京都市伏見区の鉄道地図を見ていると、少し不思議なことに気づきます。
伏見区内を南北に走る鉄道路線は、京阪本線、近鉄京都線、JR奈良線の3本ですが、これらの路線が、伏見区役所の東の辺りでは、かなり近い距離に接近して並んでいるのです。
このあたりは、京阪本線が丹波橋駅と伏見桃山駅、近鉄京都線が近鉄丹波橋駅と桃山御陵前駅、そしてJR奈良線が桃山駅があるのですが、これら5つの駅は、750m四方の中にかたまっています。
伏見丹波橋付近の地図
http://map.livedoor.com/map/?lng=135.76722503541518&lat=34.94469729204536&zoom=6
京阪丹波橋駅と近鉄丹波橋駅は、乗換駅として、連絡通路で結ばれてはいますが、この2つの私鉄とJR奈良線は、線路は繋がっていませんし、それぞれ、独自のダイヤで、とくに連絡も接続もしてはいません。
京阪は、京都市の繁華街、四条や三条方面へ、近鉄とJR奈良線は、京都駅へと向い、この中で近鉄は、京都市営地下鉄との相互乗り入れをしているので、おおまかには、三者は、ライバル関係にあるとも言えなくはありません。
京阪電鉄は、軌間1435mmの標準軌で、車体の長さは18m級。
近鉄は、軌間は、京阪と同じ1435mmですが、車体の長さは21m級で、幅も京阪より少し大きめ。
JRは、軌間1067mmで、車体は、長さは近鉄と同じくらいですが、幅は、さらに大きくなっています。
丹波橋付近、京阪、近鉄、JRが最も接近しているところを下板橋通の歩道橋下から眺めたもの。
一番手前の線路がJR奈良線、その先には、近鉄京都線を乗り入れている京都市交通局1000系が見え、さらにその先、1000系のすぐ上に京阪本線を走る3000系の青い車体が覗いている。
なお、この通り、下板橋通だが、現在は、JR奈良線で分断され、ここに階段と柱が写っている、奈良線とすぐ横を並走する国道24号線を跨ぐ歩道橋で繋がっているだけになっている。
今は、同じ地域を走っているというだけで、車両の規格が異なり、とくに関連性の見受けられないこの3つの路線、実は、過去を遡ると、結構、深い関係があるのです。
まず、時系列でこの付近の鉄道の歴史を追ってみると…
伏見に影響を与えた最初の鉄道は、実は、この3つの鉄道のいずれでもなく、明治12(1879)年8月18日に開業した旧東海道本線の京都-大谷間でした。
これは、京都-神戸間を開業していた東海道線(当時は、京都神戸間鉄道)を大津まで延長する工事の一部が完成したことによるものです。
現在の東海道本線(JR琵琶湖線)は、京都を出ると、東山トンネルに入りますが、この長大トンネルを掘ることは、当時の技術では難しかったため、現在のルートとは違い、京都から南へ迂回、現在のJR奈良線のルートで稲荷駅まで向かい、その先、左へカーブして、旧山科駅を経て、大谷駅へ、そして、翌年には、逢坂山トンネルを抜けて馬場駅まで開業しています。
このルートは、現在、名神高速道路になっているのですが、それができるまでは、線路跡が残っていたそうです。
現在、京阪大津線の大谷駅がありますが、当時の大谷駅は、その近くにあったようです。
また、JR稲荷駅には、準鉄道記念物の煉瓦造りのランプ小屋が残っていますが、これは、旧東海道線時代の名残の建物です。
そして、馬場駅とは、現在の膳所駅になります。
ざっと言えは、京都から膳所まで、当時の東海道線は、JR奈良線、名神高速道路のルートを通っていたということになります。
さて、江戸時代、三十石舟発着場があった伏見は、大坂-京都間の物資の集散地として、また、京の中心部を避け、山科経由で大津方面への道もあったため、参勤交代の大名行列や一般の旅人も多く通り、一大宿場町として栄えていました。
しかし、明治に入り、先の東海道線は、伏見の北をかすめて通るだけとなり、水運から陸運へと、交通手段が変化してくると、次第に町が寂れていくことになります。
明治28(1895)年1月31日、京都電気鉄道が現在の京都駅の東あたりから竹田街道を下り、伏見下油掛、京橋の北詰までの伏見線を開業させました。
これは、我が国最初の電車の営業路線ですが、長さ5m、幅1.5mの小さな車両が、時速9.6km/hで走ったといいますから、マラソン選手よりも遅く、京都駅から伏見まで、停車時間などを含めると、1時間以上かかっていたかもしれません。
とにかく、伏見としては、本格的な鉄道が欲しいということで、京都-伏見間、さらにそれを延伸し、奈良までの鉄道が計画され、奈良鉄道が誕生、京都電気鉄道伏見線の開業と同年の明治28年9月5日、京都-伏見間を開業させました。
その年の11月には、伏見-桃山間が開業し、以降、翌年4月までには、京都-奈良間が全通しました。
これが、現在のJR奈良線です。
実は、この奈良鉄道のルートのうち、京都-桃山間は、現在、近鉄京都線となっているところを走っていました。
現在の近鉄京都から近鉄丹波橋までのルートを通り、そこから、左へ、御香宮の北東の端をかすめるようにして、現在のJR奈良線の線路へと繋がっていました。
東海道線が現在のルート、東山トンネルと逢坂山トンネル(新)を抜け、山科、大津へと向かうようになるのは、大正10(1921)年で、8月1日から、同じ日から、奈良線も、現在の稲荷駅経由のルートになります。
その時、旧奈良線の京都-伏見間は廃止され、伏見-桃山間は、貨物線のなりました。
伏見駅は、貨物駅となったわけです。
さて、この間、明治43(1910)年4月15日、京阪電気鉄道が京都五条-大阪天満橋間を開業、伏見桃山駅や丹波橋駅などが設置されています。
下板橋通、先の写真に階段が写っている歩道橋から見たJR奈良線と国道24号線。
線路の写真奥が桃山駅、手前が京都方面。かつて、奈良線は、奥の線路が見えなくなるあたりから右へ、現在の近鉄丹波橋駅へ線路があった。
伏見駅が貨物駅となると、その線路は、貨物線となり、このあたりで京都へ向かう奈良線と分岐していた。
このあたりは、JRのカーブに沿う形で国道もカーブしていて、南行きは片側1車線という変則な形になっています。
写真の右手がすぐが近鉄丹波橋駅、写真中央、国道脇に見える緑の木が茂る所が御香宮の北東の端。
先の写真の足場の歩道橋。左側が近鉄、京阪丹波橋方面。
そして、歩道橋の螺旋階段部分から撮った下板橋通の近鉄、京阪の踏切。
近鉄の方にはタクシー、京阪の方には宅配業者の車が停まって、それぞれ電車の通過を待っています。
近鉄の線路の位置は、元奈良鉄道、そして、伏見への貨物線の線路の位置になる。
さて、現在の近鉄京都線となる鉄道は、澱川橋梁のところで紹介した奈良電気鉄道で、まず、西大寺から桃山御陵前までを昭和3(1928)年11月3日に開業しています。
そして、同年の11月15日には、桃山御陵前-京都間が開通します。
この奈良電気鉄道、京都へ乗り入れる際、その計画の段階で、いろいろ曲折がありました。
宇治、あるいは、伏見桃山で京阪に繋ぎ、そこからは、京阪に乗り入れる案があったのですが、ダイヤの制約などが大きいことで、結局、独自の路線を京都まで引くこととしたのですが、ここで目をつけたのが、先の奈良線のルート変更によって、京都-伏見間の廃線跡です。
巨大なトラス橋で宇治川を渡った後、伏見の市街を縫うように桃山御陵前に至り、そこから、先の奈良線跡の貨物線に現在の丹波橋駅、開業時は、堀内駅といったのですが、そこで接続し、貨物線に乗り入れて伏見、さらにそこからは、奈良線の廃線跡の払い下げを受け、それを活用して京都駅へと、路線を建設することになりました。
貨物線は、当初、奈良電鉄に乗り入れる形が検討されたようですが、運転は、1日数本程度だったこともあって、奈良電鉄の建設に入る前に廃止になっているようです。
この奈良電、伏見付近の線路を引くにあたっては、他にもいろいろと曲折がありました。
そして、その後、一旦、堀内駅を廃止し、京阪丹波橋へ乗り入れ、京阪と奈良電(近鉄)の相互乗り入れが行われたりするのですが、その辺りの話、長くなりますので、また次に譲りたいと思います。
伏見区内を南北に走る鉄道路線は、京阪本線、近鉄京都線、JR奈良線の3本ですが、これらの路線が、伏見区役所の東の辺りでは、かなり近い距離に接近して並んでいるのです。
このあたりは、京阪本線が丹波橋駅と伏見桃山駅、近鉄京都線が近鉄丹波橋駅と桃山御陵前駅、そしてJR奈良線が桃山駅があるのですが、これら5つの駅は、750m四方の中にかたまっています。
伏見丹波橋付近の地図
http://map.livedoor.com/map/?lng=135.76722503541518&lat=34.94469729204536&zoom=6
京阪丹波橋駅と近鉄丹波橋駅は、乗換駅として、連絡通路で結ばれてはいますが、この2つの私鉄とJR奈良線は、線路は繋がっていませんし、それぞれ、独自のダイヤで、とくに連絡も接続もしてはいません。
京阪は、京都市の繁華街、四条や三条方面へ、近鉄とJR奈良線は、京都駅へと向い、この中で近鉄は、京都市営地下鉄との相互乗り入れをしているので、おおまかには、三者は、ライバル関係にあるとも言えなくはありません。
京阪電鉄は、軌間1435mmの標準軌で、車体の長さは18m級。
近鉄は、軌間は、京阪と同じ1435mmですが、車体の長さは21m級で、幅も京阪より少し大きめ。
JRは、軌間1067mmで、車体は、長さは近鉄と同じくらいですが、幅は、さらに大きくなっています。
丹波橋付近、京阪、近鉄、JRが最も接近しているところを下板橋通の歩道橋下から眺めたもの。
一番手前の線路がJR奈良線、その先には、近鉄京都線を乗り入れている京都市交通局1000系が見え、さらにその先、1000系のすぐ上に京阪本線を走る3000系の青い車体が覗いている。
なお、この通り、下板橋通だが、現在は、JR奈良線で分断され、ここに階段と柱が写っている、奈良線とすぐ横を並走する国道24号線を跨ぐ歩道橋で繋がっているだけになっている。
今は、同じ地域を走っているというだけで、車両の規格が異なり、とくに関連性の見受けられないこの3つの路線、実は、過去を遡ると、結構、深い関係があるのです。
まず、時系列でこの付近の鉄道の歴史を追ってみると…
伏見に影響を与えた最初の鉄道は、実は、この3つの鉄道のいずれでもなく、明治12(1879)年8月18日に開業した旧東海道本線の京都-大谷間でした。
これは、京都-神戸間を開業していた東海道線(当時は、京都神戸間鉄道)を大津まで延長する工事の一部が完成したことによるものです。
現在の東海道本線(JR琵琶湖線)は、京都を出ると、東山トンネルに入りますが、この長大トンネルを掘ることは、当時の技術では難しかったため、現在のルートとは違い、京都から南へ迂回、現在のJR奈良線のルートで稲荷駅まで向かい、その先、左へカーブして、旧山科駅を経て、大谷駅へ、そして、翌年には、逢坂山トンネルを抜けて馬場駅まで開業しています。
このルートは、現在、名神高速道路になっているのですが、それができるまでは、線路跡が残っていたそうです。
現在、京阪大津線の大谷駅がありますが、当時の大谷駅は、その近くにあったようです。
また、JR稲荷駅には、準鉄道記念物の煉瓦造りのランプ小屋が残っていますが、これは、旧東海道線時代の名残の建物です。
そして、馬場駅とは、現在の膳所駅になります。
ざっと言えは、京都から膳所まで、当時の東海道線は、JR奈良線、名神高速道路のルートを通っていたということになります。
さて、江戸時代、三十石舟発着場があった伏見は、大坂-京都間の物資の集散地として、また、京の中心部を避け、山科経由で大津方面への道もあったため、参勤交代の大名行列や一般の旅人も多く通り、一大宿場町として栄えていました。
しかし、明治に入り、先の東海道線は、伏見の北をかすめて通るだけとなり、水運から陸運へと、交通手段が変化してくると、次第に町が寂れていくことになります。
明治28(1895)年1月31日、京都電気鉄道が現在の京都駅の東あたりから竹田街道を下り、伏見下油掛、京橋の北詰までの伏見線を開業させました。
これは、我が国最初の電車の営業路線ですが、長さ5m、幅1.5mの小さな車両が、時速9.6km/hで走ったといいますから、マラソン選手よりも遅く、京都駅から伏見まで、停車時間などを含めると、1時間以上かかっていたかもしれません。
とにかく、伏見としては、本格的な鉄道が欲しいということで、京都-伏見間、さらにそれを延伸し、奈良までの鉄道が計画され、奈良鉄道が誕生、京都電気鉄道伏見線の開業と同年の明治28年9月5日、京都-伏見間を開業させました。
その年の11月には、伏見-桃山間が開業し、以降、翌年4月までには、京都-奈良間が全通しました。
これが、現在のJR奈良線です。
実は、この奈良鉄道のルートのうち、京都-桃山間は、現在、近鉄京都線となっているところを走っていました。
現在の近鉄京都から近鉄丹波橋までのルートを通り、そこから、左へ、御香宮の北東の端をかすめるようにして、現在のJR奈良線の線路へと繋がっていました。
東海道線が現在のルート、東山トンネルと逢坂山トンネル(新)を抜け、山科、大津へと向かうようになるのは、大正10(1921)年で、8月1日から、同じ日から、奈良線も、現在の稲荷駅経由のルートになります。
その時、旧奈良線の京都-伏見間は廃止され、伏見-桃山間は、貨物線のなりました。
伏見駅は、貨物駅となったわけです。
さて、この間、明治43(1910)年4月15日、京阪電気鉄道が京都五条-大阪天満橋間を開業、伏見桃山駅や丹波橋駅などが設置されています。
下板橋通、先の写真に階段が写っている歩道橋から見たJR奈良線と国道24号線。
線路の写真奥が桃山駅、手前が京都方面。かつて、奈良線は、奥の線路が見えなくなるあたりから右へ、現在の近鉄丹波橋駅へ線路があった。
伏見駅が貨物駅となると、その線路は、貨物線となり、このあたりで京都へ向かう奈良線と分岐していた。
このあたりは、JRのカーブに沿う形で国道もカーブしていて、南行きは片側1車線という変則な形になっています。
写真の右手がすぐが近鉄丹波橋駅、写真中央、国道脇に見える緑の木が茂る所が御香宮の北東の端。
先の写真の足場の歩道橋。左側が近鉄、京阪丹波橋方面。
そして、歩道橋の螺旋階段部分から撮った下板橋通の近鉄、京阪の踏切。
近鉄の方にはタクシー、京阪の方には宅配業者の車が停まって、それぞれ電車の通過を待っています。
近鉄の線路の位置は、元奈良鉄道、そして、伏見への貨物線の線路の位置になる。
さて、現在の近鉄京都線となる鉄道は、澱川橋梁のところで紹介した奈良電気鉄道で、まず、西大寺から桃山御陵前までを昭和3(1928)年11月3日に開業しています。
そして、同年の11月15日には、桃山御陵前-京都間が開通します。
この奈良電気鉄道、京都へ乗り入れる際、その計画の段階で、いろいろ曲折がありました。
宇治、あるいは、伏見桃山で京阪に繋ぎ、そこからは、京阪に乗り入れる案があったのですが、ダイヤの制約などが大きいことで、結局、独自の路線を京都まで引くこととしたのですが、ここで目をつけたのが、先の奈良線のルート変更によって、京都-伏見間の廃線跡です。
巨大なトラス橋で宇治川を渡った後、伏見の市街を縫うように桃山御陵前に至り、そこから、先の奈良線跡の貨物線に現在の丹波橋駅、開業時は、堀内駅といったのですが、そこで接続し、貨物線に乗り入れて伏見、さらにそこからは、奈良線の廃線跡の払い下げを受け、それを活用して京都駅へと、路線を建設することになりました。
貨物線は、当初、奈良電鉄に乗り入れる形が検討されたようですが、運転は、1日数本程度だったこともあって、奈良電鉄の建設に入る前に廃止になっているようです。
この奈良電、伏見付近の線路を引くにあたっては、他にもいろいろと曲折がありました。
そして、その後、一旦、堀内駅を廃止し、京阪丹波橋へ乗り入れ、京阪と奈良電(近鉄)の相互乗り入れが行われたりするのですが、その辺りの話、長くなりますので、また次に譲りたいと思います。