タイトル1


こう言うとなんですが、認知症患者って、
腫れ物みたいに扱われてませんか?

いや、実際に有料老人ホームでは、
なんというか日常のなかに埋没しているので、
そうまでないんですけれども・・・。(仕事ですし)

例えば、お家で認知症の祖母が暮らしているという状況で、
幼稚園に通っているばかりにお子さんがいるというときに、
時々、おばあちゃんが奇声をあげる。
だから、母親はおばあちゃんの部屋には行くなと子どもにいう。
そんなことがあるかもしれません。

単なる妄想ですが・・・。
しかし、『病気です』という宣言は、一定のラベルを賦すのは事実です。

『病気』という診断が救いになる側面

ただ『病気です』というのは、確かに本人にとって免罪符になる側面もあると思うんです。
例えば、最近になって読んだニコニコ静画の
大人になって発達障害と診断された私 「マジですか?」  作者:羅空擬王 様
とか読んだんですが、
『病気です』と診断されて、『救われた』面があると書いてあるんですね。
この作者さんはアスペルガーということですが、
アスペルガーであるという認定が自分という存在を理解するうえでの、
ひとつの方策になっているということです。

つまり、『なんだかよくわからないけど』●●ができないという状況から
『アスペルガーだから』●●ができないというふうに言葉によって定着できたわけです。

つまり、これがラベルを貼るという意味。
これが『救われた』という意味。

だから、悪くはない面もあるんですが、
逆に言えば、『アスペルガー』だからできないっていうのは、
そういった病症がない人から見れば、『腫れ物』と化す面もあると思います。

何故腫れ物に?

なぜ腫れ物と化すのかというと・・・、
いろんな状況が複合的にからみあってるので
これといった理由をあげるのは難しいのですが、
率直にいって、『病気である』というラベルは、
その人がアノマリーであるということを持って、
自分自身を特別化している面もあると思うんです。
神様転生でチート能力を付与されるがごとく、
アスペルガーであることをもって、特別感を演出しているとか、そういう感じ。

『化け物め・・・』
『化け物でもいいよ。誰かを救えるなら』

みたいなやり取りってよくありますし。
自分をアノマリーに置くことで、精神を安定させたいっていうのは、別にアスペルガーに限らず誰でもやってることです。中二病とけっこう見分けがつきにくいといいますか。

要は『腫れ物』として評価されるのは、その自分を特別に置くところが鼻についたんじゃないの
っていう、シンプルな考えです。
いや、ちょっと違うかな。
自分と『違う』という、単なる異類恐怖症かも?

『病気』というバリアで守られているので、ある意味、ここタブーかもしれません。

アスペルガーの場合は、そういう『演出』がわかりにくいって言いますし。
誤解なきよう申し添えておきますが、筆者自身は差別的な意見を言ってるつもりはありません。
ただ、そういうふうに病症がない人から『見られてしまって』、
そういうふうに『評価』されてしまうんじゃないかってことです。

『病気です』のラベルは貼るほうがいい?

さて、状況説明はこれぐらいにして、
『病気です』というラベルって、本当に貼るほうがいいんでしょうか。

認知症はグラデーションです。
つまり、正常とそうでない人との差が、決定的な要素によって決定されるのではありません。
したがって、ラベルは病床の固着化です。
外的な評価を固着化させる面があります。
『認知症』だからしかたないよねというふうに救われる面があるのと、
同時に『認知症』だから避けられてしまう面があります。

まあ、今よりずっと認知症が治る病気になれば、
早期発見大事となるかもしれませんね。
イタリアの場合は、
認知症→だから自分たちと違うんだ。→避けよう
というルートにならなかったのが本当に不思議。
今はこれぐらいで。









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