清々しい晴天の続く新年となった。
真冬は、大気が澄み星が美しく輝く。
お昼間は日向ぼっこしたくなるほど、お日さまの光があたたかく感じられる。
残念なことに、白内障の手術後の私の右眼には、光が眩しく映る。
左眼は手術をしないままでいるが、脳の視覚野が適応したのか、視力は、充分に回復したのが嬉しい。
右眼と左眼がそれぞれの欠点を補いあって、上手にバランスをとって働いてくれているようで、普段は疲れ目にならない限りは、メガネをかける必要が無くなっている。
単焦点レンズで少し遠視になったが、人工レンズの左眼の視力は、集中すると針の孔に糸が通せるまでに回復している不思議な現象もある。
手術後の左眼の日常生活での不自由は、光が気持ち悪く映るようになったことだった。
特に夜景を見る時に、この現象がはっきりと自覚できる。
私の左眼は、光の取り込み具合が苦手になったようで、これが、目下の疲れ目の一番の原因となっている。
ひとつひとつの光がキラキラと放射線を放つ。
時には、ひとつの光がクリスマスツリーのように三角形に拡大して輝くという奇妙な光景が映るので、それらの光に驚いて困惑することもある。
この異常な光の映像を観ることは、最初はかなり辛かった。
が、最近は慣れも出て来たのか、夜景を眺める時は左目が優位に働らくようになったらしく、どうにか許容範囲に収まってくれた。とは言え、突然視界に現れる星の爆発やクリスマスツリーには未だ驚く時があるし、ギラギラとした夜景の鑑賞は、私にとっては、かなり疲れるようになってしまった。
車を運転する時も、夜間でも、眩しい光線を遮る特殊なサングラスを掛けることにしている。裸眼で運転するとかなり疲れを感じるのは、脳が入力される光を頑張って上手に処理してくれているからかしらと思う。
さて、昨年の12月に、久しぶりに美術展を楽しむ機会があった。
コロナ以降、感染症が大流行りのここ数年、美術芸術展にも来訪を自粛していた。というか、国内で観ることが出来る自分の見たいものの多くは、若い時期に見尽くしたという感がある。
60歳に近づいた年代になって以降、それまでに観たアート作品が放つ時を超えたspiritのような何かを感じる能力が、少し衰退して来たことを感じていたこともある。
とはいえ、今回は、モネが晩年に描いた睡蓮の一枚が来訪していると聞いたことから、コロナもインフルも感染者数が減っている時期を狙って、訪ねることにした。
高校時代、美術部で絵画を描いていた私は、印象派を好んでいた。
ルノワールとモネの絵画に描かれた光に心惹かれ、自分もそれに近い作品を描こう・と、筆をとっていた時代だった。
モネは、晩年、白内障を患っていたと言う。
その彼の視力で描いた睡蓮の絵画を、観たくなったのだ。
偶然にも、私は、左目に白内障を持っている。本来は、オランジェリー美術館に展示されている睡蓮が見たかったのだけど、コロナ以来欧州の事情も変わったようで、現地に住まいしている遠縁の話では、あと10年は以前のような状況には戻らないと伝え聞くから、生涯において現地に旅ができるかどうかは心許ない。私が、右眼だけの白内障の手術を選択したのは、実は、白内障の瞳で、モネの晩年の作品を見たいという希望もあったからだった。
美術館の設備はこの半世紀の間に、非常に巧に様々な演出効果が周到した設えになった。
しかし、今回の美術展では、案の定、感受性豊かな若い時期に感動に満ちて観た絵画が、単なる絵画と目に映る感覚の移ろいに私は戸惑いと失望を覚えた。
この感性の衰退は、一体どうしたものか?
自身がアートの世界から遠ざかったからだろうか?
それだけが原因というよりも、感覚と感受性の衰えが自覚されるお年頃に至っていることを自覚せざるを得なかった。
あれほど憧れた印象派の絵画のきらめきが、私の感性の中で、もはや色褪せた感覚が、たまらなく寂しかった。
待望のモネの睡蓮の絵画を前にしても、さほどの感激は無かった。
感受性豊かな年代に、実際に直接見ておかなければ、時を逸するものは多くあることが痛感された。
試みに、私は片手で右眼を覆った。
すると、
なんということだろう!
今まで見たモネの睡蓮とは段違いの水面に浮かぶ睡蓮が、得も言えぬ香気を放って私の左眼に浮かび上がった。そよぐ風の匂い、池の水面に移る晴天の雲の流れ、周囲の樹木のそよぎ・・・
その感動は、一枚の絵画の中に、これまで見たことのない夢のような世界を見させてくれるに充分だった。
どれくらいの時間だったか、私は、とても、とても長い時間、その光景を眺めていた。
ふと、入口に戻って、私は左眼の視力を意識して、それぞれの作品を眺め直すことにした。
そこに展示されていた絵画のそれぞれは、最初に眺めた単なる絵画展に飾られた絵・ではなく、描写された景色が、きらめく光の色彩を発してそれぞれに素晴らしい光景となって私の感性を蘇らせてくれた。
印象派の絵画の魅力は、白内障の眼を持った時にその真髄が見えると言いたくなるほど、素晴らしい絵画展の鑑賞となった。
今、このパソコンのディスプレイを見ているのは、私の右眼の視力が優位になっている。
左眼の視力だけを意識すると、ホワイトアウトするから、私の左眼の白内障は以前より進行していることがよく分かる。眼鏡を作ろうと眼鏡市場に立ち寄った時、店長が、左眼は眼鏡で調節しても充分な視力が出ないと正直に話して下さったことがあって、眼鏡は諦めることにしたから、普段の私の視力は、右眼に負うことが多い。
このアンバランスからか、以前と同様にパソコン仕事を8時間ほど続けると、左眼は、ますます霞んで、眼精疲労が嵩じて片頭痛まで感じるようになった困った現実もある。
だけど、私には、未だ、この自然な眼のままに見たい光景がある。
片眼しか手術しなかったことを、何故?と問われることも多い。
最初は、術後の見え方が分からないのだから、片方が上手くいったら、もう片方もとも思っていたが、まるで、「こんにちは、グレア!&スターバースト!」と挨拶されたかのように、右眼にそれらの症状が発症したことで、片眼だけにして本当に良かったと思っていた。が、もうひとつ、かけがえのない大切な自然が、今尚、私の視界に宿っていることの喜びは殊の外大きい。
友人のお一人に、出産時の事故で片眼の視力を失くした人がおられる。
米国滞在の長かった彼は、何度か角膜移植を受けているが、充分な視力は戻らない。だが、片眼がブラックで片眼がグレーのミックスであることが、エキゾチックな彼の容姿の魅力を倍増しているハンサムガイだ。
父のバイオグラフィーの資料探しで、国会図書館で在りし日の大伯父の容姿の描写の記録があった。
大伯父の晩年は、その風貌から独眼竜と呼ばれていて、一見自論を曲げない風情であったが納得ゆく説明を受けると案外簡単に自論を訂正する柔軟性豊かな、ちょっと天然と言いたくなるようなお人柄であったと言う。大伯父の60代後半の描写であるから、当時から、大伯父にもおそらく白内障が進行していたのだろうと思う。
私の父母もまた、白内障を宿していた。母は手術嫌いだったので、途中で眼鏡を掛けていたが特に不自由はなく終生そのままであったし、父は60代に片眼だけを手術し、秀でた武道家としての能力を体得していた彼もまた何らかの不具合を直感したようで、もう片方はそのまま行くと断言していたことが思い出された。
友人や父母の事例を知らなかったら、もしかしたら、私は安易に両眼を手術していたかもしれないことを思うと、この世で頂くご縁と交友には、尽きせぬ感謝の気持ちが絶えることはない。
願わくば、私もこのままで生涯を送れたらと思う。
眼科的には、特に異常は無さそうであるし、折角、私の脳が使い慣れて来た右眼のレンズを入れ替えれば、脳に新たなトレーニングが必要とされるかもしれない。
今思えば、左眼の手術の時は、私は迂闊にも何ら研究せずに手術を受けてしまったが、左眼が霧に閉ざされる頃には、次回は、グレアやスターバーストが発症しない優れたレンズの選択をしっかり考慮して、また、改めて考えればいいことだと思っている。
人生には、様々な災難や傷病や不幸や悩みが次々にやって来る。
恩師の言葉が、思い出される。
「大きな山を越えた時、目の前には更に大雄峰が聳え立つ」
今なら、恩師に私はこう応えるだろう。
「どんな大雄峰にも私は一歩一歩歩みを進めます。周囲は自然の祝福に満ちているのですから。それが自然(じねん)ではないでしょうか。」
年を重ねる毎に、私は「わがまま」になりたいと思う。
今年も、もうすぐ花の季節が来る。
樹齢200年を越える庭の梅は、枝は折れ樹勢も随分衰弱している。
それでも、今年も「思いのまま」に花が咲き、馥郁とした香りを漂わせるだろう。
真冬は、大気が澄み星が美しく輝く。
お昼間は日向ぼっこしたくなるほど、お日さまの光があたたかく感じられる。
残念なことに、白内障の手術後の私の右眼には、光が眩しく映る。
左眼は手術をしないままでいるが、脳の視覚野が適応したのか、視力は、充分に回復したのが嬉しい。
右眼と左眼がそれぞれの欠点を補いあって、上手にバランスをとって働いてくれているようで、普段は疲れ目にならない限りは、メガネをかける必要が無くなっている。
単焦点レンズで少し遠視になったが、人工レンズの左眼の視力は、集中すると針の孔に糸が通せるまでに回復している不思議な現象もある。
手術後の左眼の日常生活での不自由は、光が気持ち悪く映るようになったことだった。
特に夜景を見る時に、この現象がはっきりと自覚できる。
私の左眼は、光の取り込み具合が苦手になったようで、これが、目下の疲れ目の一番の原因となっている。
ひとつひとつの光がキラキラと放射線を放つ。
時には、ひとつの光がクリスマスツリーのように三角形に拡大して輝くという奇妙な光景が映るので、それらの光に驚いて困惑することもある。
この異常な光の映像を観ることは、最初はかなり辛かった。
が、最近は慣れも出て来たのか、夜景を眺める時は左目が優位に働らくようになったらしく、どうにか許容範囲に収まってくれた。とは言え、突然視界に現れる星の爆発やクリスマスツリーには未だ驚く時があるし、ギラギラとした夜景の鑑賞は、私にとっては、かなり疲れるようになってしまった。
車を運転する時も、夜間でも、眩しい光線を遮る特殊なサングラスを掛けることにしている。裸眼で運転するとかなり疲れを感じるのは、脳が入力される光を頑張って上手に処理してくれているからかしらと思う。
さて、昨年の12月に、久しぶりに美術展を楽しむ機会があった。
コロナ以降、感染症が大流行りのここ数年、美術芸術展にも来訪を自粛していた。というか、国内で観ることが出来る自分の見たいものの多くは、若い時期に見尽くしたという感がある。
60歳に近づいた年代になって以降、それまでに観たアート作品が放つ時を超えたspiritのような何かを感じる能力が、少し衰退して来たことを感じていたこともある。
とはいえ、今回は、モネが晩年に描いた睡蓮の一枚が来訪していると聞いたことから、コロナもインフルも感染者数が減っている時期を狙って、訪ねることにした。
高校時代、美術部で絵画を描いていた私は、印象派を好んでいた。
ルノワールとモネの絵画に描かれた光に心惹かれ、自分もそれに近い作品を描こう・と、筆をとっていた時代だった。
モネは、晩年、白内障を患っていたと言う。
その彼の視力で描いた睡蓮の絵画を、観たくなったのだ。
偶然にも、私は、左目に白内障を持っている。本来は、オランジェリー美術館に展示されている睡蓮が見たかったのだけど、コロナ以来欧州の事情も変わったようで、現地に住まいしている遠縁の話では、あと10年は以前のような状況には戻らないと伝え聞くから、生涯において現地に旅ができるかどうかは心許ない。私が、右眼だけの白内障の手術を選択したのは、実は、白内障の瞳で、モネの晩年の作品を見たいという希望もあったからだった。
美術館の設備はこの半世紀の間に、非常に巧に様々な演出効果が周到した設えになった。
しかし、今回の美術展では、案の定、感受性豊かな若い時期に感動に満ちて観た絵画が、単なる絵画と目に映る感覚の移ろいに私は戸惑いと失望を覚えた。
この感性の衰退は、一体どうしたものか?
自身がアートの世界から遠ざかったからだろうか?
それだけが原因というよりも、感覚と感受性の衰えが自覚されるお年頃に至っていることを自覚せざるを得なかった。
あれほど憧れた印象派の絵画のきらめきが、私の感性の中で、もはや色褪せた感覚が、たまらなく寂しかった。
待望のモネの睡蓮の絵画を前にしても、さほどの感激は無かった。
感受性豊かな年代に、実際に直接見ておかなければ、時を逸するものは多くあることが痛感された。
試みに、私は片手で右眼を覆った。
すると、
なんということだろう!
今まで見たモネの睡蓮とは段違いの水面に浮かぶ睡蓮が、得も言えぬ香気を放って私の左眼に浮かび上がった。そよぐ風の匂い、池の水面に移る晴天の雲の流れ、周囲の樹木のそよぎ・・・
その感動は、一枚の絵画の中に、これまで見たことのない夢のような世界を見させてくれるに充分だった。
どれくらいの時間だったか、私は、とても、とても長い時間、その光景を眺めていた。
ふと、入口に戻って、私は左眼の視力を意識して、それぞれの作品を眺め直すことにした。
そこに展示されていた絵画のそれぞれは、最初に眺めた単なる絵画展に飾られた絵・ではなく、描写された景色が、きらめく光の色彩を発してそれぞれに素晴らしい光景となって私の感性を蘇らせてくれた。
印象派の絵画の魅力は、白内障の眼を持った時にその真髄が見えると言いたくなるほど、素晴らしい絵画展の鑑賞となった。
今、このパソコンのディスプレイを見ているのは、私の右眼の視力が優位になっている。
左眼の視力だけを意識すると、ホワイトアウトするから、私の左眼の白内障は以前より進行していることがよく分かる。眼鏡を作ろうと眼鏡市場に立ち寄った時、店長が、左眼は眼鏡で調節しても充分な視力が出ないと正直に話して下さったことがあって、眼鏡は諦めることにしたから、普段の私の視力は、右眼に負うことが多い。
このアンバランスからか、以前と同様にパソコン仕事を8時間ほど続けると、左眼は、ますます霞んで、眼精疲労が嵩じて片頭痛まで感じるようになった困った現実もある。
だけど、私には、未だ、この自然な眼のままに見たい光景がある。
片眼しか手術しなかったことを、何故?と問われることも多い。
最初は、術後の見え方が分からないのだから、片方が上手くいったら、もう片方もとも思っていたが、まるで、「こんにちは、グレア!&スターバースト!」と挨拶されたかのように、右眼にそれらの症状が発症したことで、片眼だけにして本当に良かったと思っていた。が、もうひとつ、かけがえのない大切な自然が、今尚、私の視界に宿っていることの喜びは殊の外大きい。
友人のお一人に、出産時の事故で片眼の視力を失くした人がおられる。
米国滞在の長かった彼は、何度か角膜移植を受けているが、充分な視力は戻らない。だが、片眼がブラックで片眼がグレーのミックスであることが、エキゾチックな彼の容姿の魅力を倍増しているハンサムガイだ。
父のバイオグラフィーの資料探しで、国会図書館で在りし日の大伯父の容姿の描写の記録があった。
大伯父の晩年は、その風貌から独眼竜と呼ばれていて、一見自論を曲げない風情であったが納得ゆく説明を受けると案外簡単に自論を訂正する柔軟性豊かな、ちょっと天然と言いたくなるようなお人柄であったと言う。大伯父の60代後半の描写であるから、当時から、大伯父にもおそらく白内障が進行していたのだろうと思う。
私の父母もまた、白内障を宿していた。母は手術嫌いだったので、途中で眼鏡を掛けていたが特に不自由はなく終生そのままであったし、父は60代に片眼だけを手術し、秀でた武道家としての能力を体得していた彼もまた何らかの不具合を直感したようで、もう片方はそのまま行くと断言していたことが思い出された。
友人や父母の事例を知らなかったら、もしかしたら、私は安易に両眼を手術していたかもしれないことを思うと、この世で頂くご縁と交友には、尽きせぬ感謝の気持ちが絶えることはない。
願わくば、私もこのままで生涯を送れたらと思う。
眼科的には、特に異常は無さそうであるし、折角、私の脳が使い慣れて来た右眼のレンズを入れ替えれば、脳に新たなトレーニングが必要とされるかもしれない。
今思えば、左眼の手術の時は、私は迂闊にも何ら研究せずに手術を受けてしまったが、左眼が霧に閉ざされる頃には、次回は、グレアやスターバーストが発症しない優れたレンズの選択をしっかり考慮して、また、改めて考えればいいことだと思っている。
人生には、様々な災難や傷病や不幸や悩みが次々にやって来る。
恩師の言葉が、思い出される。
「大きな山を越えた時、目の前には更に大雄峰が聳え立つ」
今なら、恩師に私はこう応えるだろう。
「どんな大雄峰にも私は一歩一歩歩みを進めます。周囲は自然の祝福に満ちているのですから。それが自然(じねん)ではないでしょうか。」
年を重ねる毎に、私は「わがまま」になりたいと思う。
今年も、もうすぐ花の季節が来る。
樹齢200年を越える庭の梅は、枝は折れ樹勢も随分衰弱している。
それでも、今年も「思いのまま」に花が咲き、馥郁とした香りを漂わせるだろう。