1月7日に、父が逝去しました。
1月16日に、親族のみで告別式を行いました。
父は、自分が駆け出しの売れていなかった時期から、変わらず仕事を応援してくれていました。
デビュー前からそうだったので、20年ほどになります。
4年前に、仕事中の事故で首の骨を折ってから記憶や認知が怪しくなりはじめ、1年前ごろからはレビ−小体型認知症で、介護が必要になりました。食事やトイレの介護までは必要なかったのですが、日常生活をひとりで送ることは不可能で、要介護1の認定を受けた父を、自分が実家でひとりで介護していました。
肉親の介護は、きちんとしていた頃の姿や声をありありと覚えているぶん、精神的につらいとは言います。我が家でも、自身が認知症だとも衰えているとも認めようとしない父とは、衝突することが多く、怒鳴りあいになることもよくありました。父は夜中にまでずっと起きていて、下着や紙パンツを袋に詰めたり出したりしたりと片付けることがひどく困難になっていました。2階で仕事をしていた自分が、居間におりると、かならず床はぐちゃぐちゃに散らばっていました。
レビ−小体型認知症はパーキンソン症状が出るので、転倒を避けるために、わたしも床だけは片付けようとするのですが、父が何かしているのを中断させたり先回りして片付けたりしようとすると、怒鳴りつけられるわけで。認知症ですぐに忘れてしまう父との、穴を掘っては埋め直すような、何一つ片付かないし前にも進まない日常に、ついつい自分も怒鳴ったり怒鳴り返したりでした。この一年間で、父が人生でもっともたくさん喧嘩した相手は、母を除けば自分になったのではないかと思います。
地元の小規模多機能の介護施設での、週2日のショートステイと1日のデイサービスに頼るようになってからは、心身ともに負担はかなり軽減されました。3月くらいまではただただ介護で振り回されるばかりだったのが、ようやく仕事が立て直せるようになってきました。実を言うと、アニメ『BEATLESS』の放送実況では、何時間も風呂に入ったままの父をなだめすかして出して、すぐにノートPCに向かったこともありました。
仕事を立て直せるようになったのは、夏ころからだと思います。
それでも、父は介護施設に行くのを嫌がりました。私は介護施設に週数日は預かってもらわないと介護と仕事を両立できないわけで、「息子の人生を守るために介護施設には行ってもらわないと困る」と、そのたびに訴えました。5年後のわたしの仕事を作るのは、今、何ができているかであって、物書きは基本的に終わらないマラソンだからです。それはエゴで、恩返しに注力をするべきだったのかもしれません。けれど、考えを重ねて意図して積み上げてきた者が、たまたま積み上がった体験を頼りに5年後に勝負できると思えるほど、楽観的にはどうしてもなれませんでした。
認知症というのは、忘れるから認知症なわけで、1日に10回以上はそんなやりとりを繰り返して、そのたびに1週間に100回くらい同じ答えを返していました。
1月7日は、寒い朝でした。いつものように介護施設のショートステイの日数を減らしたい父と、いつも通りに押し問答を続けてから、20年近く定期通院している病院に行きました。出しなに、父がトイレから「行くな」と叫んでいました。似たようなことはしばしばあって、戻って聞いてもたいした話が出てきたことはなかったのでさっきの話の蒸し返しだろうと、予約時間に遅れないようにそのまま家を出ました。
そして、夕方に帰ってくると、父は掘りごたつに入ったまま仰向けに倒れていました。
眠っていても、わたしが帰ると何か反応するのにおかしいなと思い、顔色がおかしいことに気づき、名前を呼んで揺り起こそうとしました。そして、まったく反応がないため、鼻の下に手をやって、息をしていないことに気づいたのです。
救急車を呼び、指示された通りに胸骨を押して心臓マッサージをしました。父は、眠るような表情をしていましたが、口から吹いた泡が乾いたような跡があり、トレーナーにも同じような痕跡が残していました。胸を押すたびに、すこしずつ泡と一緒に生の肉が出てきました。一昨日の鍋に使った鳥の胸肉ブロックの残りが、生のまま切ってわさび醤油をかけた状態で、こたつに置いてありました。風呂に入った痕跡のように、風呂場の扉は開いて風呂桶の蓋が外れたままになっていました。
午後6時半頃、もう回復の見込みはないということで、臨終を看取りました。
今年の正月は、ひょっとしたら一緒に過ごす最後になるかもしれないなと、すこし豪勢なおせちを通販で買いました。確実にすこしずつ症状が悪化してゆく父を、全日で施設に預けなければならない時期が、近づいてきているという感覚はあったのです。
三段のお重を解凍して元日の夜に出そうとすると、父が寝ていたので、2人で食べるのは駅伝を見ながら2日の朝になりました。仕事で昼夜逆転していたので、それから一眠りして夕方に起き出してくると、冷蔵庫に入れたはずのおせちが引き出されて、ほとんど食べ尽くされていました。
食べ過ぎでおなかを壊したのか、白木の重箱に排泄物のような茶色いものがついていて、「これは大変な一年になりそうだな」と、ため息をついたものでした。
父の体は頑丈で、胃腸などは自分よりもよほど強い人でした。
この介護は、長ければ10年以上続くのではないかと思えたほどです。そのため、そう遠くないうちに全日の介護施設に預けたほうがよいのではないかと考えていました。
結局、そのいつも通りが、ずっと続くなどということはなかったのです。
病院死ではないため、死体を検案した医者さんによると、心停止したのは午後1時頃だという話でした。
病院で診察が終わって、会計待ちをしていた時間でした。
おそらく心臓が原因で、死は短期間で訪れ、咽を掻きむしったりといった苦しんだ所見はないと聞きました。
その日のうちに駆けつけた兄に、家が汚いと言われ、葬儀などで親戚が来ても今のままでは上げることができないので、その夜から片付けるということになりました。
父がいつも座っていた掘りごたつの、倒れていた場所から手が届く、いつも見ていた本の中に、自分の著書がまじっていました。
父はずっと、「お前の本はむずかしい」と言っていて、読み終えた本はほとんどなかったはずでした。認知症になった後は、読み進めることも極めて困難だったはずです。
それでも、何冊も、父が座っていた場所のそばには、長谷敏司の本がありました。
自分は一番身近な読者を亡くしたのだと、現実がようやく理解できました。何をしても、見えない異物がはさまって違和感があるような落ち着きようのなさをこらえながら、汚れた本を紐で縛りました。
その片付けは、かならず自分がやらなければならないのだと、わかっていました。
母が亡くなったのは、18年も前、小説家としてデビューする数ヶ月前でした。かたちになった本を、ずっと読んできた肉親は、父でした。
父は、引っ越しするたびに本を買い直すような富島健夫のファンで、長谷敏司の本は明らかに読書傾向とは違っていました。
それでも、新刊が出るたび一冊はかならず父に渡していました。父も、新刊がいつ出るのかと、思い出したように尋ねてきました。
今よりもずっと仕事が回っていない時期にもそうでした。そういうものだったのです。それが、自分たち、父と子でした。
1月16日。父を見送りました。骨壺と位牌は、かつて母を亡くした父が、母の骨壺を置いた場所に据えました。
人生に一区切りついた思いがします。
実家は、やはり父の家で、片付けをしてもあらゆる場所に父の気配が残っています。
四十九日までは残りますが、1年以内か、どんなに長くても3年以内には転居することになると思います。
ただただ、ありがとうございました。
倒れるまでは、歩いてゆきます。
コメント
コメント一覧 (4)
そして、お疲れ様でした。どうかご自愛ください。
BEATLESSは私の人生を変えてくれた作品の一つです。BEATLESSを読んでAIに対する考え方が深まったことで、今では深層学習のエンジニアの方などとも仕事でお取引いただけてます。
介護に関しては痴呆症の祖父の介護を通して、私もいちぶんですがお気持ちお察しいたします。
痴呆症の祖父に対して学生の私は、遊びたさから雑な対応をしてしまいましたが、祖父が亡くなったのは私の誕生日でした。
幼い私の面倒を見てくれたのは祖父でした。亡くなった時の、なんて恩知らずなことを…との思いと、今までの感謝の気持ちが混じるなんとも言えない気持ちをまだ、思い返せます。
先生も大変お辛かったと拝察いたします。
次回作も気長に1ファンとしてお待ちしております。