グッグッモーニン!
編集集団WawW ! Publishing代表の乙丸です。

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■それは今からさかのぼること12年も前の話・・・

今日は、1月31日発売の最新担当刊についての話をしたいと思います。

* * *

僕が地方の大学の経済学部生だったとき、日本の景気はすごく悪くて、特に地方は悲惨な状態でした。

事件が起きたのは、そんな時でした。

小学校の頃から仲良くしていた友達の親がリストラに遭い、失踪。

さらに、僕の二人の叔父も不況のあおりを受け失職。

僕が当時見ていた風景は、幸せだった友人の家庭が崩壊の危機に瀕し、いとこたちが中学、高校に進学するのも窮するほどの惨状でした。

明るかった僕の友達の性格は、その後変わってしまいました。

心がすごく痛みました。自分の無力さ加減に腹が立ちました。

こんなことがあっていいのか? 世界第二の経済大国である日本でこんなことが起きていいのか? ていうか、日本でこんだけきついのなら、世界はどれだけきついんだ? 人をこんなに不幸にする、景気の波をひどく恨みました。

それから、経済書をむさぼるように読みました。

300冊以上読みました。

* * *

読み漁り始めてから半年ほど経った頃でしょうか。

「これが絶対に答えだ」という本に出会いました。


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その言葉に青天の霹靂った僕は、学者になる夢をあっさり捨て、(前から編集者に興味があったこともあり)編集者になることにしました。

*   * *

でも、出版社ってむっちゃ狭き門です。

新卒時には、すべての出版社に落ちました・・・。

それでも何とか、東京のとある資格試験の学校の職員の仕事に受かりました。

資格試験の参考書の編集をして、後に一般の(経済書を出せる)出版社に転職することに賭けようと思いました。

*   * *

上京して2年間、資格試験の学校で働きながら、めぼしい出版社への転職試験をすべて受けました。

すべて落ちました。

その間にも、日銀は一切(デフレを真に終わらせる規模での)金融緩和を行わず、景気は僕の学生時代よりも落ちていく有様でした。

日本の失業者数と自殺者数は、年々増え続けていきました。

もはや僕に時間は残されていませんでした。

新卒以降に雇われるチャンスのある第二新卒市場は、新卒後3年目までだとされていたからです。

資格試験の予備校で公務員試験対策御部署に配属された仕事は、受講生の将来に直結する責任あるもので、とてもやりがいがありました。

合格という目標に向かって真剣に生きる受講生と向き合う日々は、すごく充実していました。

仕事が大好きでした。

連日の徹夜や休日出勤もいとわず、受講生の人生に関わり、頑張るのが幸せでした(忙しすぎて、半年で自然と8キロ痩せるほど打ち込んでいました)。

担当していた講座のコストを半分に落としながら、3年で受講生の数を2倍に増やし、職員個人の頑張りで直接充実させることのできる面接対策に全力で打ち込んだことで、合格率もあげました。

* * *

3年目に、すべての受講生の試験が終わり、多くの受講生を公務員の世界へと送り出し、ギリギリまで就職先が決まらなかった受験生が、遂に合格しましたと報告をしに来てくれた後のオフィスで、僕は一人感慨に浸りながら、ふと思いました。

「仕事が楽しい」
「受講生の人生に関われるのが幸せである」

でも・・・、

「これでいいのか・・・」
「僕には、もっとやるべきことがあったんじゃないか・・・」
「人の幸せにかかわる仕事をできていることを言いわけに、僕は、出版社の採用試験に落ち続けていることから目をそらし続けてきたのではないか・・・」

第二新卒(=新卒後2~3年目まで)として出版社を受験できる期間が、あと1年しか残されていませんでした。

「退路を断たないと・・・。僕のすべてを賭けないと・・・。事を成すことはできない」

そう覚悟を決めました。

その2か月後、次の担当になる人に引継ぎを終え、次の期の授業が始まる直前に、正社員の仕事を辞めました。

* * *

フリーターになり、短期の派遣社員として複数の出版社に勤めながら、すべての出版社の求人の募集に応募しました。

短期の派遣社員なので、つなぎの期間が1か月空くような時もあります。

その時は、日雇いで、ビルの建設現場のバイトなどをして何とか食いつないでいました。

(当時よくいった現場は、建設中の東京ミッドタウンの現場でした。だから昔僕はよく、「東京ミッドタウンを作ったのは俺だ」と言っていました。ミッドタウンに行くたびに、あのころの思い出が溢れてきます。あ、ちなみに新丸ビルを作ったのも僕です^^)

派遣先の出版社の編集者さんたちが、僕に本の編集術を教えてくれました。

「なんで派遣社員やってるの?」
「大変だね」

って、よく居酒屋に連れ出してくれて、ごはんを食べさせてくれました。それですごくお酒に強くなりました^^
(僕は福岡の出身なのに、それまであまりお酒を飲めませんでした)

でも、丸1年、1社にも受かりませんでした。

父は心配して、福岡に帰ってこいと何度も言ってくれました。

ある出版社の面接の後、「東京タワー~オカンとボクと、時々、オトン~」を観にいったら、涙が溢れて止まらなくなりました。

それまで、本とか映画で泣いたことなかったのに・・・。

目が腫れてしょうがないので、電車の中ですごく恥ずかしい思いをしました。

それ以来、すごく涙もろい人間になりました。

* * *

その頃、疲弊していた僕を助けてくれたのは、悩んでいるのが馬鹿らしいと思わせてくれる「水曜どうでしょう」、そして多くの本たちでした。

笑いと、多くの本たちが、あきらめそうになる僕を、すんでのところで引き留めてくれました。

*   * *

そんな、文字通りすべての出版社の求人に応募し続けて、ほぼ丸1年後、とうとう僕の電話に、前の職場である出版社からの合格通知が届きました。

上京して3年、ようやく僕は総合出版社の編集者になれたのです。

26歳になる誕生日の1日前の出来事でした。


■経済は損得で理解しろ!
僕が出版社で最初に出した経済書は、編集者の道を薦めてくれた飯田泰之さんの本でした。


“「世界一シンプルな経済入門」ってほんとかな。

勝間和代さんも「こんな本を待っていました! 最高の経済入門本です。ぜひ読んで下さい」と一喝しているのだから、そうなんだろうと第1章「経済学ってなんですか?」をめくって、不覚にも、いきなり目から鱗が落ちた。

まじかよ、俺は本書の上級編にあたる「経済学思考の技術 ― 論理・経済理論・データを使って考える(飯田泰之)」(参照)もきちんと読んでいるんだぜ。
と、ブログで書いていただき、飛び上るほどうれしかったのもこの頃です。

(後に僕は、finalventさんの次の書籍の編集を担当させていただくというあまりに光栄な経験もさせていただけました)