このツイートについてです。当該ツイートは過激化するライトノベルの表紙の「暴力性」について言及しており、どこまでが書店の平積みに適する表紙なのかという議論はあるとしてもその指摘は至極真っ当なものというほかないでしょう。
 しかしいつもの表現の自由戦士たちは、その指摘へまともに反論するどころか正確に解釈することすらままならない有様を見せつけています。
 とりわけ、今回問題視したいのは、作家として活動する人間の少なくない数が同様の、低レベルと言わざるを得ない反応を示していることです。

 本件は快不快の問題ではないのだが
 本ブログを定期的に読んでくれている方にとってはもう幾度とない繰り返しになるでしょうが、今回の問題は快不快の問題ではありません。当該ツイートも指摘しているように、あの表紙が「女性を性的に消費する」ものだからこそ問題になっているのです。
 ここではあえて女性に限らない話として書きますが、ある属性の持つ(あるいは持つを考えられる)特徴を過剰に強調し、それを商業的な文脈で利用することは、その属性に該当する人々を人としてではなく、その特徴から得られる利益を提供するだけのものとして扱うと同時に、その特徴から外れる人々に価値を認めないということでもあります。そしてそれを大々的に展開することは、社会がそれを是認しているというメッセージを発することです。
 例えば、今回の問題であれば、過度に性的な意味づけをもって強調された表現は、女性をその人格ではなく男性の性欲を慰撫するものとしてしか認識せず、かつ本来女性は男性を慰撫するために存在するわけでもないのに、そうならない女性に価値がないと宣言するものです。そしてそれを書店へ平積みすることは、そのようなものの見方に社会の少なくない人々(主に男性でしょう)が同意している、そのようなものの見方でまさに自分たちを見ていることの証明にほかなりません。自分が人格ではなく物体として認識されていることをここまで明け透けに宣誓されれば、誰だって脅威を覚えるでしょう。

 ほかの属性で例えるならば、障碍者が困難に立ち向かういわゆる「感動ポルノ」ばかりが書店に並ぶさまを思い浮かべてみましょう。このような場合、障碍者は単に障碍があるだけの個人ではなく、マジョリティに「感動」とやらを届けてくれるコンテンツとしての価値しか認められていません。そしてそうならない障碍者、つまり何らかの困難に立ち向かって人を感動させられない障碍者には価値が見出されないということになります。

 重要なのは、女性の性的な価値にしても、障碍者が立ち向かう困難にしても、それを規定するのは当事者ではなくマジョリティ、たいていの場合は健常者男性であるということです。当事者が「私のこの体に価値があるんだ」とか「私のこの挑戦には価値があるんだ」と認識している場合は単なる自発的な行動にすぎませんが、その規定が他者の手に委ねられると、それは利用や消費の色を帯びます。
 かつ、その利用方法の如何によっては、例えば女性を性的に利用するという場合においては、それは単なる利用や消費ではなく、その属性に対する攻撃の意味合いを持つようになるのです。女性を「性的に利用」するとすれば、それは当人の意思に関係なく性的な行為を大なり小なり行うこと、あるいはそれを想起・予感させることをすることであり、それは攻撃に他ならないでしょう。

 なぜ快不快の問題になってしまうのか
 ところで、なぜこのように問題の重要なポイントをはっきりと明示的に言及してもなお、快不快の問題であるかのように解釈されてしまうのでしょうか。表現の自由戦士たちの、認識の幅の狭さが主因ですが、ほかにも理由があります。
 それは、大半の場合、問題として俎上にのっている攻撃的で搾取的な表現は、不快でしかありえないからです。攻撃や搾取なのにその当事者にとって不快ではないということはないでしょう。そして多くの場合、人はその表現がなんで不快なのか表現することが簡単ではありません。あるいはできたとしても手間がかかるでしょう。
 それゆえ、まず表現に対する印象、反応として当該ツイートのような気持ち悪いとは、不快といった表現になりがちなのです。しかし言葉としてそういっているからといって、問題の中心がそのような快不快にあるわけではないことを上述の通りです。

 もちろん、どこまでの表現が適切か、そもそもこれらの表現に関して攻撃や搾取といった見方を肯定するかは賛否両論あるでしょう。しかし現状、これらの表現を擁護しようとする人たちは、この論点を正確に把握することすらままならず的外れな反応に終始しています。このような現状で、批判を招くほどきわどい表現を野放図にばらまき続ければ本当の規制も遠くはないでしょう。