1998年(昭和63年)11月、当時の広沢民中国国家主席の訪日に合わせ、中国政府は石井貫一さんら3人の日本人に対し「国家友誼奨」を贈った。国家友誼奨は中国に貢献した外国人に対して中国政府から感謝の意を表明するもので、毎年北京での国慶節祝典前に授賞式がある。しかし石井さんら3人は高齢のため出席がかなわず、広沢民国家主席の訪日を契機に東京の在日中国大使館での授賞式となった。
受賞者3人の顕彰事由とは中国大使館の記録によれば、一人は林業で、また一人は牧畜業への貢献で、そして石井貫一さんは「日本方正地区交流協会」の創設と会長職としての活動であった。
方正地区とは中国黒竜江省の省都・ハルビンの郊外に広がる農村である。2002年秋、94歳で他界するその直前まで、晩年の約40年間ずっと、石井貫一さんは中国のこの片田舎のことを気に懸けた。方正県への彼の深い思い入れを理解するには、その戦前からの歩みに遡らなければならないだろう。
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北一輝は昭和11年(1936)2月、陸軍皇道派の青年将校が決起した2・26事件の首謀者とされて逮捕され、軍法会議で処刑となった国家主義思想家で知られている。出生地は佐渡の両津湊、家は代々の廻船問屋。実父は初代両津町長という町の名士である。
しかし、描かれた北一輝の相貌は論者によって様々に分かれている。
例えば、小説家の松本清張氏にかかれば、北一輝は昭和維新や国家主義運動に名を借りて財閥企業を恐喝し大金を巻き上げたごろつき紛いの人物となってしまう。
また、「北一輝論」や「評伝・北一輝」の著作で知られる松本健一氏によれば、幼き恋に破れた革命的ロマン主義者で、「国体論及び純正社会主義」の名著を契機に中国革命の志士と交わりながら、そこで革命運動のリアリズムから疎外され、方向性を喪失したとなってしまう。
日本軍部および財閥が日露戦争の勝利を起点に中国東北地帯で広げた“特殊権益“をさらに確固たるものとすべく満州国建国にむけて明らかな舵を切った歴史上の岐路が、昭和3年(1928)6月に関東軍が強攻した張作霖爆殺事件であろう。
事件には芳澤謙吉が北京公使として、また有田八郎も外務省亜細亜局長として、この前後に渡る中国国民政府との外交交渉など深くかかわっている。さらには、事件謀略の首謀者とされた関東軍参謀・河本大作大佐と密接に連携しながら事態を運営していたとみられる北京駐在武官の建川美次少将(日露戦争での「敵中横断三百里」の主人公。旧制新潟中学卒)も新潟出身である。
張作霖爆殺事件の要(かなめ)に何故にこうも新潟出身の人々が立ち現われるのだろうか。なぜなのか、単なる偶然なのか、興味を惹かれるのである。
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戦前の外交官で新潟出身者といえば芳澤謙吉と有田八郎の名前がまず挙がるけれど、他には詩人・堀口大学の父親で朝鮮王妃閔妃(みんぴ)暗殺事件に連座した堀口九萬一や乃木希典にロシアのステッセル将軍が降伏した水師営の会談で通訳を果たした川上俊彦(=かわかみ・としつね。後にポーランド公使)、日米開戦のギリギリまで戦争回避の対米交渉に奔走した斎藤博(駐米国特命全権大使のままワシントンで病死)もいる。
革命家、社会運動家のカテゴリーでいえば、北一輝のほかに関東大震災のとき甘粕正彦ら陸軍憲兵隊によって虐殺されたアナーキストの大杉栄(旧新発田中学卒)がいるし、アメリカの共産党との交流で知られるマルキストの猪俣津南雄(長岡出身)がいる。
こうして各氏の名前を挙げてゆくと、彼らの行動や思想に共通した新潟的固有のものが何かあるのだろうかという問い行きついてしまう。この問いかけへの回答はもう少し先に延ばしておきたい。
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さて益田孝に続いて、大倉喜八郎の事業と中国との関わりを述べなければなりません。
大倉喜八郎は明治4年の岩倉具視を団長とする遣欧使節団の一行に紛れ込んで内相・大久保利通の面識を得たことで、単なる一銃砲店の主人から財閥「大倉組商会」社長へと飛躍する契機をつかんだのです。台湾出兵や江華島事件、樺戸や網走での刑務所建設、不平等条約の改正を目指した外交の舞台となった鹿鳴館の建築など、多種様々な政府要務を足場にしながら矢継ぎ早に事業を拡大し、明治30年頃には財閥としての体制を整えるまでに至ったのでした。
大倉組商会の基幹事業は大きく分類して3つになります。貿易に商業・サービス業の「大倉商事」、鉱山・鉄鋼業の「大倉鉱業」そして土木建設の「大倉土木」で、大倉組商会はそれらの3大事業を統括する現代の持ち株会社といった趣です。
大倉喜八郎が手掛けた主な企業を挙げれば、帝国ホテル、帝国劇場、東京電灯(後の東京電力)、札幌麦酒、山陽鉄鋼、東京製綱、日本製靴、日清製油、日本無線、東京毛織、大倉製糸、北海道炭鉱汽船、大倉火災海上保険(後の、千代田火災海上保険)…など、壮大な広がりをみせます。大倉土木は現在の大成建設の前身です。
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益田孝や三井物産に続いて、大倉喜八郎や大倉組商会の中国との関わり合いについてお話するのですが、その前に、ちょっとここで中国の近世史をおさらいしたいと思います。壮大なスケールで中国近代史は進行するので、簡単にちょっと理解するなどということはとても恐れ多いことなのですが、少しでも歴史の流れが頭に入っていないと益田孝や大倉喜八郎あるいはこの後に続く北一輝、芳澤謙吉、有田八郎らの果たした役割がストンと落ちてこない気がしていますので、しばらくお付き合いください。
日本が明治維新をやり遂げた1868年ころは、中国では清朝皇帝9代目の咸豊帝統治下で14年余もの長い間続いた太平天国の乱がようやく終結し、幼い同治帝が即位して間もない時代でした。同治帝の母があの有名な西太后です。1871年に西太后は夫だった咸豊帝が崩御の後、先帝の弟・恭親王と組んで起こしたクーデター(辛酉政変)で政治の実権を握り、14歳の幼帝を擁立したのでした。
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益田孝が三井物産社長となって手がけた初仕事が、当時は国営だった三池炭鉱の石炭を中国・上海に輸出して売りさばくことでした。上海では英仏企業の進出で綿織物工場などが活況をよんでいました。そうした工場の動力燃料が石炭です。益田のかつての同僚であった米人商館を代理店にして急速に販売網をひろげることになったのです。
もちろん、この計画は前にも述べましたが、工務卿の伊藤博文からもたらされた話ですから、三池炭鉱の産炭量を上げる狙いで日本政府も全面的にバックアップしたのでしょう。
三井物産は江戸期から三井大元方の手掛けていた商売を引き継いではいましたが、会社創業期の成長エンジンはこの三池炭鉱の石炭輸出でした。
三井家を含めて江戸期の豪商たちの繁栄の後ろには、株仲間という幕府や各藩から与えられた特権的なカルテルがあってのものでしたから、自由競争を旨とした資本主義経済の勃興期である明治期になって様相は一変します。
旧来の特権感覚で商売を続けることは困難だったろうと思います。藩から貸金を踏み倒されたこともあったでしょうが、江戸期の豪商や大きな廻船問屋が次々と破綻の憂き目に遭っていったのでした。
「近代日中関係史と新潟人脈」の第6回目を始めます。
大倉組と三井物産の創業された明治初期のことを書きます。
両社とも創業期から中国を市場としてスタートしています。
その契機も大久保利通や大隈重信、伊藤博文など当時の明治政府首脳らとの密接な連携の中でつくられていったのでした。
武器商の傍ら、大倉喜八郎は横浜から入ってくる欧米の最新技術を必死に吸収しながら新しい商売(例えば、洋服店など)を起業していたのですが、そんな折に、接近を策していた参議・大久保利通が岩倉具視らとともに欧米巡視の旅行に出ることを聞きつけて、明治5年春、さっそく自前の通訳を伴って遣欧派遣団の後を追ったのです。
ロンドンで一行に追いつき、ロンドンの金融街、商業地を直に見学して目を見張る思いだったのでしょう。「これからの商売はここに基地がなくては情報も商機も手にできない」と思い至って、ロンドン支店を開設します。
これが大倉にとって最初の海外支店というだけでなく、日本企業が最初に設置した海外支店がこの大倉組ロンドン支店なのです。大倉は帰国すると直ちにそれまでの武器店、海外貿易店、洋服裁縫店という3つの事業会社を統合管理する、現代風にいえば「持ち株会社」としての大倉組を開業したのでした。
「近代日中関係史と新潟人脈」も第5回から本論に入りたいと思います。
皮切りは、大倉喜八郎、益田孝と中国との関係です。中国は清朝末期の西太后支配の時代ですし、日本は明治維新を経て“富国強兵“を合言葉に産業・軍事の近代化の道を進み始めたときです。
序論で説明したように、大倉は大倉商会の創業者ですし、益田も三井物産の創業社長ですから、二人と中国の関係は、二つの企業と中国との貿易関係と内容的に重なります。二つの企業はそれぞれ、明治末年には発展して大倉財閥、三井財閥の中核企業となったのですが、明治も初期は創業間もないときで二人の創業者による精力的な活躍が企業活動のすべてを占めていましたから、厳密な意味で二人と二つの企業内容を区別して考えることにはあまり意味がありません。
ふたりの事業家としてのスタートには若干の時間差がありますが、徳川幕府の基盤が揺るぎ、崩壊を始めた幕末期から明治維新といえば間違いありません。
さて、話をふたりが出会った明治初年の横浜から始めようと思います。大倉喜八郎、31歳。そして益田孝、20歳でした。
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「点描9人」の最終回で取り上げる3人は、日本の敗戦、毛沢東による共産党革命政府の成立、戦後の国交断絶、日中国交正常化から国交回復、LT貿易から円借款供与そして開放経済体制へと続く、戦後から今日までの日中経済交流の過程で活躍してきた人たちです。
田中角栄は言わずと知れた政治家です。
渡辺弥栄司さんは、9人の中では唯一、今なお元気で活躍している方です。元通産省通商政策局長の職をなげうって岡崎嘉平太(当時、全日空社長)を助けて北京連絡事務所の仕事を遂行した人です。
現在は、ついこの春先まで東京・青山の弁護士事務所代表としてお仕事をやっておられました。
佐野藤三郎は元亀田郷土地改良区理事長で、生粋の農民です。
この3人の方の簡単なプロフィールを、以下に紹介します。
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■阿部重夫
(情報誌「FACTA」編集長)
http://facta.co.jp/blog/ -
■隈 研吾
(建築家)
http://www.kkaa.co.jp/ -
■菅野誠二
(経営コンサルタント)
http://www.buonavita.co. jp/ -
■河田珪子
(常設型地域の茶の間「うちの実家」代表)
http://www.sawayakazaidan. or.jp... -
■小林康夫
(紙漉き職人、「越後門出和紙」代表)
http://www.kadoidewashi. com/ -
■手島龍一
(外交ジャーナリスト)
http://www.ryuichiteshima. com/ -
■新潟市都市政策研究所
http://www.city.niigata.jp/info/toshi_ken/
新潟と佐渡の政治、経済、文化などの調査・研究を通して、隠れた新潟の地域力を発掘する。
その成果をさまざまな形態で情報発信する事務所である。
代表を望月迪洋が務める。
【連絡先】
〒951-8116
新潟市中央区東中通2番町280
新潟時報会館ビル5F
電話/FAX:025-201-7146
1946年、佐渡生まれ。早大卒。69年、新潟日報社に入社。
編集局報道部で経済・政治畑の取材を経験し、94年に東京報道部長。
本社報道第二部長など経て2000年―07年に編集委員室長。同社を定年退職後に「新潟市都市政策研究所」主任研究員。
10年4月から非常勤で新潟市の(地域・魅力創造部)政策調整監。傍ら「新潟研究」事務所を主宰する。
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(2007年、(株)オンブック社刊)
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(1985年、岩波書店刊)
新潟日報社報道部編
・第一章「家が泣いている」=担当執筆 -
(1985年、新潟日報事業社刊)
新潟日報社上越報道部編
・高田鍛治町界隈=担当執筆
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1979年5月19日―22日付
4回連載 -
(一面)
1979年8月7日付―8月13日付
7回連載 -
(経済面)
1980年7月1日付―7月14日付
12回連載
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(経済面)
1982年1月1日付―1月16日付
13回連載
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(一面)
1984年5月6日付―5月11日付
5回連載