お世話になっております。木静です。
ここ数年、ほぼ仕事の告知しかブログでは書かなくなっていましたが、昔は「はてなブログ」で普通に雑記なんかも書いていたのをふと、思い出しました。
だからという訳でもないのですが、久々に雑記など書かせていただこうかと。
今回は観劇の感想記です。お時間ございましたら、暇つぶしにお目通し下さい。
大阪の小劇場といえば、今はもう無くなってしまった扇町ミュージアムスクエアなんかが懐かしい場所として記憶にありますが、今でも小劇場やちょっとしたイベントスペースはそこかしこにあって、小劇場が減ってきたと言われた一時期よりも、今は増えてきたのではという印象すらあります。昔はなかった地下アイドルなんて土壌も出てきたりして、そこに行けば毎日何かをやっている「ライブ体験」が再び重要視されるようになった流れもあるのかもしれないなと個人的には感じています。
そうは言っても、小劇場って、ちょっと一見さんに敷居高いですよね。場所が分かりにくかったり、どこかアングラな雰囲気。狭い小屋、窮屈な座席でお尻は痛くなるし、トイレも少なかったりして。よほど舞台の芝居が好きな人か、関係者しかわざわざ観に行かない、それが実際の所だと思います。チケットもシネコンなどで観れる映画より高かったりして。(まあライブが映画より高いのは当たり前なのですが)
なので僕も積極的に他人を誘ったり、無理におすすめしたりはしないようにしています。
ただまあ、こういった個人の観劇の感想からでも、小劇場でのお芝居に興味を持つ方がわずかでもいたらいいな、と思いながら、今これを書いています。自分も、他人に薦められてお芝居を観て、その生の面白さを初めて知るようになったものですから。相性のいい劇団と出会えて、お気に入りの役者さんを見つけられたら、上記したマイナス要素もそれほど気にならなくなるかもしれません。(とはいえ自分も小劇場に足繁く通うほどの人間ではありませんので、随分おこがましい話ではありますが……)
あ、あと話は少しずれますが
有川浩さんの小説「シアター!」を読むと、小劇場に行くのが少し面白くなりました。
今回は「シアトリカル應典院」という、大阪は日本橋近くにある、お寺が開いている小劇場に行ってきたのですが、ここはロビーも広く、トイレも男女ちゃんと分かれていて数にも余裕があり、舞台スペースも天井は高く、客席も後ろが高くなって段々に椅子が並んで、前の人の頭で舞台がよく見えないなんて事もない。小劇場の規模としては、観客に優しい劇場です。日本橋の黒門市場からもほど近いですし、でんでんタウン~オタロード付近に足を運ぶ方にも、ちょっと観に行ってみようかなと思える立地だと思います。
上演されていたのは
劇団Mayの「モノクローム」
twitterでは度々RTなどもしていたのですが、僕が何年も前から積極的に上演を見に通っている劇団です。
座長で作・演出を手がける金哲義さんの構成と舞台演出が好きで。
今回の舞台はこんな感じでした。
天井が高いからできる舞台美術で、客席から見て右側の上手に高い舞台があって、結構な高さがありました。その上にあるのは映写機と映写室を表していて、映写機の向いた下手の先にスクリーンがあることが分かるようになっています。舞台左側、下手の平台が映画館の客席、中央の平台がそこで上映される白いスクリーンを表していました。
物語はその映画館を舞台として、そこに集う人々を中心に描かれています。
映画館といっても最近増えたシネコンのような、いくつもスクリーンがある映画館ではなく、昔ながらのフィルム映画を上映するような、古い映画館。
その映画館に、かつて火災で失われたと思われていた幻の映画フィルム「百鬼夜行」が持ち込まれる所から舞台は始まりました。
大雑把な登場人物をあらすじにそって説明すると、
◯フィルムが持ち込まれた小さな映画館で働く、映写技師の青年
青年は、時代と共に廃れていくフィルム映画の映写技師という職業に葛藤を抱えている。
◯青年が尊敬してやまない、その映画を撮った、老いた映画監督
老監督は、幻となって消えた筈の映画が掘り返されることに戸惑い、かつての後悔と向き合う。
◯幻のフィルムが上映される事を知り、その映画の撮影当時エキストラとして出演したという、生前の父親の姿を確かめに訪れた家族(父娘)
父は映画鑑賞を苦手としていて、その14歳の娘はそんな父にわだかまりを感じている。
◯映画「百鬼夜行」に出演した、そこに写るかつての銀幕スター、映画俳優たち3人
彼らの現在と、過去と、そしてフィルムの中の映画、3つの時間が舞台上で並列し、また混ざり合って描かれていました。
ところで。劇団Mayの舞台演出の特徴のひとつに「暗転が少ない」ことが挙げられると僕は思っています。舞台上の場面転換を表す時の、舞台から客席から真っ暗になって何も見えなくなるアレです。
大抵は暗転中に舞台のセット、机や椅子など小道具が片付けられたり並べ替えられたりして、役者さんや立ち位置も入れ替わり、暗転が終わると次のシーンが始まる。そういう構成が舞台ではよくあると思うのですが、劇団Mayの舞台構成はこの暗転が少ない。あっても、それが演出として機能していて、単純にシーンの切り替わりや時間経過に使われることがない。暗転がポッカリ観劇にノイズとなる隙間を作らず、集中力を切らさないのでテンポがとてもいいのです。演じる役者さんは大変でしょうけど……。
そういう点で劇団Mayの舞台転換には毎回異なる工夫が様々にあるのですが、今回は先に図で示したように、下手と中央2つの平台と上手の映写室を示す高い足場、そして手前に開けた空間と、大きく4つに舞台を使うことでシーンをシームレスに見せる工夫がとても上手く機能していました。
また、主題が「映画」ということから、シーンの終わりにスポットライトの中にいる役者さんがそれぞれ映画撮影でカットとカットの間にカメラの前で使われるカチンコで、舞台上のシーン転換を自らのキュー出しでカメラ視点にいる観客に向けて行う、メタ構造の演出で観る側を飽きさせない工夫がありました。映画の撮影の多くは、台本の時系列に沿って最初からラストシーンに向けて順番に撮るのではなく、様々な都合によってバラバラに前後して撮られることが多いと聞きますが、そういう事も舞台上で再現して構成していたように思います。フィルムを一時停止、コマ送りして見せるのを舞台で役者さんが実際に動きを止めて再現する、たった6コマに写る俳優の表情を切り取る演出など、作・演出の金哲義さんの得意技、真骨頂といった感じすらします。(「欽ちゃんの仮装大賞」の晩年が、映画的視覚効果・演出を、舞台上で人力によりライブ再現する視覚体験に進化したのを連想します)
最近だと海外ドラマの「
ハウス・オブ・カード 野望の階段」で主演のケヴィン・スペイシー演じるフランクが画面のこちら側の視聴者に向けて突然話しかけてくるように、またアメコミ映画「
デッドプール」で彼が観客にカメラ目線で話しかけ、なおかつ自分が虚構の中のキャラクターだと自覚して振る舞うように。「蒲田行進曲」の終盤の演出なんかも連想しますけれども、さっきまでキャラクターとして演じていた役者さんが、自在に役を離れ、役者本人として、また黒子として舞台を自在に行き来する。その目まぐるしい緩急が、2時間15分という長尺の舞台をテンポよく、中だるみを少なく見せるコトに成功しているように感じました。
またタイトルの「モノクローム」が示す、フィルム時代のモノクロ映画の「彩度のなさ」を、照明と役者さんの衣装などの配色で中央の平台に上手く表現していたのも印象的でした。
連想したのは、映画「シンドラーのリスト」でのモノクロ映画で表現された画面、そのごく一部分だけを
赤色で染めて隠喩を残すような演出。そんな
要素も効果的に働いていました。
劇団Mayの脚本は、それほど説明が多い作品ではないと思います。見ている内に、分からないなりに見ていた断片的な情報が段々と繋がって、なんとなく全体像がつかめてくるような、そういう構成がとても上手いです。(一貫した基本設定には独特な要素もありますけど、何作か見ている内になんとなく分かるようになりました)
まず、謎が示される。だから、舞台に引き込まれる。
今作で言えば、幻の映画「百鬼夜行」
何故それが幻と言われるのか、そして今になってそれが映画館に持ち込まれる理由。
ミステリのように、登場人物が現れる度に謎が提示され、少しずつそれが紐解かれ、それぞれの登場人物がたぐる、自らにつながるその紐(今回は文字通りフィルム)が終盤に向け一気に収束し、伏線が明かされていく構成は見事です。本当に感心しました。テーマと演出、用いられる手法に一貫性があって、見ていて気持ちがいいです。
また、劇団Mayの舞台の好きな点なんですが、現実に明確な答えの出ない問題をテーマに抱えている場合、舞台上でもそれに対して安易に答えを提示しないところが特徴的で。
劇中、悩んでいるキャラクターは最後まで悩んでいるし、劇中はっきり善悪・正誤のある答えが示されることもない。キャラクターは幕が引いた後も悩み続けるだろうことが推測できるし、劇中で描かれた問題がどう解決するのか、もしかしたら解決しないのか、観る側にも分からない。
時に重苦しいテーマを扱いながらも、幻想的な演出でどこかそれを寓話的に描くことで、現実の重苦しさから突き放してくれるような演出。押し付けがましくないというか……これをもって何かそういう問題について理解を示してもらおうとか、理解を得ようという作為を拝した、物語として仕上げる脚本のバランス感覚が絶妙だと思います。
作品に対して作り手が誠実というか、正直なのかもしれないな、と感じます。例えば映画撮影は俳優さんを様々な角度で撮り、また同じシーンでも何度も繰り返しカットを変えて撮影し、それらを素材に、編集次第でどうにでも印象を異なって見せることができるように、テーマに対するアプローチが多角的なので、鑑賞後はさほどモヤモヤせずに不思議と清々しい。まあ、それもまた金哲義さんのごく一面に過ぎないのだろうな、とも思います。振り幅が大きいから、外角へも振れるし、コンパクトに振ることもできる。
今回も、そういう見応えのある舞台でした。
劇団May、改めておすすめできる劇団だな。と思いました。(ただ、小劇場での2時間を超える観劇は、あれだけ環境の恵まれたシアトリカル應典院であっても、やっぱりお尻と腰が痛いです)
劇団May・
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あと細かい所を挙げていくとキリがないのですが、劇団Mayの舞台には常連客演の
上田裕之さんはやっぱりいい役者さんだなと、改めて好きになりました。立ち姿がホント絵になるなあと。台詞がよどみ無くはっきりと耳に届いて、聞いていてとても心地良かったです。色気もあって大変かっこいい。神経質なおじさん役もできるし、冷徹な役人もできるし、今作のような、役者に命がけで望むような存在感のある映画俳優役もできる、毎回印象ががらっと変わるので、もっと見たい。
主演を務めることが多い
柴崎辰治さんは、過去作では青年役がわりと多くて、叫ぶように声を張るお芝居が多かったんですが、今作では14歳の娘を持つ父親としてのある程度落ち着いた姿と、自分が14歳の時に亡くした父へと向ける息子としての姿を並列させながら、落ち着いて演じておられたように思いました。
その母親(オモニ)役の条あけみさんは柴崎さんとの掛け合いが面白く、全体的にややシリアスな今作において、言葉少ない台詞で確実に笑いどころを作っていました。
今作のヒロイン、最年少の崔智世さんも、等身大の説得力がありました。劇団Mayの脚本は、配役にアテ書きが多いように感じるというか、演じる役者さんそのものがその役柄に必要とされている印象がいつもあります。今作で語られた「道が人を必要とする」を体現している存在だと思いました。崔智世さんの成長にともなって、彼女が演じる役もまたこれから成長するのを観るのが楽しみです。
老監督を演じられた
倉畑和之さんは、今作の終盤、木場夕子さん演じるエキストラの少年をフィルムの入っていないカメラで自ら撮影するシーンがとても良かったです。カメラのファインダーを覗き込んでいながら、だんだんと自分が冒している事の致命的な過ちに気付き、動揺する変化が伝わってきました。すごく良かった。
その
木場夕子さんが演じた少年、劇団Mayでは定番とも言える役柄なのですが、今作も良かったです。愛嬌のある小憎たらしい少年役が本当に素晴らしい。その声が好きです。木場さんが演じる少年は、劇団Mayの作品では過去の回想として度々配役されることが多いのですが、大抵その少年が大人になった姿とのギャップが描かれるので、それが物悲しく滑稽で、その憧憬からくる切なさも劇団Mayの舞台にはなくてはならない要素だと感じます。
若い映写技師を演じた
練間 沙さんは、大阪九条にあるシネ・ヌーヴォという映画館に実在のモデルとなった映写技師さんが居られるという事で、特に難しい役どころだったような気がします。彼にも、好きを仕事にしてしまうような「道に必要とされる」映画体験がきっとあったんだろう、と想像させるものがありました。
終盤、往年の女優、稲村香代子に話しかける台詞は、誠実さがにじみでるいいシーンでした。
青年に取材をする記者/係員の金正愛さんと練間さんのインタビューのシーン。上手の高台での掛け合いは、互いに映画が好きでそれに関わる仕事に就いているという立場では共通していながら、各々が望まず負わされた仕事としての立場、役割がそれぞれ違うと、こうなるよなあ……と。地味にいい対比に見えました。
稲村香代子を演じた、のたにかな子さん。この方も劇団Mayでは常連で、どこか神経質な潔癖さを感じさせる役柄で舞台の緊張感を上げる役割を果たしている役者さんだなと思います。ストリングスの高音を引き絞るような、切れ味のある役をさせるといい味だなあと今作でも感じました。台詞の裏に言葉とは違う心情がちゃんと見えるというか、彼女がいるシーンはそういう空気になるのが不思議でした。
その稲村香代子に「呪い」をかける往年の大女優、小野田京子を演じた水谷有希さんは、中央の平台にすっと立った時の絵面が印象的で絵になって、いわゆる昔の古い映画の女優像を体現していました。どこか狂気というか、怖さもあって、終盤のモノクロームと現実が入り交じるシーンでのしたたかさが、役者の業の深さを感じさせて、怖くて、良かったです。
映写技師の青年を叱咤激励する映画好きの老女を演じた
中野π子さんは、以前から度々客演していましたが、やはり目を引く存在感がありました。舞台に黙って立っていても振る舞いが自然に見えるというか、その役が黙って立っていたらきっとこういう立ち振舞いで、こんな姿に見えるんだろう、という。手持ち無沙汰感がないので、キャラクターとキャラクターの後ろにいるだけで、絵面に安定感を持たせる不思議な役者さんな気がします。台詞が走らず聞き取りやすく、またちゃんと他の役の台詞を聞いて、受けて、それに応じて台詞を出している感じが良かったです。そこにいるだけで味がある、何か奥行きを感じる、というのは強い気がします。
居るだけで存在感がある、という点では映写技師の先輩を演じた石川晃さんはギタリストということもあり、劇中でも生音を奏でていて、いわゆる舞台の音響効果、劇伴奏としての音と、役が劇中に奏でている芝居としての音の境目を行ったり来たりする、その匙加減がほどよく、その両方ができるのは何気に物凄い事なのではと思います。
その映写技師の上司を演じた
田中志保さんは劇団Mayの団員さんで、多くの作品でいわゆる憎まれ役というか、表面的には他人に厳しく当たるけれど、根は優しい役をよく演じておられていて、今作でもその持ち味が活かされた配役だったと思いました。何かと貧乏くじを引かされる苦労人の雰囲気もあって、映画館の堀江館長との対比がコミカルさを際立たせていました。
映画館の堀江館長を演じたのが作・演出でもある金哲義さんで、以前より団員が増えたこともあってか、増えた分後ろに一歩引いて、奔放に楽しんでいるような印象を受けました。今作は特に楽しそうでした。きっとその頭の中にはいろんな引き出しと中身があって、必要に応じて使い分けるバランス感覚と、巧みな構成を支えているのだろうと思いました。でもそれらに縛られずに、時に暴力的に、計算してたらやらないのではと思わせるいちびった愛嬌は人間力だなあと、毎回感心しています。