April 04, 2012
狂人が作った音楽と終わらせた時代。「ビートルズ・ヘルタースケルター事件」顚末記・前編
前置き無しでいきなり動画にいきます。 詳しくは動画の後で・・・。
http://youtu.be/lFr4zSA_EhI
0:02 | 「とんでもない殺人事件が起こりました…」 捜査官の一人は当夜の凄惨な状況をこう語っています。 |
0:09 | 殺されたのは5人でその中には映画監督ローマン・ポランスキー氏の妻で女優のシャーロン・テイトさんも含まれていました。 |
0:18 | 映画「哀愁の花びら」で有名なテイトさんは妊娠8ヶ月で発見時彼女はビキニタイプのナイトガウン姿で首に紐がかけられており、その紐のもう一方の端は男性の体に結び付けられていました。 |
0:27 | 「家の中に2つの遺体と、外に2つの遺体がありました」 |
0:30 | 他の遺体の身元の一人はハリウッドのヘアー・スタイリスト、ジェイ・セブリング氏で、もう一人はコーヒー王の相続人アビゲール・フォルジャーさんでした。 |
0:35 | 現在、このロサンゼルスを望む丘に建つ200万ドルの邸宅は立ち入り禁止となっております。 |
0:43 | 警察がここに到着したとき家の電気と電話線が切られており、遺体は死後12時間が経っておりました。 彼らはメイドによって発見されました。 |
0:54 | 捜査官の一人は「この様な凄惨な事件現場は今までに見た事がない」と語っています。 |
1:01 | 警察は現在の所、容疑者は見つかっていないとしておりますが、このロサンゼルスの現場より15マイル離れたシルバー・レイクでさらに2人殺されている事件がありました。 |
1:09 | スーパーマーケットのオーナーで、リーノ・ラビアンカ氏とその妻ローズマリーとが刺殺されているのを彼らの子供達が見つけました。 |
1:17 | ラビアンカ氏の死体の胸には「war」と書かれてあり、又死体の一つの近くには「Death to pig」と血で書かれてありました。 |
1:24 | 「pig」という血文字はシャーロン・テイト殺人事件の現場のドアにも書かれておりましたが、警察はこれらの事件が繋がっているとは考えていないと表明しています。 |
上のフィルムは40年程前に全米を震撼させた俗に言う「へルタースケルター事件」のニュースです。 日本でもこの事件の事を知っている人は多いと思われますが(私は知りませんでしたが・・・)、今回の記事はこの猟奇事件とこの事件のもう一つのキーワードである「音楽」を、当時の音楽と共に紹介して参ります。
今回は音楽動画・写真もいっぱい貼り付け、文面もかなり長いです。(重い!) 事件は凄惨で狂っていますが極力皆さんが鬱にならない様、背後の興味深い要素を中心とした読み物として構成したつもりです。 それでも事件ものの記事が苦手な人はここまでにしておいてください。
なお、漫画家の岡崎京子氏が描いた沢尻エリカ主演映画「ヘルター・スケルター」とは関係ありません。 岡崎氏もなぜこのタイトルを使ったのでしょうかね?
こんな時代の出来事でした。
http://youtu.be/bch1_Ep5M1s
フラワームーブメント、ヒッピー、ラブ&ピース、フリーセックスにLSD全盛の時代。 そんな時にチャールズ・マンソンがやってきてヒッピーカルト集団を作り、「隣人愛」を説くヒッピーに「隣人を殺せ。 混乱を生み出せ」と説き、ヒッピーの時代に終止符を打たせました。 つまりこの事件は、人を殺しただけでなく、1つの世代や全体的なムード、空気をも殺してしまった、とも言われています。
事件のサマリー 1969年8月9日、マンソンはカルト集団のメンバー4人に人を殺す様指示。 ビバリーヒルズにある、映画監督ロマン・ポランスキーと妻で女優のシャロン・テート (妊娠8ヶ月)宅に押し入り、シャロン他、彼女の友人3人と、家に入る際に目撃された少年を殺害。 ポランスキー監督はヨーロッパで撮影中であった。 翌日の夜、マンソンとファミリーのメンバーは、実業家リーノ・ラビアンカと妻ローズマリーを自宅で殺害。 この時は、やり方を見せる為と、マンソン自ら出向き、犠牲者を縛りあげ、ファミリーに2人を殺す様命じた。 マンソン自身人を殺していないものの、殺人を計画・命令をしたのでした。 (これらの殺人を犯す前にファミリーは金目当てで麻薬の売人を一人殺しています。) チャールズ・マンソン及び実行犯のメンバーには死刑判決が下されましたが、カリフォルニアでは直後に死刑が廃止になったことから終身刑に減刑され、チャールズ・マンソンらは現在でも服役中です。 |
チャールズ・マンソンの経歴(Wikiペディアより)
マンソンの実の母はオハイオ州シンシナティの売春婦で、16歳でマンソンを産んだ。 彼は始め名前が付けられず、数ヵ月後にようやくチャールズと名付けられ、母親の一時的な結婚によりマンソンの姓をもらった。 5歳の時、母親がガソリンスタンドで暴れ投獄されたのでしばらく祖父母の手で育てられたが親戚に引き取られる。 その先で虐待を受け、他の親族宅を転々としたのち孤児院に入れられる。 その後孤児院を脱走してようやく母に再会するが見放される。 このような複雑な出自のため社会に適応できず、9歳の時犯罪に手を染めて以降1967年に釈放されるまでに何度も服役を繰り返し人生の大半を刑務所で過ごしていた。
彼が釈放された1960年代後半、時代はフラワー・ムーブメントの真っ只中。 世の中はフリーセックスにLSDに溢れ、男は髪を伸ばし髭を生やしサイケデリックでアウトローで音楽が出来るヤツがかっこいいとされていました。
刑務所でギターの演奏を習っていた正真正銘のアウトロ-であったマンソンはその時代にぴったりとはまったのでした。
マンソンはビートルズに感化を受け、刑務所に服役中にマフィアなどの犯罪組織に属さない有名な大物犯罪者アルヴィン・カービスにギターの手ほどきを受けたそうです。 またマンソンは当時オーディションでメンバーを募集していた「ザ・モンキーズ」のメンバーに応募して落ちたともいわれています。
「ザ・モンキーズ」のメンバーは最初から決まっていたとされていますが、ここにマンソンが居たかも知れないと思うと・・・。
http://youtu.be/RUZeZ1e441A
1967年に釈放されたマンソンはサンフランシスコへ向かいます。 街角に立ちギターをかき鳴らして歌を歌うだけで十分に稼げ、自然と女の子が彼の周りに集まってきました。 彼も時代が望んだヒッピー像を意識し、キリストに似せるよう念入りに髪と髭の手入れもしていたし、彼が生まれ育った独特の背景と刑務所の中で学んだ聖書の知識とをもってすれば20歳前後の中産階級出の娘を手なずけるのは簡単なことでした。
マンソンは言う。 「自分自身にたち戻れ、自分を愛せ、ただし我欲は捨てろ。物質的なものにまどわされるな。快く感じられるもの、自分を満足させてくれるもので、悪いものは一つもない。いまを生きろ。昨日は忘れ、明日のことはあまり思いわずらうな。愛はみんなもの、分かち合うべきものだ」 マンソンは「そのままの君でいいんだ」と言って相手のコンプレックスを解きほぐしていったのです。(これらの言葉は実は悪魔の囁きなのですよ! 皆さんも騙されない様に気をつけて下さい! by管理人)
スーザン・アトキンス(当時19歳)は家出娘でしたが彼女は忽ち彼に帰依してファミリーの一員に加わりました。 マンソンに対して絶対服従を誓っていたスーザン・アトキンスは後にファミリーの中でももっとも恐れられた女となり、実行犯の中心的メンバーの一人になります。 また彼女はマンソンから「Sadie Mae Glutz」という名前をもらいますがこの名前は後々大きな意味をもってきます。
スーザン・アトキンス(脳腫瘍のため2009年刑務所で死去)
1968年の春、マンソン・ファミリーの女性がヒッチハイクをしているとそこを偶然通りかかったビーチボーイズのドラマー、デニス・ウィルソンが彼女達を拾い上げたのがきっかけでデニスとマンソンが結びつきます。 デニスは後にマンソン・ファミリ-を彼の屋敷に住まわせたりしますが彼はグループのリーダーであるブライアン・ウィルソンの実弟で、そのハンサムな 風貌でグループでは一番の人気者でした。 ビーチボーイズはサーフィンをウリにした歌で脚光を浴びましたが、実際にサーフィンをやっていたのはデニスだけであり、才能はあるが無愛想な天才、若禿げ、チビ、 デブという他のメンバーに比べると、ハンサムで本物のサーファーだった彼はなかなか豪気な性格だったようです。 しかし彼は同時にグループ内の問題児でもあり1983年に泥酔して水死しています。
http://youtu.be/22O9r88H-NE
この時期はちょうどビーチボーイズのリーダーであり天才的な音楽の才能の持ち主である兄のブライアン・ウィルソンがプレッシャーから精神に異常をきたしていた為、デニスがブライアンの変わりにバンドの重要な作曲家となっていた時でした。 作詞・作曲をし音楽的なセンスもあった(?)マンソンとヒッピ-達に興味を持ったデニスは、コロムビア・レコードのプロデューサー=テリー・メルチャーに彼を紹介したり、彼の自作曲のレコーディングに協力したり、共に楽曲の共作まで行っています。
後にデニスの曲を多数作詞したグレッグ・ジャコブソンはマンソン・ファミリー(マンソン・パッケージと呼んでいた)のライフスタイルや芸術性(?)にほれ込み彼らのレコーディングに協力したり寄付をしたりしました。
ビーチボーイズの『Friends』『20/20』に収められている「Little Bird」はデニスのデビュー作でもありますが、他に「Be Still」「Never Learn Not To Love」などが2人の共作曲といわれております。 以下の動画はデニスが「Never Learn Not To Love」を歌っているところですが、この曲の詩はもともとマンソンの作った曲をベースに、その後ビーチボーイズのアルバムに収録される時にメローディーと詩を書き換えたものです。
http://youtu.be/MGmUESMQOgY
マンソンによるオリジナル曲
http://youtu.be/WRObQ3AojC0
しかし、マンソン・ファミリーに物は盗まれるわ、金は使われるわ、フェラーリは大破させられるわ、とさすがにデニスもあきれ、彼らに対する熱も次第に冷めてきます。 デニスはやがて屋敷を売り払ってしまい、マンソン・ファミリーは居場所がなくなってしまいます。 ちなみにこの時期にはデニスの紹介で後にマンソンの右腕ともなり、数々の殺人を犯す実行犯の主犯ともなるテックス・ワトソンがファミリーに加わっています。
テックス・ワトソン(終身刑)
デニスの家を追い出され、レコード・デビューの話も立ち消えとなった彼らはこの時既に20人近くのファミリーになって居り、彼らは中古のスクールバスに乗って新天地を求めます。
この旅立ちを彼らはビートルズの曲に掛けて「マジカルミステリー・ツアー」と呼んだりしたそうです。
http://youtu.be/jVkF6ud5Pms
記事が長すぎたみたいで文字数オーバーになってしまいましたので前編と後編に分けます。 この続きは1時間後にアップしますので少々お待ちください。











