラブルの元となり…。

分かりますよね、これは人に嘘をつけと言ってるわけで、その後長い間業界にいるかも知れない(本来なら誘ってる時点でそう思うべき)相手に一生嘘をついていけと言ってるに等しいわけです。

そんなこと普通言えませんよね。

というかこの時点でこのK編集さんの本質を見抜くべきでしたね。

これが、そういう人たちが海千山千の編集ゴロって揶揄される所以でしょうね。

でもこちらも漫画業界に長くいるつもりも無かったですし、どちらにしてもバイト気分でしたので、いいですよと、当時は油断していましたね。

今となっては面白いですけどね。

・アシスタントになってから

ここから年代記になりますが、かがみさんの仕事場に初めて入ったのは1983年2月頃だったと思います。

かがみさんが亡くなったのは同じ年の8月ですから、きっちり半年しかいなかった計算になります。

アシスタントに入ると同時に缶詰になり帰れるのは一週間後、それが月2~3回、そんな生活が始まりました。

しかもその一週間のトータル睡眠時間が(計ってました)12時間なんて感じでした。

でも若かったんでわりと平気だったんですよね。

その時代のマイナー漫画界の寵児だったかがみさんだから、いろんな人が仕事場へ来るんですね。

まずアシのレギュラーメンバーが大屋正宏さんと船戸ひとしさん、増田晴彦(寄生虫(よりうむし))さんで、イラストレーターの鈴木雅久さんが時々遊びに来てモブや背景描いてくという感じでした。

編集さんでは漫画ブリッコの大塚英志さんがつきっきりであとアニメックの某さん、同郷のよしみで張り付く編集Kさんが入れ替わり立ち代わりで、夏近くになると小学館の編集さんも来て、かがみさんもいよいよメジャーデビューかという雰囲気になって、その頃に既に小学館でメジャーデビューが決まってたゆうきまさみ先生とかがみさんがよく長電話してたんですね。

電話では原田知世の話で盛り上がっているようで、確か時かけ同人誌も見せてもらいましたが、僕は尾道第一作目の『転校生』にどハマりした大林宣彦監督ファンで小林聡美派だったので関係なかったですね(苦笑)

でもアニメのデザイナーの出渕裕さんとかも来てて『廃市』の小林聡美の階段上がるシーンは良かったよねなんて話をしました。

その頃からの見上げフェチだったんですかね(笑)

その頃、確かかがみさんからの紹介でゆうき先生の描き下ろし単行本の手伝いに呼ばれ確か2週間くらいそちらのスタジオにいました。

やっぱり漫画家無理だと思ったのはその時ですね。

先生一週間くらい平気で寝ないんですよね。

しかも描くのがとてつもなく早い。

自宅が近かったので気軽に引き受けたんですが死ぬかと思いました(笑)

鈴木雅久さんとはよく向かい合わせで描きましたが、背景は辺の線を飛ばすとそれっぽくなるんだよとか教えてくれましたね。

すごくいい方で、おそらくあの仕事場にいた人のなかで一番いい方でしたね。

「一日徹夜するとシナプスが数千本切れるんですよ」とかも言ってました。

懐かしい思い出です。

後年話す機会がなくなってしまったのは今でもとても残念に思っています。

漫画も同人誌でしか描かなかったし、昔話もかねて詳しい話を聞いてみたかったです。

後悔というか、そういうのが多いです。

それでX(旧Twitter)で船戸さんとか心配になってDMしてみるとそっけなくされたりする人生です(笑)

そんなアシ始めて少しした春先の2~3月頃に、僕の漫画がK編集さんの「マルガリータ」(笠倉出版社)というムックに載ったんですね。

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作品はひとりで描いた『メビウスサーガ』でした。

正直描いていてもあまり面白くありませんでした。

これも編集さんの希望だったので仕方ないのですが。

まぁそのムックは当時(アニメーターに漫画を描かせることで)話題になっていた徳間の「モーションコミック」のパクリ雑誌でしたが、自分の漫画が初めて載ったので一応は嬉しかったです。

「これで俺もプロの漫画家」とかは思いませんでしたけどね。

当時だったか「漫画家は単行本出してはじめて名乗れる」なんて聞いてましたが、いまではそれすら怪しいですよね。

後の90年代に入ってからモーニング系のコミックスが初版5千部と聞いて驚いた記憶があります。

かがみさんとか先生方は電話でいつから寝てない昨日は1時間寝たなんて売れっ子の勲章みたいに話しているんですよね。

かがみさんは肥満体質で医者がかりとなりダイエット始めると言って烏龍茶のパックをいつも机の上に置いていました。

今から思えば睡眠不足の上に運動不足でダイエットなんて無理な話なんですが、その頃はそんなもんだとしか思いませんでしたね。

売れっ子漫画家は体力も強靭なんだなぁくらいにしか思いませんでした。

・先生の死

それで7月に入ったある日仕事場でかがみさんと偶然ふたりきりになり、疲れてたんでしょうね、なんとなく遠い目をして大学時代に別れた彼女の話を始めるんですね。

異常かと思えるくらいクーラーでキンキンに冷やした部屋で、確か自律神経失調症だと診断されたと言っていました。

彼女の話はかがみさんが「あぽ」という別名で描かれていた『ワインカラー物語』にある通りだと思うので省きますが、どういうつもりか昔の大学時代の画稿を押入れから掘り出して見せてくれたんですね。

他の人にあまり言っちゃダメだよと言いながら。

それが当時と絵柄がまったく違う、少女漫画風の(萩尾望都系)絵柄でした。

実は当時のかがみさんの絵柄にも元ネタがあったわけですが、そういうことは思わずに素直に「上手い人は何描いても上手いんだなあ」としか思いませんでした。

なんであんな重い話になったのかきっかけは憶えていないんですが、今思い出すと深い井戸の底で話していたような情景が浮かぶんですよね。

それから半月も待たずにかがみさんは亡くなってしまいました。

夏のコミケに出すコピー本の原稿を早く描けよとか冗談ぽく言ってきた電話が最後だったと思います。

確か他が忙しくて描けなかったような気がします。

電話で突然の報せを聞いて呆然としながらも、売れっ子漫画家は体力が強靭なのではなく、やっぱり無理して寝てなかっただけなんだと思い知りました。

それで数日して名古屋からご両親ご親族が駆けつけて東京でのお葬式となりました。

優しそうなご両親で意気消沈してて、こちらはただ見ているしか出来ませんでしたけど。

特に船戸さんが気の毒でしたね、第一発見者でしたから。

しかしそこで意外な事実を知ることになりました。

読経が始まりお坊さんが享年何々歳と読み上げるんですが、なんとかがみさんも年齢2歳サバ読んでいたということが分かったんですよ。

最初からかがみさんの方が年上だったわけで、亡くなったこと以上にそっちの方が愕然としましたね。

「あららお互いサバ読みしたまま逝ちゃった…」

今じゃあまり関係ありませんが、二十代の頃の1歳2歳違うってのはけっこう大きいんですよね。

若い頃はものすごい勢いで物事が展開して行きますし。

実際その半年間の出来事もそうでしたし。

でも僕はそのせいでサバ読みのままやって行かないといけなくなりました。

まぁあまり年齢を言われることなかったですけどね。

その時25歳だったかな。

その機会にみんなに言えば良かったんですよね、僕も2歳サバ読んでたって。

確かにこれから漫画家始めるには遅いって意識もありましたけどね。

でも手塚治虫さんも確か2歳くらいサバ読んでたのが後に亡くなって分かったんですよね。

漫画家は2歳サバ読めって決まりがあるんですかね。

実際出版社に持ち込みする時は年は聞かれますが履歴書なんて持参しませんよね。

最近だと免許証見せろとか、ありそうですが。

アニメックの編集さんは僕たちの手を握って「みんなでかがみくんの絵をパクってやってくれよな!」と泣きました。

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でもその事件で僕はこのまま漫画家でやっていくしかないなと思ったんです。

なんかそう思ったんですよね。

それで、お葬式が終わりかがみさんの仕事場へ帰るとご両親がいて、形見分けでなんでも好きなものを持っていってくださいとおっしゃる。

みんなそんなこと言われてもと戸惑っていると、編集Kがにこやかに「じゃあ僕はこれを」とかがみさん愛用の大きな二灯式のデスクライトを仕事机から引っこ抜くと、それ戦利品のように抱えてとっとと引き上げていくんですよ。

なんというか無情の世界というか…。

これが後に依頼が来てもロリポップに描かなかった理由なんですけどね。

今から思えば喪失感を誤魔化すために怒りをそっちに向けていただけかも知れないですね。

でも、それから周辺の漫画家はみんな夜寝るようになりました。

(了)

かがみさんのアシスタント編は以上になります。

では次回は吾妻先生編になると思います。



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注1)僕が高校生の頃、 父が児玉誉士夫が顧問の東亜相互企業にいたために警察庁の聴取を受け、支持団体の口封じを恐れ全国を点々とするようになり、実家の収入も絶たれて進学どころじゃなくなった戦後日本史。今でも立花隆見ると腹が立ちます(苦笑)

注2) 確かこれでした。今見てもカッコいいですよね。

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・良ければお布施お願いいたします。