小学校の頃から仲良くしていた友達の親がリストラに遭い、失踪。
さらに、僕の二人の叔父も不況のあおりを受け失職。
僕が当時見ていた風景は、幸せだった友人の家庭が崩壊の危機に瀕し、いとこたちが中学、高校に進学するのも窮するほどの惨状でした。
明るかった僕の友達の性格は、その後変わってしまいました。
心がすごく痛みました。自分の無力さ加減に腹が立ちました。
こんなことがあっていいのか? 世界第二の経済大国である日本でこんなことが起きていいのか? ていうか、日本でこんだけきついのなら、世界はどれだけきついんだ? 人をこんなに不幸にする、景気の波をひどく恨みました。
それから、経済書をむさぼるように読みました。
300冊以上読みました。
* * *
読み漁り始めてから半年ほど経った頃でしょうか。
「これが絶対に答えだ」という本に出会いました。
そうです。
今現在、日銀の副総裁の職にあり、実際に現在の日銀の金融緩和を実行している、岩田規久男先生の本です。
そこには、現在の日本のリフレ論の源流になる、デフレの分析と処方箋(大規模な金融緩和)の提示が明確になされていました。
インフレターゲットを設定し、大規模に量的緩和政策を行え
そう書いてありました。
現在の日銀の政策と、寸分の狂いもありません。
でも、僕が学生だった2002年頃に、金融緩和を支持している学者の人なんて、ほんの数人です。マスコミの人の中で金融緩和を支持している人など皆無に等しかったと思います。
支持するどころか、金融緩和をしたら、国債が暴落し、国家は破たん。ハイパーインフレが起こる。キャピタルフライトが起こるといわれていました。
でも、『デフレの経済学』は、学生の僕の目から見ても、他の主張とは一線を画する、あまりに筋と論理の通ったものでした。
同著では、現在(2002年当時)の日本の不況は、戦前の昭和恐慌の時と同根との分析が展開されていました。
確信を持ったわけではありませんが、「多分、岩田先生の話が本当なんだろう」と思いました。
当時、構造改革を主張する本も大量に読みましたが、『デフレの経済学』には次のようなことが書かれていたからです。
1.構造改革とは、国の潜在的な成長力を上げる政策である。
2.潜在成長力とは、(概念上の)全ての日本企業の生産能力の上限のことである。
3.構造改革派は、この日本企業全体の生産能力の上限自体が落ちているから、構造改革を行い、日本企業全体の生産能力の上限を上げる必要があるといっている。
4.しかし、日本企業の生産能力自体(潜在成長力・総供給)が落ちているということは、日本の企業全体の商品とサービスの生産量(供給量)が減るということである。であれば、日本全体で起こっているのは、物不足であるはずだ。
5.物不足であるとき生じるのは、国全体の物価が下がるデフレか、はたまた物価の上がるインフレか?
6.答えは、モノ不足が生じた戦後まもなくと同じく、インフレが起こるはずである。
7.しかし、現在の日本で生じているのは、デフレである。
8.それはなぜか? 現在の日本で毀損しているのは、日本企業の供給能力(潜在成長力・総供給)ではなく、単純に、バブルの崩壊以降に萎縮してしまった、総需要(=日本の消費と投資の総合計)のほうだからである。
9.では、総供給(潜在成長力)に対し、総需要(消費と投資)が減ってしまった場合、生じるのはインフレかデフレか?
10.答えはデフレ(物価の下落)である。そして、物価(=モノの価値)が下落する裏で、逆に価値が上がるのは、お金(カネ)の価値である。
11.お金の価値が上がるとは、お金が貴重(希少)なものになっているということだ(その一方、モノの価値(=物価)は下がっている)。
12.お金が貴重なものになるときとは? それは、企業や家庭が将来不安を抱え、消費や投資を控え、結果的に、お金を懐に抱え込む(=使わなく)なるときだ。
13.実際、現在(2002年時点)起こっているのは(インフレでなく)デフレである。
14.であれば、現在(2002年時点)の日本経済の問題は、潜在成長力(総供給)の低下ではなく、総需要の低下のほうである。
15.日本で、現在(2002年時点)以前の時点でデフレが生じたのは、昭和恐慌の時までさかのぼる必要がある。昭和恐慌の時も、消費と投資の萎縮が起こっていた。それを救ったのは、日銀の大規模金融緩和によって、人々のマインドを変え、消費と投資を再燃させたから(=総需要の回復)である。
16.で、構造改革が必要なのは、スタグフレーション(=インフレ下の不況)が起きているときである。サッチャー改革も、レーガン革命(=イギリスとアメリカの構造改革政策)も、スタグフレーションの状態にある英米でおこなわれたものである。
17.構造改革とは、経済の構造を(公的企業の民営化や規制緩和によって)改善して、企業の生産性を上げることで、国の潜在成長力(企業全体の生産能力の上限)を上げる政策である。
18.であれば、デフレ不況下にある現在(2002年時点)の日本で構造改革(=潜在成長力を伸ばす政策)を行っても、企業の生産性が上がるだけ(=潜在成長力を伸ばすだけ)で、消費と投資が鈍っていることに対して何の影響も与えない。だから構造改革では、デフレ不況を終わらせることはできない。どう考えても、構造改革の必要性を説く人たちの主張よりも岩田先生のほうが正しいように思いました。
でも、世間では金融緩和批判の声が高まるばかりで、当時の僕は確信を持てずにいました。
理論的には正しいように思えるけど、実際はどうなのだろうと・・・。
* * *
そんな時に出会ったのが、早稲田大学教授の若田部先生の本でした(次のものは、2013年に出しなおされた増補版です)。
若田 部昌澄 東洋経済新報社 2013-05-24
この本には、アメリカの経済学会と日本の経済界のこれまでのリフレ派(=総需要かせて景気回復派)と構造改革派(=構造改革して総供給を回復させろ派)の論争の歴史が事細かに、しかも歴史小説かのごとくダイナミックに描かれていました。
そして若田部先生も、現在(2003年当時)の日本で金融緩和をすべき、と喝破されていました。
「そこまで言うのなら、他の人が何と言おうと、金融緩和をすべきという考えは正しいのだろう」
この二冊との出会いは、僕が世間の常識から離れる決断をするきっかけになったのでした。
■飯田泰之さんに池袋東口すぐの(今はなくなった)書店で出会うそうこうしているうちに就職活動の時期を迎えた僕は、あんなことやそんなことがあった結果、ネット上で、飯田泰之さん(現在、明治大学准教授)に出会います。
ネット上で飯田さんと親交を深めていった僕は、ある時、東京で行われる「上京者向け就活勉強会」に思い切って参加し、そのタイミングで、飯田先生と初めて顔を合わせることになりました。
日も暮れかけた頃、池袋駅東口を出てすぐの(今はなくなった)書店で飯田さんにお会いし、そのまま地下にある居酒屋へ。
生ビールと枝豆と串盛りを前にして、僕は飯田さんに胸の内を明かしました。
「じつは僕、学者になりたいと思ってるんです」
そう。当時の僕は、自分が経済学者になって、金融緩和の必要性を証明するんだ!という大望を抱いていたのです。
対して飯田さんは、今も変わらないキッパリサッパリとした、でも優しい口調でこう言いました。
「学者って全然いいことないから、やめといたほうがいいよ。というか君、金融緩和を推進したいのなら、経済書の編集者になって、金融緩和推しの学者の人たちの本をベストセラーにしたほうがいいじゃん」
( https://www.facebook.com/photo.php?fbid=10202795377599273&set=a.1491399338704.66545.1645632706&type=1&theater )その言葉に青天の霹靂った僕は、学者になる夢をあっさり捨て、(前から編集者に興味があったこともあり)編集者になることにしました。
* * *
でも、出版社ってむっちゃ狭き門です。
新卒時には、すべての出版社に落ちました・・・。
それでも何とか、東京のとある資格試験の学校の職員の仕事に受かりました。
資格試験の参考書の編集をして、後に一般の(経済書を出せる)出版社に転職することに賭けようと思いました。
* * *
上京して2年間、資格試験の学校で働きながら、めぼしい出版社への転職試験をすべて受けました。
すべて落ちました。
その間にも、日銀は一切(デフレを真に終わらせる規模での)金融緩和を行わず、景気は僕の学生時代よりも落ちていく有様でした。
日本の失業者数と自殺者数は、年々増え続けていきました。
もはや僕に時間は残されていませんでした。
新卒以降に雇われるチャンスのある第二新卒市場は、新卒後3年目までだとされていたからです。
資格試験の予備校で公務員試験対策御部署に配属された仕事は、受講生の将来に直結する責任あるもので、とてもやりがいがありました。
合格という目標に向かって真剣に生きる受講生と向き合う日々は、すごく充実していました。
仕事が大好きでした。
連日の徹夜や休日出勤もいとわず、受講生の人生に関わり、頑張るのが幸せでした(忙しすぎて、半年で自然と8キロ痩せるほど打ち込んでいました)。
担当していた講座のコストを半分に落としながら、3年で受講生の数を2倍に増やし、職員個人の頑張りで直接充実させることのできる面接対策に全力で打ち込んだことで、合格率もあげました。
* * *
3年目に、すべての受講生の試験が終わり、多くの受講生を公務員の世界へと送り出し、ギリギリまで就職先が決まらなかった受験生が、遂に合格しましたと報告をしに来てくれた後のオフィスで、僕は一人感慨に浸りながら、ふと思いました。
「仕事が楽しい」
「受講生の人生に関われるのが幸せである」
でも・・・、
「これでいいのか・・・」
「僕には、もっとやるべきことがあったんじゃないか・・・」
「人の幸せにかかわる仕事をできていることを言いわけに、僕は、出版社の採用試験に落ち続けていることから目をそらし続けてきたのではないか・・・」
第二新卒(=新卒後2~3年目まで)として出版社を受験できる期間が、あと1年しか残されていませんでした。
「退路を断たないと・・・。僕のすべてを賭けないと・・・。事を成すことはできない」
そう覚悟を決めました。
その2か月後、次の担当になる人に引継ぎを終え、次の期の授業が始まる直前に、正社員の仕事を辞めました。
* * *
フリーターになり、短期の派遣社員として複数の出版社に勤めながら、すべての出版社の求人の募集に応募しました。
短期の派遣社員なので、つなぎの期間が1か月空くような時もあります。
その時は、日雇いで、ビルの建設現場のバイトなどをして何とか食いつないでいました。
(当時よくいった現場は、建設中の東京ミッドタウンの現場でした。だから昔僕はよく、「東京ミッドタウンを作ったのは俺だ」と言っていました。ミッドタウンに行くたびに、あのころの思い出が溢れてきます。あ、ちなみに新丸ビルを作ったのも僕です^^)
派遣先の出版社の編集者さんたちが、僕に本の編集術を教えてくれました。
「なんで派遣社員やってるの?」
「大変だね」
って、よく居酒屋に連れ出してくれて、ごはんを食べさせてくれました。それですごくお酒に強くなりました^^
(僕は福岡の出身なのに、それまであまりお酒を飲めませんでした)
でも、丸1年、1社にも受かりませんでした。
父は心配して、福岡に帰ってこいと何度も言ってくれました。
ある出版社の面接の後、「東京タワー~オカンとボクと、時々、オトン~」を観にいったら、涙が溢れて止まらなくなりました。
それまで、本とか映画で泣いたことなかったのに・・・。
目が腫れてしょうがないので、電車の中ですごく恥ずかしい思いをしました。
それ以来、すごく涙もろい人間になりました。
* * *
その頃、疲弊していた僕を助けてくれたのは、悩んでいるのが馬鹿らしいと思わせてくれる「水曜どうでしょう」、そして多くの本たちでした。
笑いと、多くの本たちが、あきらめそうになる僕を、すんでのところで引き留めてくれました。
* * *
そんな、文字通りすべての出版社の求人に応募し続けて、ほぼ丸1年後、とうとう僕の電話に、前の職場である出版社からの合格通知が届きました。
上京して3年、ようやく僕は総合出版社の編集者になれたのです。
26歳になる誕生日の1日前の出来事でした。
■経済は損得で理解しろ!
僕が出版社で最初に出した経済書は、編集者の道を薦めてくれた飯田泰之さんの本でした。
飯田 泰之 エンターブレイン 2010-03-12
帯に、勝間和代さんと、山崎元さんと、finalventさんと罪山罰太郎さんの推薦文入りです。
うーん。この編集者、売るのに必死すぎですね。そ
りゃそうです。こちとら人生かけてやってますから^^。
finalventさんに
“「世界一シンプルな経済入門」ってほんとかな。
勝間和代さんも「こんな本を待っていました! 最高の経済入門本です。ぜひ読んで下さい」と一喝しているのだから、そうなんだろうと第1章「経済学ってなんですか?」をめくって、不覚にも、いきなり目から鱗が落ちた。
まじかよ、俺は本書の上級編にあたる「経済学思考の技術 ― 論理・経済理論・データを使って考える(飯田泰之)」(参照)もきちんと読んでいるんだぜ。
と、
ブログで書いていただき、飛び上るほどうれしかったのもこの頃です。
(後に僕は、finalventさんの次の書籍の編集を担当させていただくというあまりに光栄な経験もさせていただけました)
finalvent ダイヤモンド社 2013-03-11
結果として、その出版社では、経済書はその一冊しか出せませんでした。
編集者としての力量が、僕にはあまりに不足していました。
でも、人生の一番大変だった時期(転職活動中の短期の派遣社員時代)に、多くの本たちに助けられた僕は、「当時の僕のような、困ってる人の役に立つ本を出したい!」という一貫した姿勢で本の編集に向き合い続けました。
同時に、ベストセラーの出やすいビジネス書の分野で、売る編集の技術を学び、その方法論を経済書の世界に持ち込んでベストセラーを出そうとも考えていました。
2010年のこの時、世間はまだ金融緩和に見向きもしていません。
* * *
その出版社に3年勤めた後、僕は現在の「編集集団WawW!Publishing」の前身となる編集プロダクションを立ち上げました。
堰を切ったように、僕は経済書を出し続けました。
震災の年には、復興増税に反対し、金融緩和を説く本を担当させていただきました。
田中秀臣(たなか・ひでとみ),上念司(じょうねん・つかさ) 宝島社 2012-01-10
次のムックでは、あこがれの岩田先生ともお仕事させていただく機会を得ました。
次の円高に反対する本を担当させていただき、初めて4万部を突破しました。
一番うれしかったのは、新聞各紙に、「金融緩和の不足により円高が生じており、その結果、景気が悪化し続けていること」が、グラフ付でドーンと掲載された時でした。
▼当時の記事『円高の正体』の姉妹本にして、「ECBも大規模金融緩和をすべし!」と完璧に予言している、次の本も担当させていただきました。
想いよ届けと願いながら――。
■最後のご奉公と思って・・・2012年11月、僕のもとに思わぬニュースが飛び込んできました。
「11月16日に衆議院解散(近いうち解散)をして12月に総選挙を行うことが決まり、自民党の政権復帰(安倍さんが首相になること)が視野に入る」なんと、安倍さんが第一の政策に大規模な金融緩和を掲げていたため、大規模な円安と株高が生じたのです。
大規模金融緩和まであと10年はかかりそうだと覚悟を決めていた僕の目の前に、「リフレ政策(=大規模金融緩和政策)発動」が現実のものとして立ち現れたのです。
Wow!!!
そして、2013年2月28日、政府は、衆参の議院運営委員会理事会に、岩田規久男先生を、次期日本銀行副総裁の候補者とする人事案を正式に提示したのです。
僕に最初に金融緩和の重要性を認知させて下さった岩田先生が、日銀のナンバーツーに!?
Wow!!!
信じられない思いでした。。。
僕はこの時、金融緩和推進への最後の奉公になるだろうと思いました。
これから、とうとう金融緩和が実施に移される。
そうなれば、金融緩和に対していろいろな批判が飛んでくるだろう。
これは、金融緩和の正しさ、金融緩和のメカニズムを、多くの人に説明できるこれ以上ないチャンスであると同時に、(金融緩和批判論者にとっては)やり玉に挙げるまたとない機会でもある。
岩田先生が副総裁の座にいる間は問題ないだろうが、ここで、ちゃんとした経済理論を多くの人に伝えておかないと、岩田先生が退任された後に、また変な政策を日銀が採用するようになってしまうかもしれない。
この時の僕の心境は、「身が引き締まる思い」という言葉がぴったりでした。
ちょうどこの頃、岩田先生の上智大学退官記念パーティーに出席させていただきました。
金融緩和を主張してきた学者の方、エコノミストの方のほぼすべてが集まり、盛大な会になりました。
この時の思い出は、生涯忘れえないものだと思います。
そして、最後の(金融緩和への)奉公のため、2013年上旬は、次の3冊の本を担当させていただきました。世間の皆さまに対する最後のご説明をという思いから、ありったけの情熱を注ぎました。
村上 尚己 KADOKAWA / 中経出版 2013-05-16
高橋 洋一 KADOKAWA / 中経出版 2013-05-23
結果、1冊目と3冊目はそれぞれ、4万部と3万部を突破し、編集者としても多くのことを学ばせていただきました。
あと・・・、2013年は、僕の人生的にも忘れがたい年になりました。
僕自身も結婚しましたし、僕の経済書の最初の作家さんであり、編集者になることをすすめてくださった飯田さんもご結婚されたからです。
▼飯田さんの結婚式。シノドスの皆さんの素敵な笑顔^^
それから、5→8%への消費税増税という失策によって一度不調に傾いた日本経済は、8→10%への消費増税を回避したことで一応の成長経路に戻りつつある、、、というのは、皆さんご存知の通りです。
■燃え尽き症候群に陥っていた日本経済にとってはすごくよかった2013年ですが、僕個人としては、人生の岐路に立たされる年でした。
だって、2003年から、比喩ではなく本当に人生のすべてをかけてきた金融緩和が成ったわけですから・・・、大きな喜びであると同時に、僕は生きる目的を失ってしまったのです。
いやー、こんなに早く夢が叶うとは想定してなかった!
編集者になるまでは、「編集者になる」という夢を追い、編集者になってからは、「金融緩和の実現」を追い求めてきたものですから、いきなり「じゃ、金融緩和やっといたからっ!!」と言われても挨拶に困ります。
もちろん100%うれしいのですが、生きる目的を見失ったというのは紛れもない事実。
この先なにをすればいいのか見当もつかず、本当に困ってしまいました。今
更、夢見つけろって言われてもな~。。。。
抜け殻になったような気分でした。
そんな感じで2013年(とくに後半)は、ハワイに行ったり、オーストラリアに行ったりと、ほとんど遊んで暮らしていました。
このままじゃいかんよな~、と思いながら・・・。
そして、僕は、自分自身が何をしている時が一番楽しいのか、心が躍るのかを考え続けました。
そうしていたら、ある時、ふと気が付いたんです。
僕が一番やりがいを感じれて、心躍りながら仕事に向かえるのは、「人の役に立てていると自分が思えることに向き合っている時」なんだと。
だから結局、
「すご~く役に立ったり、すご~く楽しんでもらえるよう、最高の本を作っていこう」
「それで、まずは編集者の仕事を極めて、その上で、他の色々な分野に打って出ていこう」
と決めました。
でも、そうは決めながらも、やっぱり2013年の後半は、フラ~と日々を過ごしている状態でした。
燃え尽き症候群だったのかもしれません。
大人になってから夢を見失うって大変です。
30代になって自分探しの旅に出なきゃいけなくなるなんて思ってもみませんでした・・・。
僕は、追いかける夢がない時期が一瞬たりともなかった人間ですから、かなり苦悩しました。
* * *
話はさかのぼって、2012年末、強烈なリフレ本(=金融緩和の必要性を説く本)が発売されました(僕の担当ではありません)。
イェール大学教授の浜田宏一先生が放ったこの大きな矢は、浜田先生が、安倍さんによって内閣官房参与に指名されたこととも重なり、またたく間に30万部を突破しました。
僕がこの本を読んだのは、2013年後半、燃え尽き症候群患者として、フラ~ッとしている時でした。
内容はもちろん素晴らしかったのですが、ただ一点、あとがきにて浜田先生が「この本は、アベノミクスの社会学について書いた本だ。この後は、アベノミクスを経済学的に説明する本を書く」とおっしゃっていたことだけが気になりました。
燃え尽きた(と思っている)僕は、ふわふわとした脳みそで、「そんな本をお書きになるのなら、ぜひ僕に担当させていただきたいな~」と思って。
* * *
2013年の年末、年の後半から遊びすぎていた僕は、「そろそろ気を入れなおして、経済書以外の分野の本をどんどん進めていこう!」と、「乙丸再始動でベストセラー乱発計画」なるものを立てていました(という妄想ですね・・・)。
そんな折、一本のメールが僕の元に飛び込んできました。
『円高の正体』と『ユーロの正体』を書いていただいた安達誠司さんからでした。
「浜田先生から、アベノミクスを経済学的に説明する本を(安達さんと)一緒に書きませんかというオファーがきていて、その編集を乙丸君に任せたいとおっしゃっている」という趣旨のものでした。
もうね、本当に、本当に、本当に
ビックリしました。
まさかこんなことがあるとは。。
「もう経済書をつくることもないのかな~」
「さみしいな~」
なんて思いながらほっつき歩いていたところから急転直下、なんと、2013年に最も売れた経済書の作家さんの本を担当することになったのです。。。
実際は、「乙丸君で“も”いいですよ」というニュアンスで、「どうしても乙丸君の編集がいい」とまでの意味を、浜田先生は一切込められていなかったのですが、当時はそんなことまったく気づいていませんでした(というか、当時のメールを確認した“いま”まさに肩を落としているところです…!)。
いずれにしても2014年は、この本の編集に忙殺された1年になりました。
ぶっちゃけ、この本の作業ばっかりやってて、他の本をあまり出せなかったので、2014年は、うちの会社がもっとも危ないところまで追い詰められた1年になりました。
ほんとに倒産寸前で、生まれて初めて節約というものを経験しました(まさか派遣社員時代よりも経済的にキツイ瞬間が人生に訪れるとは、思ってもいませんでした)。
そんな、弊社の社運と、僕のすべての情熱をのっけた本が、いよいよ2015年1月30日に発売になります!!
* * *
しかし、この本、手前みそながら、なんだかいろいろな運命に彩られた本だと思わざるをえません。
浜田先生は、僕の仕事を、安達さんの『円高の正体』によって知っていただいたそうです。
そして、この安達さん、実は、僕が学生の時に、最後の最後に「何をどう考えてもリフレ政策が正しい」と確信した本↓
田中 秀臣,安達 誠司 NHK出版 2003-08-30
を、お書きになった方なのです。
2003年、まだ学生だった僕は、『デフレの経済学』と『経済学者たちの闘い』によって、「どうも金融緩和が必要らしい」という確信は得ているものの、「とはいえ、リスクが高い政策でもあるな・・・」と思っていた時期でした(金融緩和によってハイパーインフレとまでは言わないまでも、高めのインフレが起こったり、国債が暴落・・・とは言わないまでも、乱高下することはあるかもしれないぞ・・・みたいな)。
そんな時期に出たのが、上記の安達さんと上武大学の田中秀臣先生の共著でした。この中で、「昭和恐慌から脱出した時の、当時の日銀の金融緩和の状況とその影響」が、豊富なデータをもとに、仔細に分析されていた」のです。
そして、昭和恐慌からの脱出時の、大規模金融緩和によって、キャピタルフライトもハイパーインフレも、国債の暴落も、一切起こっていないことを確認し、僕は、「あー、これは、今(2003年当時)日銀が金融緩和やっても、ハイパーインフレもキャピタルフライトも国債暴落も起こらんわ・・・」と、確信したのです。
(そして、アベノミクス(=質的・量的金融緩和)発動によっても、キャピタルフライトも、国債の暴落も、ハイパーインフレも、実際に一切起こっていないことは、皆様ご存知の通りです)
しかも、浜田先生が僕の仕事をご存じになったのは、安達さんの『円高の正体』をお読みになったからだそうなのです・・・。
そして、1月31日発売の本は、そんな安達さんと浜田先生の共著――。
このめぐりあわせに僕は、何か運命的なものを感じざるを得ないのです(で、あってほしいという願望込みですがね!)。
* * *
さてさて、アベノミクスに対しては様々な批判がありますが、僕は、現在でもすでに、日本の失業者数が如実に減っているという事実を持って、誰もアベノミクスを否定できないと考えています。
なぜなら、僕の人生の転換点となり、それまで全く読んでいなかった経済書をむさぼるように読みだしたきかっけは、友人の父がリストラの憂き目にあい、叔父ふたりも近い時期に職を失ったことだったからです。
僕が目の当たりにしたのは、職を失うことのつらさと、それが引き金となって辿る悲惨な末路でした。
アベノミクス以降、日本では失業率が目に見えて下がっています。
失業で苦しんでいた多くの人がいま、救われだしているのです(その数、実に86万人。それだけの人に、アベノミクス以降、すでに新たな職が生み出されたそうです)。
▼1月31日発売の最新担当刊の148ページの図
また、「とはいえ、庶民の賃金は上がっていない。アベノミクスは庶民を苦しめているから中止すべきだ」とお考えの人も多いと思いますが、なぜその考え方が間違いであるかも、この本には明確に書かれているので、アベノミクスに懐疑的な人に程、読んでいただきたい本です。
そして、この本を読む際に真っ先に注目していただきたいのは、浜田先生がまえがきでお書きになっている話です。
あとがきにて浜田先生が「この本は、アベノミクスの社会学について書いた本だ。この後は、アベノミクスを経済学的に説明する本を書く」とおっしゃっていたことだけが気になりました。
燃え尽きた(と思っている)僕は、ふわふわとした脳みそで、「そんな本をお書きになるのなら、ぜひ僕に担当させていただきたいな~」と思って。
と書いた僕の想いに対する回答が克明に描かれています。
以上、
信念もってやってたら、すっごくいいことあるよ!!
のコーナーでした!(違
P.S.
1月31日発売の浜田先生と安達さんの共著はこの本です↓
アベノミクスにより、株価は約2倍、円安にもなり、景気は回復しつつある。とはいえ、いまだに「賃金が上がっていない」「生活はよくなっていない」など、アベノミクスに懐疑的な人もいる。そこで本書では、ノーベル経済学賞に最も近いといわれ、イェール大学名誉教授、兼、内閣官房参与である著者が、「経済の真実」について、経済が苦手な人にでも理解できるよう、わかりやすく伝授。
「なぜ株価はこれほど上がったのか?」「景気回復は本当に続くのか?」「日本は借金が多いから、このままでは財政は破綻するのではないか?」など、将来に不安を抱える人にとって、目から鱗の一冊。ぜひ、ご祝儀代わりに一冊買ったってください(何のだ・・・っていう 笑)!!!
現場からは以上です!!
――――――
現実から逃げるのではなく、現実に立ち向かうための本を――。
編集集団WawW ! Publishing
コメント
コメント一覧 (2)
ありがとうございます!