メタ科学批判シリーズの最後として、科学社会学を取り上げる。科学社会学はメタ科学の中でも新参者でその歴史は100年にも満たない。自然科学系の科学者の中で考えた場合、科学史や科学哲学には関心を持っても、科学社会学についてはその存在すら知らないのが多数派であろう。事実、私も福島原発事故を契機として初めて科学社会学という名の専門分野の存在を知った一人である。科学者は社会的存在であり、科学の成果が社会に対して大きな影響を与える以上、社会の中での科学の有り様を研究する分野としてのメタ科学の必要性は当然と言える。科学社会学が現在の社会における政策決定にどの程度の影響力を持つのかは不明であるが、科学と社会が健全な関係を保つ上で、科学社会学に求められる役割は大きい。他方、福島原発事故を契機として、科学社会学者―科学社会学の研究者―からの発言がそれなりに影響力を持ちつつある現在、科学社会学者は社会からの批判を免れることはできない。私は、科学者として科学社会学的問題意識を持ち続けて来たが、科学社会学の研究成果については殆ど無知である。羊頭狗肉となるが、以下では、科学社会学一般の批判ではなしに、一部の科学社会学者の発言に見られる反科学主義的傾向について批判する。以下では、科学という用語を自然科学の同義語として用いる。
ここで取り上げるのは、大阪大学コミュニケーションデザイン・センター准教授の平川秀幸氏(専門は科学技術社会論)である。氏は「反原発原理主義者」が集うサイトで高く評価されている。それは、氏の主張が反原発運動の理論的後ろ盾になると思われているからである。「反原発原理主義者」は、原発は議論するまでもなく極めて危険な技術であると考えおり、現在稼働中の原発は一刻も早く停止すべきと主張している。彼らは、脱原発を政治運動と考えており、すべての事柄に対する価値判断の基準は、それが脱原発運動にプラスとなるかマイナスとなるかである。この観点から、放射能(放射性物質)はどんなに少量でも危険であり最大限の回避行動を取るべきと考える人は賞賛され、危険性を評価した上で適切な行動を取るべきと主張する人―いわゆる「正しく恐れる」派―は敵とされる。「御用学者」とするレッテルを貼ることが容易な学者の場合、そのレッテルだけで敵(=悪人)であることが明白なので、それ以上は追及されない。ところが、このレッテルを貼ることが自明でない学者が「敵」である場合、「エア御用学者」と言うジャーゴンで呼ばれ、その言動が執拗に追及される。このような学者は「正しく恐れる」派に属する人が多いが、それが彼らの放射能恐怖キャンペーンに対する批判となるからであろう。
平川氏は福島原発事故関連で沢山の発信をしているが、今回は「3.11東電原発事故が専門知に突きつけるもの― 信頼の危機にどう応えるか―」と題する文書を俎上に載せることにする。この文書はパワーポイントスライドのpdf版である。そのため、それを正確に読解することは困難であるが、以下では誤解無く読めたと考えられる部分に議論を絞る。パワーポイントスライドであることを別にしても、この文書には海外から輸入された多数の専門用語が散りばめられており、大変読み難い。例えば、「トランスサイエンス」は、科学が関係する問題であっても専門家だけでは決定できない領域―科学と社会の接点―のことを指す。ところが、科学の応用がそのような領域に属することは昔から自明のことであり、新しい専門用語を導入する必要性については疑問が残る。
スライドのP6(6ページ)では、「専門家・市民・政策立案者の絶えざる対話必要」と提言しているが、様々な公聴会が儀式に堕していることを考えると、それが有効な方策であるかどうか疑問である。市民と言うと響きがいいが、多くの場合「プロ市民」が主導している。公聴会が正しく機能しないことの一因がこのことにあることについて、科学技術社会論を専門とする平川氏が知らない筈はないだろう。公聴会は公共政策の決定に市民の意見を反映させる場として設けられた制度である。ところが、専門性の高い問題の場合、平均的市民が政策変更を迫るような意見を陳述することはほとんど期待できない。従って、そのような公聴会に参加する市民が、当該問題に関する運動(通例反対運動)を継続的に進めてきたグループのメンバーに偏ることは避け難い。それでも、建設的議論が可能であれば、そのような公聴会にもそれなりの意味を持たせることができる。残念ながら、そのような公聴会の開催により政策が良い方向に修正された事例については寡聞にして知らない。現実には、行政側の提案を実行に移すための手続きとしてしか機能してないと思われる。最近暴露されたように、このような公聴会に対して、行政側あるいは関連事業者側からのいわゆる「やらせ」が横行していた。「やらせ」はいかなる意味でも正当化できないが、それがこの種の公聴会の不毛性から生じた歪であることを否定することはできないだろう。
自治体や国などで採用されている代議員制度は、直接民主主義が機能しない規模の人間集団において民主主義的意思決定を行うための代替手段である。従って、政策決定に問題があるとすれば、それは政治家(議員)の問題であるとともに、それを選んだ住民なり国民の問題である。他方、マスメディアは第四権力として議会や行政府を監視することが期待されている。この監視機能が有効に機能していないのも基本的には国民の責任である。この辺の根本的問題を放置して、2次的なシステムの設置を提案しても、事態が改善されるとは思えない。
P11の「科学的ファクトの社会的意味」と題する項目では、低線量被曝者に対しては補償がなされない恐れがあるとして専門家を非難している。ところが、どのように補償するのが合理的であるかについては専門家の検討に委ねなければならない。私の試案はそれに対するひとつの解答である。
P12は3.11以降における専門家の発言に対する批判である。事故により放射能が環境に放出されてしまった以上、正しい理解に基づいてそれに対処するよう国民を啓蒙することは専門家の責務である。放射線の性質、環境における放射能の振る舞いおよびそれによる健康被害等の問題が極めて高い専門性を持つからである。そのような努力をしている専門家に対して『「正しく恐れる」リテラシー言説の「傲慢さ」』として非難する平川氏の意図は理解し難い。また、「多くの人々がわざわざ放射線リテラシーを身につけなくてはならない状況に追い込んだのは誰か?」としてそれらの専門家に責任を転嫁することはさらに許し難い。それらの専門家に責任がないとは言えないが、彼らの多くは原発についての直接の推進者ではない。なお、福島原発事故の責任問題については、私の別な論考を参照されたい。
P17では「価値中立性」という概念の再定式化を提唱している。「誰もが偏っている」という標語それ自体には異論はない。しかしながら、偏りの程度は人によって異なり、ある問題に対する異なった意見が同等の重みをもつとは限らない。もしも、この標語を科学とニセ科学が対等である―一種の相対主義―ことの根拠とするのであれば、到底受け入れることができない。
何よりも驚かされるのは、P18の「知識と専門家のポートフォリオ」である。このスライドには、知識主張あるいは知識主体の信頼性の程度についてのスペクトラムとして、1次元的な模式図が掲げられている。そして、『3.11以前は、このあたりを「トンデモ」「プロ市民」というレッテルで切り捨ててきた』として、この1次元スペクトラムの相対的に信頼性が低い部分を一括した。これは、平川氏が前段で私が懸念した思想を抱いていることを強く疑わしめるものである。前回述べたように、信頼性の程度により1次元スペクトラムとして並べることができるのは科学の枠内での異なる主張群に対してであり、科学と「トンデモ」(ニセ科学)を繋ぐグラデーションについてではない。
平川氏の主張全体のトーンから、私は氏の科学に対するルサンチマンを嗅ぎ取らざるを得ない。人格攻撃となるが、氏ご自身のプロフィールに「バリバリの理科少年だったが、理学修士をとったところでグレて文転」と書かれていることが関係しているのであろうか。氏は3.11により日本における科学および専門家にバツ(bad mark)が付いたと考えているようである。これに対して、3.11以前から原発に反対してきた人たちは、その中に「トンデモ」が含まれていようとも、礼賛の対象と考えているように見える。平川氏を含む一部の科学社会学者に共通して見られるのは『「ニセ科学批判」批判』的性向である。ニセ科学批判は科学者側からなされるが、その行為は科学の枠内に閉じたものではない。また、その動機には科学者から見た科学外のものに対する価値判断が含まれている。そのため、ニセ科学批判は科学社会学の格好の研究対象と言える。科学社会学的には、科学も「ニセ科学」も同じ社会的存在である。また、科学が社会的に圧倒的権威を持っているとしても、それが「絶対的真理」であることは保障されていない。そのため、一部の科学社会学者から見ると、ニセ科学批判は、科学の権威を盾とした科学外のものに対する攻撃であり、越権行為に見えるようである。他方、「エア御用学者」は、科学からその外側に対して自発的に発信する点で、ニセ科学批判をする科学者と共通性がある。そのことから、両方のアクションを行っている科学者も少なくない。「エア御用学者」に対する反感は、ニセ科学批判をする科学者に対する反感と同質の理由によるのだろう。いずれにせよ、一部の科学社会学者に見られる反原発運動に対する共感の背景には科学に対する敵意が隠されているように思えてならない。なお、科学に対する反感の文化的背景については「現代のラッダイト運動」を参照されたい。
追記:書き上げた後で気づいたが、本稿は「反原発原理主義者」と「エア御用学者」との論争に関するメタ的視点からの論評とも読める。ただし、中立的ではなく著しく一方に偏っているが。このシリーズの中で、前回まではやや高尚なエッセイとなっているが、今回はかなり政治的であることを認めざるを得ない。